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聖霊を受けなさい (ヨハネ19:19~20)

メッセージ
2020年4月19日富里キリスト教会
「聖霊を受けなさい」
(ヨハネ19:19~20)
1.日曜日毎に出会われる復活の主

さて、先週12日はイースターでした。イエス様が死から復活されてマリアに最初に現れてくださいました。主は今も生きておられます。わたしたちが集まることもできずに、家にこもっていましても、鍵をかけていても、主はいつでもどこでも入って来て下さいます。そしてわたしたちに出会い、「平和があるように」とおっしゃって下さっています。これはシャロームという言葉ですが、平安とも訳されます。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そういって、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:19~20)

週の初めの日と言いますのは、日曜日の朝のことです。イエス様は金曜日に十字架に架かって死なれ、三日目の日曜日の朝に復活されました。ですからこの日に、イエス様は墓の前でマリアに出会い、エルサレムの町を後にしてエマオに向かっていた二人の弟子にも出会いました。それから、エルサレムの町の一室に隠れるようにして集まっていた弟子達にも現れたのです。

このように復活された主は、場所を越えてどこへでも現れます。また鍵がかかっておりましてもドアが閉まっておりましても、霊の体として自由に現れて下さるのです。そして釘を刺されたご自身の手と槍で刺されたわき腹をお見せになって、「平安があるように」とおっしゃって下さるのです。その傷のある主の体を見て、弟子たちは喜びました。

今、わたしたちは日曜日も普通の日もないような日々を過ごしています。子供たちも毎日が日曜日のようなものです。でも主の日を忘れてはいけません。主が復活された日をキリスト教会は、主の日として二千年来守ってまいりました。たとえ全世界の教会が集まって礼拝できなくても、今日は主の日です。主の十字架と復活を感謝して祝う日です。復活されたイエス様は、わざわざご自分の傷跡をお見せになりました。それは只ご自分が復活したということではなく、わたしはあなたの罪のために十字架に架かり、その罪を贖い赦し、罪に勝利して、今も共に生きておられますということを訴えているのです。

私はあなたの罪を贖った、そして今罪と死に勝利して復活しました。だから、自分の罪を悔い改めなさい。そうすれば誰でも罪赦されて、永遠の命を受けることができますということを宣べ伝えているのです。だから安心しなさい、平安でいなさい、心穏やかに平和に過ごしなさいというメッセージなのです。

コロナウイルスが世界に蔓延しているのに、平安がないのに平安があるようにと言っているのでしょうか。いやそうではありません、こういう時だからこそ主にある平安が必要なのです。仕事も勉強もできず家にこもってばかりいて、ただひたすら事態が収まるのを待つしかないわたしたちですが、そういう時だからこそイエス様にある平和、主による平安が必要なのです。また主への感謝を忘れてはいないでしょうか。

それはわたしたちの罪がイエス様の十字架の贖いによって赦されていること、そして既に名前が天国に記されていること、たとえ今コロナに感染して死を迎えたとしても、わたしたちに命はすでに主のもとにあるという復活の希望をいただいているのです。「たとえ死んでも生きる」という復活信仰です。だから安心しなさいと言っているのではないでしょうか。わたしは既に世に刈っている、もちろんコロナにも勝っています。

わたしたちはたとえコロナで死んでも、天国が待っています。死は既に克服されているのです。いや、イエス様の十字架の血潮が、コロナの感染からわたしたちを守って下さるのではないでしょうか。あのエジプトの国の人々を襲った大きな災いが、イスラエルの家の玄関に塗った子羊の血潮を見て、過ぎ越して行ったように、イエスの血潮が疫病からわたしたちを守っていてくださるのではないでしょうか。

コロナの死を恐れる必要はありません。かといって、ライブに行ったり、死んでもいいと言って夜の歓楽街に出かけて行くことをしてはいけません。ただじっとひたすら、忍耐して災いが過ぎるのを待つことが大事なのではないでしょうか。恐れることなく、知識に従って日々を過ごすことです。日曜日に皆と共に集まって礼拝をすることができないことは残念なことでありますが、家々で、時を同じくして主を礼拝できます。復活されたイエス様はどこへでも出かけて行って、お会いして下さいます。わたしたちに手やわき腹の傷を見せて、復活されたことを訴えておられます。主は今も生きておられます。これがイースターメッセージです。そして平安があるようにとおっしゃって下さいます。

