ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

聖霊の力と実 (マタイ12:22~37)

メッセージ
2017年2月12日富里キリスト教会

「聖霊の力と実」
(マタイ12:22~37)

1.悪霊によって目が見えず、口がきけない人

「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口のきけない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼベルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った。」(12:22~24)

「悪霊にとりつかれた人」とあります。その特徴は、目が見えないこと、そして口がきけないという症状を呈していました。これは医学的に、肉体的に目が見えない視覚障害を持った人、また話すことができないという言語障害を持った人と言うことだけではありません。医学的な症状というよりも、むしろ霊的な意味に捉えた方がいいのではないでしょうか。つまり、目が見えないと言うことは、神様が見えないと言うことです。真実の神イエス・キリストが見えていない人、口がきけないと言うことは、証しができない人のことを言っているのではないかと思います。

つまり、目は見えているのに、本当の神様を見ることができないと言うことです。その人の目が厚い鉄板で覆われていて、真実を見定めることができないと言うことです。いや、悪霊がその人の目をふさいでしまって、見えないようにしていると言った方がいいかも知れません。だから、このような人は、いくら聖書を読んでも、何が書いてあるのか真理を理解できないのです。神様の本当の姿が見えてこないのです。

当然、御言葉が分かりませんから話すこともできません。真の神様が分からなければ、伝道もできないのと同じです。イエス様が来たのは、わたしたちが真実な方、永遠の命を知るようになるために来て下さったのです。それ妨害しているのが、悪霊の働きです。神様を見えなくしているのです。そしてことあるごとに、イエス様の伝道の働きを妨害します。そのようなサタンの霊にとりつかれた人、目が見えない人、口がきけない人なのです。もしかしたら、自分もそうかもしれないと思った人は、直ちにイエス様のところに行くことです。真剣に聖書を読むことができない、御言葉が入って来ないというのは、目が塞がれているのです。

そういう人は、イエス様のところに行って、自分の罪を悔い改めて主を仰がせていただくのです。黙示録3:18にこうあります。「そこであなたがたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:18~19)主の前に悔い改めることです。しかも熱心に悔い改めなさいと勧めています。毎日、一生懸命、悔い改めましょう。すると見えるようになります。サタンが逃げて行きます。イエス様はそのために、神の国の権威を持ってわたしたちのところに来て下さったのです。

2.サタン(悪霊)の正体

「聖書教育」の2004年版に、ここの箇所についての解説が出ておりました。そしてそこで悪霊の働きについて、次のように述べておりました。「悪霊は人を神から引き離し、不安と空しさ、絶望と虚無に追い込む強い勢力です。人を憎しみと争い、さらに殺人の狂気へと駆り立て、人と人、神と人との関係を断ち切る強力な闇の力です。まさに、悪霊は神の恵みの支配を覆い隠す反キリストの勢力です。聖書は、病気のために神にも自分にも絶望している人々の中に『悪霊にとりつかれた人』を見ています。また表面は穏やかでも、自分の体裁や業績、外形、自分の属する家族や組織のエゴを守ろうとして、われを忘れて必死になっている人も『悪霊にとりつかれた人』と言っています。」

そしてもう一つ、悪霊にとりつかれた人の特徴は、その言葉です。その人の中にイエス様が宿っていませんから、たとえ宿っていたとしてもイエス様よりもサタンの方が強くなっていますので、話す言葉で本当のクリスチャンがどうかを見分けることができます。12:33にこうあります。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうしてよいことがいえようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(12:33~34)

良い木か悪い木かは、その人の口から出て来る言葉で分かるというのです。「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」とあります。悪霊が住んでいれば悪霊の言葉が出て来るし、イエス様が住んでいればイエス様の言葉が出て来るのです。悪霊に憑かれた人は、この悪い言葉しか出てこないので、口がきけないのです。神の支配とサタンの支配は一緒にはなりません。水と油、火と水なのです。どっちかです。30節に「わたしに味方しないものはわたしに敵対し、わたしと一緒に集めないものは散らしている。」と主は言っています。

このように、イエス様と悪魔は絶対に相容れないものです。でも人の心は時に間がさして、サタンにやられることもあるでしょう。でも、わたしたちが神の方を向くならば、そこに聖霊様が来て下さり、わたしたちを悪霊から直ちに聖めて下さいます。神の霊と悪霊は絶対に一緒にはなりません。神の霊の方が強いのです。なぜなら、すでにイエス様は十字架の上で悪魔に勝利したからです。悪魔が一番恐れる者は、イエス・キリストの十字架です。キリストの血がわたしたちの罪をすべて聖めて下さいますので、わたしたちが罪を認めて悔い改めるならば、罪赦され悪魔は去って行きます。神の前に出ること、神様に近づくことです。

また悪魔は御霊の剣である聖書の御言葉を一番恐れます。イエス様も言いました。「神に属する者は神の言葉を聞く、あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ8:47)と。ですから、その人の話す言葉でも見分けることができますが、もう一つ悪霊につかれているかどうかを見分ける基準は、その人が聖書の御言葉を喜んでいるかどうかです。悪魔はこの御言葉が一番怖いのです。何とかしてクリスチャンから、この御言葉を奪い取ろうと必死に惑わし攻撃してきます。ですから皆さん、この悪魔の策略を打ち破り、悪の力を追い出すことのできる聖書の御言葉を決して手放してはいけません。礼拝の中でも説教は大事です。教会学校の中でもクラスでもスモールグループでもこの御言葉を絶対になくしてはいけません。御言葉のない集会はつまずきの集会になってしまいます。もし誰かが、皆さん御言葉を省略しましょうと言ったら、要注意です。その人は悪霊につかれている人です。

