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聖霊を受けよ (ヨハネ20:19~23)

メッセージ

2014年4月27日富里キリスト教会

聖霊を受けよ」
(ヨハネによる福音書20:19~23)

1.恐れて閉じこもっていた弟子達

「その日、即ち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:19~20) 

「その日、週の初めの日の夕方」とあります。つまりイエス様が復活した日です。朝早く、ペテロとヨハネは墓に行って空の墓を見ました。そして、主が復活したことを信じました。その後、マリアが実際に復活の主に出会いました。そして、ペテロたちのところに行って、「わたしは主を見ました」と告げました。このように、イエス様が復活されて、空の墓を見て、マリアが復活したことを知らせたにもかかわらず、弟子たちはどうしていたでしょうか。主が預言したとおり死んでから三日目の復活の日なのです。おめでたい日です。預言が成就した日なのです。

それにもかかわらず、彼らがしていたことと言えば、「ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていた」とあります。今でしたら、イースターのおめでたい日です。朝から卵探しをしたり、午後は午後で楽しい愛餐会が待っている日です。でも、最初のイースターは恐れと不安の日でした。どうしてでしょうか。ペテロもヨハネも空の箱を見て信じたんです。マリアの証しを聞きました。それでも彼らは、家に鍵をかけて、閉じこもって戦々恐々としていたのです。引きこもり状態です。なぜ彼らは復活を信ぜず、恐れて引きこもっていたのでしょうか。

「一日一章」を書いた「ちいろば先生」こと、榎本保郎先生は今日の聖書箇所でこう言っています。「空の墓を見たと言うだけでは信仰にならない。復活を単なる不思議な経験で片づけてしまうことが多い。聖書を読まなければ、そういう不思議な出来事で終わってしまい、いつまでたっても私たちの信仰は確立されてこない。聖書を読み、聖書から物事を見ていくと、初めて復活の持っている意味を知ることができるのである。・・・また、信仰が自分たちの中の恐れを取り除く力になって行かないのは、聖霊を受けていないからである。」(「一日一生」ヨハネ20:22から)と。

私たちクリスチャンの中に、まだ不安とか恐れが残っており、家の鍵をかけるだけではなく、自分の心にも鍵をかけて心を閉ざしてしまうことがあるならば、それはまだ、復活の主に御言葉と聖霊様を通して真に出会っていないからではないでしょうか。人の目を気にしたり、相手を意識して競争したり、恐れたり、争ったり、心を閉ざしてしまったりすることはないでしょうか。

先週も八街SGで、エマオ途上の旅人に姿を変えたイエス様と出会った二人の弟子の話でした。イエス様がいくら聖書をはじめから最後まで全体にわたって説明しても、まだ復活したことが信じられませんでした。しかも目の前で、話している方がイエス本人であったにもかかわらずです。イエス様もあきれて、「嗚呼!物分かりが悪い。心が鈍い者たちよ!」とため息交じりに言っています。

なぜか。それは聖霊も知らないし、聖霊を受けていないからです。心が鈍いのです。御言葉が事実であり、本当だということがまだ解っていないのです。ですから、私たちも常に心の内側を聖霊で満たして、神の愛によって熱くしておくことです。そのことによって自分の内側の心の曇りが取れてきます。聖霊によって心を燃やすことです。後でイエス様が、二人の弟子に「あの時、一緒に聖書を学んだ時、お互いの心が燃えたではないか。」と言いました。御言葉を通して心が燃えるような経験をすることです。これが復活の主と出会うということです。

そして、この聖霊によって、初めて御言葉が解ります。聖霊によって導かれ、聖霊に教えられた御言葉を通して主の復活というものを確信して行かない限り、私たちの信仰が確立して行かないのです。復活ということは、科学や証明では捉えることのできないものです。聖書を聖霊の力によって、読み取ることです。これは神の霊によって初めて確信を持つことができるものだからです。この主の復活と言う出来事は、聖書の他の記事から見ても、聖霊の働きによって御言葉から復活を悟るということに尽きるのではないでしょうか。目で見る復活ではなく、御言葉を通して悟る復活信仰です。

2.イエスが来て真ん中に立った

今日の個所に戻りますが、弟子たちが、戸締りをし、鍵もしっかりかけておいたのに、そこに復活の主が入って来られました。復活されたイエス様の体は、生前のように、肉体を持っている体ではありません。霊の体に変えられました。そして、家の壁もドアのこのイエスの霊の体を防ぐことができません。復活のイエス様は、霊の体ですから、どこでも自由に出入りができるのです。私たちがいくら、頑丈なカギを作っても、オートロックのドアにしても、それをすり抜けて入って来られるお方です。

そしてこの集会の真ん中に立ってくださるのです。そこで弟子達に「平安があるように」と言って、手とわき腹を見せてくださいました。復活されたイエス様は、霊の体ですけれども、あの十字架に架けられた時につけられた手の釘の跡と、刺されたわき腹の傷を弟子たちに見せられたのです。間違いなく、あの十字架に架かって死んだわたしが甦ったのだということを知らせたのです。「弟子たちは、手に傷を持った主の姿を見て喜んだ」とあります。

今日のこの礼拝の真ん中にイエス様が来て立たれたのです。それは、私たちの罪のために十字架に架かって死んでくださり、三日目に甦ったことによって、私たちの罪と死に勝利されたお方だということを示されたのではないでしょうか。このお方が、この礼拝の、そして教会の中心に立ってくださったのです。ここに、イエス・キリストの教会の基礎があり、今日はこのお方が中心であるということの故に、キリストのからだである教会となるのではないでしょうか。

別な言葉で言うと、イエス・キリストを真ん中において、礼拝したということです。しかも、十字架に架けられたお方を、私たちの中心において、みんなで十字架の主を見上げ、主を仰いで礼拝すること、これが真ん中に立つということです。私たちが中心ではなく、中心はあの十字架に架かられ復活されたお方なのです。私たちが、何とか当局の手を逃れて、生き残ろうとしたり、どうしたらみんな無事に生き延びることができるだろうかと考えている限りは、恐れと不安でいっぱいだと思います。

でも、教会の中心はイエス・キリストです。教会のオーナーも教会の責任者もイエス・キリストなのです。これが「イエスが真ん中に立つ」ということではないでしょうか。そしてまた、私たちの心の真ん中にも立って下さるお方です。心の中が、畏れや不安や心配でいっぱいの人はいませんか。そのあなたの恐れの心の真ん中にイエス様が立たれるのです。そして「平和があるように」と言って下さいます。「シャローム」と言う言葉ですが、「平安」とも訳せます。ユダヤ人の挨拶の言葉です。

そして何よりの嬉しいこと喜ばしいことは、主の復活によってわたしたちの罪と死に主が勝利して下さったということです。もはや私たちを縛っている死の恐怖、罪の恐れはなくなりました。勝利された主が教会の中心ですから。これからも私たちは、この甦りの主を見上げて歩んで行きたいと願っています。

3.聖霊を受けなさい

最期に、復活された主は、弟子達の息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。復活されたイエス様は、ただ単純に「聖霊を受けなさい」と言われました。あまり細かいことは言いませんでした。なぜなら聖霊様がすべてのことを教えてくれるからです。真理の霊ですから、この聖霊を受けさえすれば全てが解って来ます。ヨハネ14:17(P197)を読んでみてください。

「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(14:17)と主は言っています。ですから、イエス様が息を吹きかけて、聖霊を受けなさいと言ったら、私たちはただ単純に素直に、聖霊を受けますと言えばいいのです。聖霊様も人格を持っておられますから、私たちが拒めばいくら聖霊様でも入ることは出来ません。

この世の人々は、この聖なる神の霊を見ようとも、知ろうともしないので受けることができないとイエス様は言いました。皆さんはいかがですか。聖霊様を見ようとしていますか、知ろうとしていますか。聖霊様に聞こうとしていますか。後ろの壁にはいつも、「Hear the Spirit !」と言う言葉が掲げてあります。「聖霊に聞きなさい、教会よ!」と言う黙示録の御言葉です。

でも、私たちは既に聖霊を受けており、心の中に聖霊様がおられます。私たちは皆、聖霊を受けたから、「イエスは私の主です。わたしの罪の身代わりになって十字架で罪を贖って下さいました。」と告白して信仰に入りました。これを告白させて下さったのが聖霊様の働きなのです。誰も聖霊によらなければ、イエスは私の主であるとは告白できないのです。(Ⅰコリント12:3)皆さんはすでに聖霊を受けているのです。ですからこの真理の御霊を、慰め主なるお方を、更に求めもっと深く聖霊の働きについて知っていただきたいのです。それが、「聖霊をもっと受けよ。」と言われて息を吹きかけて下さった主の言葉です。

もし「わたしも復活の主に出会いたい。イエス様が今も生きておられることを、もっと確かなものとして体験したい。」と願うなら、今日、主の息をいっぱいに受けて聖霊に満たされて、御言葉を持って出かけて行きましょう。私たちが行って、そこで「本当に主は甦られた。今も生きています。」と証しをするならば、そこに復活の主が現われてくださいます。復活の主は、私たちの証しの場に、私たちが宣教する時に、そこに現われて共に働いて下さるのです。私たちが伝道する時に、現われてくださるのです。あるいは、来週の礼拝に疑っている人やまだ信じていない人を誘いましょう。           (岡田 久)

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