2.聖霊と罪の赦し

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけてから言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(20:21~23)

イエス・キリストはわたしの罪のために十字架に架かられ、三日目に復活して今も共に生きておられる。これがイースターメッセージです。キリストの福音です。そして主はわたしたちに、そして教会に罪に赦しを授ける権威を与えられました。「あなたがたが赦せば、その罪は赦される。しかし、あなたがたが赦さなければその罪は残る」という罪の赦しを宣言する権威を教会に与えて下さったのです。罪の赦しを得させる福音宣教の尊い働きです。

そしてそのために、わたしたちにご自分の息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい。」と言われました。英語では、「receive the Holy Spirit」と言っています。聖霊を受けなさい、そうすればこのキリストの復活の証人となることができますと約束して下さっておられます。復活の主と出会うということは、聖霊を信じて聖霊様を受け取らなければなりません。皆さん、聖霊様を信じていますか。今は聖霊の時代です。あのペンテコステ以来、誰にでも聖霊が激しく下されている時代なのです。ですから、後は簡単です。わたしたちの上に降っておられる聖霊様を、素直に求めつつ受け取るだけでいいのです。

そしてこの聖霊を受けなさいと言われた主は、その後に「あなたがたが赦す罪は赦される。赦さない罪は残る」と言われました。つまり聖霊を受けるということと、罪の赦しの宣言はする権威を与えられた者ということです。つまり、聖霊はわたしたちの心の中にある罪を示して下さり、その罪を悔い改めへと導いて下さいます。聖霊を受けるということは自分の罪を主の前に告白し、十字架による罪の赦しをいただいた者ということです。罪の赦しを受けた者にだけ与えられる特権が、相手の罪を赦すことであり、相手の罪を赦さないという権威でもあるわけです。聖霊を受けるということと、罪の赦しは一体です。自分の罪を赦していただかないものが、なぜ相手の罪の赦しを宣言できるでしょうか。赦していただいたから、わたしたちも相手の罪を赦すことができるのではないでしょうか。

わたしたちはこの聖霊によって、イエス・キリストはわたしの罪のために死んでくださり、三日目に甦られ、今も共に生きて下さっておられるということを知ることができるのです。そして復活されたイエス様と出会い、罪赦され、このお方と共に生きることが赦されているものなのです。トマスの「わが主、わが神よ!」という言葉は、自分の罪を認めて主の前にへりくだった者の叫び声です。

ウイリアム・バークレイという聖書学者は、こう言いました。「復活信仰というのは、イエス・キリストについて知ることだけではない、むしろイエスを体験することである。また復活信仰というものは、イエスについて論ずることではない、むしろイエスと生活の中で出会うことである。そしてクリスチャンとはどういう人のことかと言うと、『わたしは主と出会いました。主に罪を赦していただきました』と言える人のことだ」と述べています。

3.見ないで信じる信仰とは

どうしたら復活の主と出会うことができるのでしょうか。またどうしたら聖霊といった目に見えない霊的なものを信じて受け取ることができるのでしょうか。
今も世界はコロナウイルスの話でもちきりです。でも復活されたイエス様は、いつも私たちに背後からその御声をもって語りかけておられます。復活信仰というものは、見る信仰ではなく、聞く信仰です。聞くことから始まります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)とある通りです。

ですから、復活された主は、墓の前で、マリアに後ろからお声をかけられたのです。面と向かって出会われたのではなく、マリアの耳に背後から語りかけました。
「マリアよ」と(ヨハネ20:16)。また、エルサレムの町からエマオの村に向かって帰ってゆく二人の弟子に対しても、復活された主は、一緒に歩きながら、聖書を初めから終わりまで聖書全体にわたって説明されたのです。そうしてやっと二人の弟子の目が開かれました。そうしたらイエス様の姿が消えました。(ヨハネ24:27)復活の主は御言葉をお通して出会われるのです。

復活の主と出会うということは、見て確かめることではありませんし、何か科学的に証明してみせることでもありません。しかし現代人は、証明を求めます。科学的な客観的事実を求めます。12弟子の中にも、ひとり現代人のような弟子がいました。信仰的に熱心ですが、自分の理性や頭で考えて納得しなければ信じないというタイプの人間です。復活なんてそんな空想の世界の出来事だと思っている人です。死んだ人が生き返るはずがないと、科学的なまた医学的な知識をもって信仰をとらえようとしているクリスチャンです。それがトマスという弟子でした。

彼は「自分の目で見て手で触ってみなければ、復活なんて絶対信じない。」と断言しました。「12人の一人でデイドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、他の弟子たちが、『わたしたちは主を見た』というと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」(ヨハネ20:24~25)

イエス様の弟子でありながら、こんなにもはっきりと復活を否定する人も珍しいですね。トマスはイエス様を信じていなかったわけではなく、信じてはいましたが、復活ということが信じられなかったのです。そういう意味では多くのクリスチャンの代弁者のような人です。多くのクリスチャンも、イエス様だけは信じているがどうも復活についてはまだ確信がない、復活のイエス様と出会ったことがないという方が多いのではないでしょうか。

でもはっきり言います。福音の核心は、イエスキリストの十字架と復活、そしてこの復活されたお方と出会ったかどうかです。みんな初代のクリスチャンは出会ったからこそ、地の果てまで復活の証人になって伝道に出かけて行きました。バークレイ博士が言うように、「クリスチャンとは本質的に『わたしは主に会い、罪を赦していただきました』と言える人のことなのです。」主に出会ったからこそ福音を携えて出て行ったわけです。

トマスは、あまりにもはっきりと「信じない」というものですから、主はまた一週間してから再び同じ日曜日にトマスのために、わざわざ現れてくださいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じないものではなく、信じる者になりなさい。」と言いました。そうしましたら、トマスは絶句してしまって、「わたしの主、わたしの神よ」という言葉しか出ませんでした。するとイエス様は、「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである。」(20:27~29)と言われました。

イエス様は復活の主をわたしたちが信じることができるように、このあと40日間にわたって弟子たちにいろんな場面で出会っておられます。いわば苦労して、何とかわたしたちにご自分が復活したことを教えようとされているのです。わざわざ手を見せ、わき腹を見せ、その釘跡を見せてくださっているのです。あとはわたしたちがこの復活の主を真剣に求めればいいのです。このトマスのようにはっきりとノーと言ってもいいです。

信仰とはそういう真実な心です。どこまでも真剣に自分の生き方を問い、聖書を通して神を追い求めて行く求道の心です。その時に、復活の必ず主はわたしたちに出会ってくださいます。あなたの信仰は、信じるか信じないかであって欲しいと言っています。生ぬるい信仰のものを吐き出すと言っています。「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙示録3:15~16)

なぜ生ぬるいのか、それまだ自分の罪に気がついていないから、自分の罪を認めていないからなのです。あんなに信じないと言っていたトマスは、「わが主、わが神よ!」と絶句して主の前にひれ伏しました。彼は自分の不信仰という罪を示され、言葉を失うほど畏れました。そして罪を悔い改めて、復活の主の前にひれ伏したのです。そしてこの後、復活の証人になりました。この後の21章でも、主はトマスをはじめとする弟子たちにガリラヤ湖畔で出会ってくださっております。何度も何度も復活の主は、わたしたちに出会って下さっています。そしてやがて、この弟子のトマスは、インドへの伝道のために遣わされて行ったと言われています。

クリスチャンとは十字架と復活の主に出会った人々のことです。クリスチャンとは自分の罪を主に赦していただいた人のことです。聖霊を受け取った人のことです。その人々は、もはや黙っていられません。キリストの証人として、十字架と復活の主との出会いを、全世界に出て行って福音を宣べ伝える者となって行くのです。わたしも本当に生ぬるいクリスチャンから、こうしてキリストの伝道者になったのは、復活の主と出会ったからです。自分の罪を赦してもらったからです。復活の主は本当に、今も生きておられます。そしてわたしたちと共に、今も働いて下さっておられます。(岡田 久)

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