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聖霊に満たされる (エフェソ5・15~20)

メッセージ

2010年7月4日富里教会
「聖霊に満たされる」
(エフェソ5:15~20)

1. はじめに

日本のクリスチャンは意外と聖霊についての知識が乏しいということと、教会の中で聖霊という言葉を口にするのを控えたりしてきました。また、聖霊と言う言葉と異言が安易に結びついてしまったために、聖霊=異言を語る=異端という間違った図式ができてしまいました。聖霊についての正しい知識も認識も与えられませんでした。ですから、長年クリスチャンであっても聖霊の知識がないものですから、信仰の確信も、復活の希望もないままで来てしまいました。そして、固くて冷たい律法的な、愛も喜びもない信仰者になってしまう傾向がありました。

例えば、「信仰を持ったら正しい行いをして、人の模範になり、社会に役立つ人間にならなければならない。」と勝手に思い込んだり、そうするものだと思って、育ったりしたことはないでしょうか。道徳的な良い行いや忍耐することがクリスチャンらしい生き方だと、教えられて来たことはないでしょうか。律法的に、こうあらねばならない、こうしてはいけないというクリスチャン像が長い間にできてきたような気がします。これでは信仰生活が、真面目ですが、難行苦行、修験者のような生き方になってしまいます。

そうではなく、信仰者として目標とする生き方や品格は、全て聖霊様の結ぶ実であり、聖霊様の力によらなければ何もできないし、何も変わることがないということがないということです。そのような、聖霊抜きの律法的なクリスチャンにならないように、今日は聖霊というお方について正しい理解をしていただければと願っています。そして、私たちが、共にいて下さる聖霊様を求め、聖霊様を知り、信じ、そして聖霊様を受け入れ、聖霊様に満たされ、御霊の実である愛、喜び、平和といった性質を身につけるようになってゆけたらと願っています。

2. 聖霊を妨げているもの

聖書によりますと、まず、聖霊様は私たちがイエス・キリストを信じる「信仰告白」をさせて下さるかだです(1コリント2:10)。そして、私たちが「神の子であることの保証人」でもあります(エフェソ1:14)。そしてクリスチャンの心の中に「神様の愛」を注いでくださり(ローマ5:5)、聖霊様の結ぶ実として、「愛、喜び、平和、寛容」などの性質を与えて下さいます(ガラテヤ5:22)。更にキリストの愛の教会を建て上げるために、霊の賜物が与えられています(1コリント12:4~11)。また、私たちに「聖書を解釈する力」を与えたり(エフェソ1:17、1コリント2:6~16)、「祈る力」を与えたり(1コリント6:19)、キリストを「伝道、証」する力も与えて下さいます(使徒言行録1:8)。これら全て聖霊様の働きによるものです。目には見えませんが、教会の中で私たちの間で力強く働いていて下さるお方です。

まず、第一に私たちはもっと聖霊様を認め、求めなければなりません。クリスチャンであっても聖霊様を知らなければ、求めようとしません。イエス様も「聖霊を受けなさい!」(ヨハネ20:22)と弟子たちに言われました。クリスチャンは誰でも、神の子であるという聖霊様の保障を受けて、心の中に聖霊様を持っているのです。最初の聖霊様の初穂(ローマ8:23)を、一人一人もれなくいただいているのです。この聖霊によって、たとえ自分の身体がまだ肉の中にあって罪を犯すようなことがあっても、私たちは救われているのです(ローマ8:11)。そのたびに聖霊様も呻きながら、私たちのために神様にとりなしの祈りを捧げて下っているのです(ローマ8:26)。

聖霊様の働きを欺いていた一組のクリスチャンの夫婦の話が、聖書に出ております。何とか教会の中で認められたいと思って、自分の土地を処分したお金の全部ですと、ウソをついて献金をしました。しかしこれが聖霊様を欺いているということで、この夫婦は神の裁きを受けてしまいました(使徒言行録5:1~5)。また、私たちクリスチャンが平気で嘘をついたり、怒ったり、人のものを盗んだり、いつも口からは悪い言葉を吐き続けるならば、聖霊様は悲しんでしまいます。(エフェソ4:25~32)そしてそのまま行くならば最期には、聖霊の火を消してしまうことになります。(1テサロニケ5:19)この私たちのかたくなな心、不信仰、自分のプライド、自分を良く見せたいという見栄などが聖霊の輝きを私たちの中から奪ってしまうことになります。

そして信仰生活は、この肉の自分、古い自分、外面的な見せ掛けの姿と、神様からいただいた新しい自分、内なる人、霊的な部分との闘いだといっても過言ではありません。実に、クリスチャンの生涯の信仰の戦いは、この古い自分と新しい自分との戦い、肉の自分と霊の自分の戦いと言っても過言ではありません。(「拡大する人生で」学びました。)ではどうしたら、この古い自分、肉の自分に勝利し、新しい霊的なクリスチャンになることができるのでしょうか。そのためには、まず、聖霊に満たされることです。聖書のあちこちに「聖霊に満たされなさい。」という言葉が出てきます。

3. 聖霊に満たされるために

次に、では一体どうしたら聖霊に満たされることができるのか考えてみたいと思います。聖霊に満たされるためには、「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝すること」なのです。つまり、理屈ぬきで、あなたがクリスチャンなら喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい、そうすれば聖霊に満たされますということなんです。いや、まず最初に聖霊に満たされてから喜びます、祈ります、感謝しますではないのです。もしそうなら、その人はいつまでも喜べもしないし、感謝も祈りもできません。まず、喜ぶことです。先に祈ることです。感謝することです。心が行動を変えるのではなく、まず最初に、行動があって、そのことによって心が変えられてゆくのです。喜べないような時でも喜ぶのです。感謝できないようなことでも、まず感謝することです。

ですから今日の聖書のエフェソ5:14でもこう言っています。「眠りについている者、起きよ、死者の中から立ち上がれ、そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」まず、起きることです。先に行動を起こすことです。そうすればキリストが照らしてくれるのです。今日のみ言葉をもう一度読んでみましょう。
「愚か者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向って心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(エフェソ5:15~20)

このエフェソ書は、パウロが牢獄から書いた手紙です。いわゆる獄中書簡といわれています。たとえ逮捕されていても、「賛美をして喜びなさい」と言っております。聖霊に満たされてから賛美をするのではないのです。聖霊に満たされるために、たとえ牢屋の中でも賛美をするのです。聖霊に満たされるために感謝の祈りを捧げるのです。まず行動ありきです。もし私たちが黙っていて、聖霊に満たされることを待っていても、何も起こらないでしょう。まず祈らなければなりません。ましてや、今日は一杯ひっかけてからという方を選んだら、ますます聖霊に満たされることはありません。酔っ払いで、聖霊に満たされているクリスチャンと言うものを私は見たことがありません。どちらかです。祈りと賛美の中で聖霊を飲んで、聖霊に酔うか、祈らないで、お酒を飲んでアルコールに酔うかのどちらかです。

よく日本庭園に、「ししおどし」という竹で作った水受けがあります。水の注ぎ口に、斜めに切った竹の口を出しておくと竹筒の中に水がたまります。そして水がなみなみと注がれていっぱいになると、重さの関係で竹筒が傾いて、中の水を吐き出します。その時、また竹が元の位置に戻る時、コーンという乾いた音を出して、庭中に響き渡らせます。

このように私たちも神の前にまず立って、神に向って心を向ける時、そこに神の霊が上から注がれます。そして聖霊が水のように一杯に筒の中に満たされる時、竹筒が傾いてその水が溢れ出します。その時にコーンと言ういい音を庭中に響かせます。私たちも聖霊に満たされて、その霊が満ちあふれる時に、いい音を出す人生に変わって行くのではないでしょうか。ですから、いつも継続的に聖霊に満たされなければなりません。良い音を出すためには、ししおどしの様に絶えず、水の注ぎ口に口を向けて立たなければなりません。満たして下さるのは神様です。18節の「満たされ」というギリシャ語では、現在形の命令になっています。つまり「今、直ちに満たされなさい」という神様からのご命令です。また、継続的な受動形ですから、「自分で満たすのではなく、神様から満たしていただくように願い求め、絶えず継続してそのようにしなさい」というご命令です。

そして、竹筒のそこの部分に、穴があいていないかどうかをいつも確めたいものです。そこの穴は、この世に開かれている私たちの肉の心の扉を意味しています。もし、この世とは、肉的な欲望、自分中心の生き方のことです。自分のことにだけ心を奪われているならば、いくら竹の筒が神様の方を向いていても、聖霊に満たされません。穴があいていれば、水が漏れてしまいます。ですから、きれいな音を出すためにも心の下の部分の破れをしっかりと塞いでおきたいものです。世の思いを断ち切ることです。そして、神様にいつもまっすぐに心を向けていたいものです。迷うことなく、聖霊様の流れてくる水の注ぎ口に、私たちの心を向けることが大切です。

4.聖霊の一致

そして私たちが語り合うのは、この「ししおどし」の筒から流れ出てくる聖霊様の語る言葉で語り合うのです。私たちが語るのではなく、神の霊が互いに語り合うのです。これが御霊の交わりです。この世の名誉や体裁と言ったうわべの言葉ではなく、空しい心で、へりくだった思いで、わたしたちの内にある聖霊様の言葉で語り合い、分かち合う時に、何とも言えないかぐわしい香りがその場に漂います。私たちを通して聖霊様が互いに語り合うのです。ここに聖霊に満たされた者の語り合いがあり、神様への最高の供え物となるのです。愛があり、一致があり、喜びが満ちあふれます。

サッカーのW杯の試合で、日本チームはパラグワイ戦のPKで失敗した一人の選手を、チーム全体が一生懸命支えて、慰め励ましていました。その選手が自分で立ち上がるまで、誰一人立つものはいませんでした。お前のせいで試合に負けたという人は誰もいません。みんながその選手を、代わる代わる励ましていた姿を見て、私はこのチームの本当の強さが余計解ったような気がします。勝っている時ではなく、負けた時に、成功した時ではなく、失敗した時にこそ、一つとなったチームの底力を見たような気がしました。私もこの岡田ジャパンのようなチームを作りたいなあと思いました。そのためには、監督の牧師である私がもっともっと砕かれなければならないと思いました。メンバーの声に耳を傾けて、素直に戦術を変えるような柔らかい砕かれた心を持つ者でありたいと願っています。

弱い私たちです。無力な私たちです。失敗します。でも、お酒の力を借りてうさ晴らしをしたり、忘れようとしたりせず、しっかりとその弱さを見据えつつ、むしろそのことを誇りに思うようにしたいものです。なぜなら、私たちが弱い時にこそ、強いお方がいつもそばにいて下さいます。私たちが敗北した時にこそ、勝利の主がそばにいて下さいますから。闘って下さるのはイエス様です。勝利して下さるのは神様ですから、私たちはこのお方を力の限り、精一杯ほめたたえ賛美してゆきましょう。聖霊に満たされ、聖霊の一致を守って行きましょう。そしていつもどんな時でも主に感謝を捧げましょう。主を喜びましょう。そこに私たちの力があります。勝利があります。(ネヘミヤ8:10)

                                    (岡田 久)

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