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聖霊に導かれて (ルカ2:22~36)

メッセージ

2014年12月28日富里キリスト教会

「聖霊に導かれて」
(ルカによる福音書2:22~36) 

1.神殿に献げられる幼子イエス

当時ユダヤの一般家庭では、長男が誕生すると8日目に割礼を施し、31日目に献児式のような長男の贖いの儀式があり、そして40日目には母親の産後の聖めの儀式があるとされていました。このようにしてイエスはごくごく普通の家庭の子供として育てられました。お金持ちの家では、わが子をいったん神様に献げて、もう一度神様から贖うと言いますか買い戻すために、羊を献げると言われています。ヨセフ一家は貧しかったのでしょう。代わりに山鳩一つがいかあるいは家鳩の雛二羽を捧げたと記されています。

この儀式は、わが子は神様からの子供ですから、神様にお返しをします。その代わりに、子羊か鳩一つがい分の費用を払って買い戻すという習慣です。いわば、この子は自分たちの子ではなく、神様からお預かりして神様の代わりに育てますということを意味します。特に長男は、神に祝福された聖なる者として神に献納する義務がありました。「イスラエルのうちで、初めて胎を開くものは、家畜の雄であれ息子であれ、すべて主のものである。従って自分の息子のうち初子、長男は、必ず贖わなければならない。」(出エジプト13:1,12,15、ルカ2:23)

ですから子供は神様から与えられたものではなく、神様からお借りした聖なる者として大事に育てるという習慣がありました。実際、イエス様自身は、全人類の罪を贖うための聖なる初穂、初子、長男として神に献げられたのであります。全人類の長男として、人々の罪を贖う神の子羊として捧げられるという目的のためにこの世に来られました。そのことを次に出てまいります、シメオンという老人が預言しております。

2.聖霊がとどまっていた人シメオン

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定通りにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」(ルカ2:25~27)

このシメオンという人は、非常に信仰深い人でした。聖書には、正しい人、信仰のあつい人、救いを待ち望み、聖霊がとどまっていた人だと記されております。エルサレムにもこう言う信仰のあつい人がいたのですね。そしてさらに、このシメオンは聖霊によって特別な啓示を受けていました。それは、メシアに会うまでは死なないというお告げです。ここに死を経験しない人がいたのです。そして彼の特徴は、「聖霊がとどまっていた人、聖霊に導かれていた人、聖霊からお告げを受けていた人」でした。

このシメオンが、イエス様に出会ったのは偶然ではありませんでした。聖霊に導かれて神殿に入って行ったのです。ですから、まず大事なことは、聖霊が存在するということを認めることです。そして、わたしたちは皆この神の霊によって信仰が与えられて、聖霊によって救いに入っているという証明をしていただいているということです。ですから、聖霊を認め、聖霊を求め、聖霊に満たされ、聖霊の導きに敏感にならなければなりません。

そのためにも、普段から悪を避け、罪の道を退け、正しい行いを心がけ、信仰を持って、救いを待ち望んでいるということです。今の私たちにとっては、イエス様が再びこの地上に来ることを信じて待ち望んでいるということです。信仰の究極の喜びは何でしょうか。このシメオンのように長生きすることでしょうか。シメオンは死ねないわけですから、百歳を超えていたかもしれません。信仰者の最大の喜び、そして信じて来てよかった、神様ありがとうございますというこの人生最大の喜びは何でしょうか。

それはシメオンの言葉にあります。29~30を見て下さい。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」つまり、クリスチャンの最高の喜び、信仰の究極の目的は、神の救いを見ることです。そして、今こそ私は安らかにこの地上の生涯を閉じることができますという喜びです。つまり、シメオンは、わたしは今やっと死ねますと言っているのです。しかも安心して喜んで希望をもって、喜び勇んで息を引き取ることができますという信仰です。

シメオンの生き方は、わたしたちがどのようにして最後を送るか、どのようにして最後まで生きるかを教えているような気がします。それは、主の救いを確信して、安心してやすらかにこの世を去ることです。自分はどのような最後を迎えるのかと、いろいろとご心配する方もあるかもしれませんが、聖霊様がちゃんと最後を備えていて下さいます。

3.十字架によって人々の心が露わにされる

しかもマリヤにこう預言しました。「ごらんなさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらされるためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(2:34~35)と。

シメオンは救い主の誕生を目の当たりにしただけではなく、このお方がどういう生涯を送り、どういう最期を遂げるかも知っておりました。そして母マリアに、わが子の最後について預言し、母親としてどんなに胸が引き裂かれるような辛い思いをされるかもあらかじめ話しました。(この時は、マリアはまだそこまで、わが子の背負っている運命の重さを知る由もありませんでした。)

マリアほど、ある意味ではこの世の中で、一番苦しい思いをした女性はないでしょう。自分の最愛の息子が、人々の目の前で、罪がないにもかかわらず、十字架にかけられて非業の最期を遂げるということを目の当たりしたからです。彼女ほどの苦しみを経験した女性はいないのではないかと思います。「あなた自身も剣で胸を刺し貫かれるほどの辛い経験をします」とシメオンは母に言いました。

イスラエルの人々は、御子イエス・キリストの十字架を通して、ある人はつまづいて倒れてしまい、またある人は主の十字架によって立ち上がる力を与えられたりするでしょう。そして、それは多くの人々の心の中にある思いが明らかにされるためでした。つまりこの幼子は、救い主として人々の心の中に隠されていた秘密をみな暴露されるお方だということです。人々のどんな秘密でしょうか。人々のどんな思いでしょうか。

それは、人はすべて神の前に罪人であるということです。誰も自分の心の闇を隠しおおせることはできません。自分の心の中にあるある思い、それは神に対する反逆、不信仰、不品行、不道徳という人間の罪の自覚です。しかしこの幼子は、それらの人々の罪を明らかにしたうえで、自分がその罪の贖いのために罪の身代わりとなって、神の裁きをその身に負って下さるということです。これも聖霊によってシメオンが教えられていたことです。そしてこれが、老人シメオンの見た神の救いだったのです。

4.祈りの女預言者アンナ

最後に、この時もう一人の女性預言者が、幼子イエス様と出会いました。
「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(2:36~38)

アンナは、結婚してから夫と生活したのはわずか7年間で、あとはずっと神殿から離れずに断食して祈ったり、預言をしたり、非常に信仰深い生活をしておりました。生涯、長い間づーっと未亡人だったわけです。女預言者として、神殿にいて、断食しながら祈りの生活をしていました。そこに、彼女の信仰生活がどんなであったかが記されています。

まず「神殿を離れませんでした」。そして熱心に祈りの生活をしていました。時には断食をして祈っていました。そして、夜も昼も神殿にいて神に仕えていたのです。人々は彼女を女預言者と読んでいました。当時のエルサレムにも、多くの祭司や律法学者はいましたが、信仰を持って、祈りに専念し、夜も昼も神殿から離れないで主に仕えていた人は実に珍しかったのではないでしょうか。このような信仰のあつい人をも、神様はやはりイスラエルに残しておかれました。

クリスマスの出来事はイエス様のお誕生だけではなく、高齢の方がその人生をどう過ごし、どのようにして世を去るかということも教えてくれています。高齢者に限らず、わたしたちの信仰の在り方と生き方を教えているような気がします。それは、常に聖霊様の助けを得て、聖霊様の語る言葉を聞き、聖霊様の導きに従って歩む人生です。年をとればとるほどに、この聖霊に働きを強く感じて来るのではないでしょうか。そして夜も昼も、教会を離れずに祈りに専念することです。そして最後には、信仰生活の究極の喜びである、安心して安らかに世を去ることができるということです。そのような生き方と言いますか、最高の恵みと喜びを教えていただいたような気がします。

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