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聞き分ける心を下さい (列王記上3:4~15)

メッセージ

2012年8月5日富里キリスト教会
「聞き分ける心をください」
(列王記上3:4~15)

1.わたしは取るに足らない若者です

3:7節から読んでみましょう。
「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきか知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」(列王記上3:7~9)

まず最初に、ソロモンはこの夢の中で、自分のことを「取るに足らない若者だ」と言っています。偉大な父ダビデの子として、信仰を持って父に従い、その後継者として国の内外にも王としての地位を確立したソロモンです。イスラエルの国は、当時ユーフラテス川からエジプトの国境まで広大な領地を擁し、国の経済産業も大いに発展しました。イスラエルの黄金時代、最盛期を迎えたと言っていいと思います。

しかしその王が、神様の前に「わたしは取るに足らない若者で、どうしていいかわかりません。」と言っているのです。私は、あのソロモンの知恵の源はここにあるのではないかと私は思います。いわば青二才の若者にすぎませんと言っているのです。口語訳聖書では「わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。」となっています。自分は子供だと言っているのです。未熟なもので、「出入りすること」を知りません。これは、民の先頭に立ってみんなを指導することができませんということです。

つまり、ソロモンの知恵の出発点は、自分は何もできない子供のような無知で未熟な人間ですということを、素直に受け止めるところから始まっているのではないでしょうか。王としての品格、勇気、知識を自分は持っていないということを認めるところから真の王としての品格が備わって来るのではないかと思います。もし、自分が王の品格の能力もないのに、一生懸命、王様になろうとしているとしたら、その人はおそらくノイローゼになってしまうのではないでしょうか。私たちは神様の前には、何もできない子供のようなものなのです。そしてそれでいいのです。そういう自分を認めることができたとしたら、どんなにか安心するでしょうか。そしてそこから本当の霊的な成長が始まります。

こういう短い詩があります。「人間はねえ、人から点数をつけられるためにこの世に生まれて来たのではないんだよ。人間が先、点数は後。」(相沢みつを)まず人間であることが第一だということです。もし自分の欠点や不十分な点があるならば、それを隠すことなく、「自分は子供です。まだまだ、若僧で何もわかりません。」ということです。特に、神様に対しては、みんな子どもです。ソロモンであろうが、ダビデであろうが、サウルであろうが、シムイであろうが、大事なことは神様の前に、「子供です、何にもわかりません、何にもできません、神様、わたしにない物をください」と祈ることではないでしょうか。ですから、イエス様はこう言いました。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)と。

2.聞き分ける心を

二番目に大事なことは、ソロモンが神様に求めたのは、王として多くの民を裁くために、「わたしに聞き分ける心」を与えて下さいと祈りました。自分に欠けているもの、自分に足りないもの、自分に今必要なものが解ったら、後は簡単です。それを神様に求めればいいのですから。皆さんは自分が何が足りないと思っていますか。自分はどんな点がまだ未熟だと思っていますか。それが解ったら、その人はもう信仰のゴールドメダリストです。信仰生活の80%は成就しています。

ソロモンが、自分に欠けていて、今自分に必要なものは何かを知っていました。それは、「聞き分ける心」です。英語では「discerning heart」となっています。これは善悪を識別する、見分けるという意味です。ソロモンは、これが一番欲しいのですとイの一番に言いました。皆さんでしたら、もし神様が皆さんに「何でも願いなさい。あなたに与えます。」と言ったら何を求めますか。健康を求めますか、長生きすることを求めますか。老後の生活の安定を求めるでしょうか。

パウロ先生も同じように、手紙の中で私たちがどうなって欲しいのか、一番願っていることは、やはりこの「聞き分ける心」を私たちが与えられるようにと祈っています。そのことを手紙の中で、何度も何度も繰り返して語っています。
そして私も、皆さんがクリスチャンとなってこうあって欲しいということはこのことです。すなわち、「聞き分ける心」を持つクリスチャンになって欲しいということです。

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・
キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(フィリピ1:9~11、P361)

パウロ先生も、私たちの内なる人が強められて、何が正しいことか間違っているかを判断できるようになること、このとこをいつも祈っています。そして、私も皆さんがそのようになってほしいと願わずにはいられません。何よりも、善悪を識別して良し悪しを判断できるクリスチャンになることです。もちろん、教会の奉仕に熱心になることも、多くの魂を救いに導くことも、すばらしいことですが、それ以上に、いやその根本に聞き分ける心を持つことが一番大切であり、パウロも私もそのことのために日々苦労していると言ってもいいかも知れません。

3.主の喜ばれる祈り

そして、この求めが神様の御心に適いました。3:11からを読んでみましょう。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(3:11~14)

ソロモンが、聞き分ける心をくださいと祈った時に、主は、それ以外にも富も栄光も長寿をも添えて与えられたのでした。もし私たちが、長生きを求めたらそれだけでしょう。百歳以上生きるかもしれません。富を求めたらそれもいいでしょう。大富豪になるかもしれません。でも、神様は、ソロモンがこの聞き分ける心を求めたことによって、他の祝福も全部おまけして与えられたのです。

ですから、私たちが「何が欲しいか」と聞かれることによって、その人の信仰が問われていることになります。私たちが第一に求めるべきものがあるのです。つまり、第一に求めるものは、この「聞き分ける心」なのです。これが私たちの生涯の中で一番大事なものであり、イの一番に求めなければならないものではないでしょうか。イエス様も言いました。「まず第一に、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、他のものは添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

神様は、私たちが「聞き分ける心」を求めることを一番喜ばれました。長生きでもなく、お金でもなく、敵を滅ぼすことでもなく、ただ主の御声を聞き、何が正しいのか、何が間違っているのか、どうしたら神様が喜ばれるのかを第一に考え判断することです。「主を畏れることは知恵の初めである。」(箴言)1:7)という言葉があります。

常に主を前において歩む人生、主を畏れ敬いつつ、その御声に聞き従って行くことができるようになること、これが私たちクリスチャンの目指す人生の目標であり、願いではないでしょうか。「わたしは子供にすぎません。若輩者です。ですから、主よ、わたしに聴き分けることのできる心を与えて下さい。」そのような祈りを持って歩んでゆきたいと思います。         (岡田 久)

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