3.悪霊を追い出すイエス

少し読んでみましょう。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(12:28~29)

イエス様は、子の強い悪霊を縛り上げ、悪霊にとりつかれた人々を悪霊の支配から神の支配へと奪い返す働きをされた方です。28節に「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのもとに来ているのだ。」という御言葉があります。イエス様の悪霊を追い出す働きは、神の霊によって追い出していると言いました。つまり悪霊を追い出す働きとその大いなる力は、神の霊の力と権威によるのです。そして一人一人の心の中から、悪霊が追い出されて行くことによって、神の国がわたしたちの間に到来しているというのです。これが神の国の実現である、天国の始まりです。

それだけではありません。悪霊の支配から解放していただいた人は、憑き物が落ちたというだけではなく、イエス・キリストの恵みの支配の中に移されたものとして、天国の住人になり、この世にあって天国を宣べ伝える者となって行くのです。そういう人は自分の足でしっかりと立ち、たとえ現実的にはなお厳しいものがあっても、また負わなければならない重荷があったとしても、神にすべてを委ねて、喜びと希望をもって新しい人生を生きることができるのです。

もし今日、自分は今まで悪霊の支配のもとにあったかもしれない、口から出る激しい言葉、人を傷つける言葉、また聖書の御言葉を嫌っていたこと、人と人を仲たがいさせて迷惑をかけたこと、嘘をついたこと、人をうらやんだり、憎んだりしたこと、今もなおそのことで心が晴れない日々を送っている人がいますならば、今日、ここで悔い改めましょう。そして自分の罪の一切を告白して、主の前に行って悔い改めましょう。今日は救いの日です。悪霊からの解放の日です。なぜなら、聖霊様が、今そのように語りかけているからです。聖霊様は目に見えませんが、わたしたちの心の中に働いて下さいます。そしてわたしたちの心の内の一切の罪汚れを明らかにして、目の前に突きつけて下さるお方です。(ヨハネ16:8)

4.聖霊を冒瀆する者は赦されない

今、聖霊様が全世界の教会に注がれています。わたしたちの上にも注がれています。わたしたちの教会の祈りの課題にも「教会に聖霊が豊かに注がれ、伝道の働きが前進しますように」という祈りの目標が掲げられました。皆さん、この神の霊を受け入れましょう。心を開いて素直に、神の聖なる霊を求めましょう。なぜなら、この霊はわたしたちの罪を示し、イエス様の十字架の贖いを通して、わたしたちに悔い改める心を与えて下さいます。絶対にこのお方を拒むことがないようにしましょう。なぜなら、もしこの神の霊を拒むならば、それは取り返しがつかない神の裁きを身に受けてしまうからです。

「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(12:31~32)とイエス様は言っています。これは少し厳しい言葉です。神の霊を拒む者は赦されないというのです。わたしたちが犯す罪や過ち、そしてイエス様に対して反対したり逆らったりすることは赦されます。しかし、わたしたちを罪の悔い改めへと導いて下さる聖霊様を拒む者は、赦されない、すなわち裁かれるというのです。

32節を現代訳聖書で読んでみます。「わたしに対して言い逆らう者は、悔い改めれば赦していただけますが、聖霊の働きを故意に拒否するならば、悔い改めることができなくなり、永久に赦しを受けられなくなってしまいます。」と訳しています。これはどういうことでしょうか。具体的にペテロの場合を考えてみましょう。ペテロは、主が十字架にかかる前に、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」26:33)と断言しました。しかし、彼はその日のうちに、イエスが逮捕されると、呪いの言葉を吐きながら「そんな人は知らない。」と否定したのです。

するとその時、鶏が鳴いて自分が主を裏切ったと言うことに気が付きました。そして外に飛び出して行って、激しく泣きました。(マタイ26:74~75)これは人の子であるイエス・キリリストを裏切り背いたことに気が付いて、涙を流して悔い改めたペテロの回心の場面です。このようにたとえイエスに対して罪を犯しても、自分の罪を認めて悔い改めるならばどんな罪でも赦されると言うことです。この時背いたペテロに、神の霊が働いていたのです。ペテロは悔い改めました。

しかし、自分が主を裏切ったことを知っていても、その罪を悔い改めることをせずに、どこまでも自分を貫き通すならば、それは自分に向けられている神の霊を拒むことを意味します。これが聖霊に言い逆らう、聖霊を冒瀆すると言うことではないでしょうか。その例をわたしは、もう一人の弟子イスカリオテのユダに見る思いです。彼は自分がイエスを裏切って、銀貨30枚で敵に売り渡したことを後で後悔しました。しかし、彼にはそこで悔い改めの涙も祈りもありませんでした。そして、最後には自分で首をつって自殺してしまいました。そこには悔い改めはありませんでした。どこまでも自分の自我、自分の考え、自分の美学を貫き通したのです。聖霊の強い悔い改めの促しを受けつつも、主の愛を受けつつも、ユダは闇の中へと落ちて行ってしまいました。

ですから、今この教会にも降り注がれている聖霊の声に耳を傾けましょう。自分の罪を素直に認め、今こそ主のもとに立ち帰りましょう。何も見えず、何も聞こえず、何も語ることのできないわたしたちですが、悔い改めて主のもとに行くならば、主はわたしたちの内から悪霊を追い出して下さいます。そして主が見えるようにして下さり、口が利けるようにして下さり、伝道するクリスチャンに変えて下さるのです。神の恵みの御支配へと移して下さるのです。この神である聖霊様を拒むことなく、自分の罪を悔い改めて主の御もとに立ち帰りましょう。                         

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional