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聖霊による誕生 (ルカ1:26~38)

メッセージ

2014年2月14日富里キリスト教会

「聖霊による誕生」
(ルカ1:26~38)

1.神のクリスマスプレゼント

「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」
(ルカ1:26~28)

ここにクリスマスの本当の意味でのプレゼントが述べられています。それは、一つにはまず「おめでとう」という祝福の言葉です。そして二番目には「恵まれた方」だということです。そして三つ目には「主が共におられる」ということです。

「おめでとう」というのは、文字通り祝福の言葉です。「新年明けましておめでとうございます」とか、「合格おめでとう」、「お誕生日おめでとう」と言う時に使います。日本語の漢字でも「めでたい」の「め」は「愛されている」の「愛=め」の字を使います。ですから、「愛されている人」よ、という意味になるのではないでしょうか。つまり、「神様に愛されている」という理由でおめでとうなのです。

次の「恵まれた方」というのは、文字通り恩恵にあずかった人という意味ですが、これは一方的な神様からのプレゼントなのです。お返しを心配したりする必要はありません。一方的に下さるということですから、私たちはそれを素直に受け取るだけでいいのです。その人が特別に才能があったからとか、成績が良かったからとか、結果を出したからということではないのです。どんな人にでも、区別なく与えられるものなのです。たとえ悪人でも、罪を犯してしまった人でも、病気で苦しんでいる人、孤独な人でも、神様の一方的な判断によって選ばれて与えられるものなのです。私たちはその恵みを、感謝して無償で受け取るだけでいいのです。

そして、この一方的なプレゼントの内容は何かと言いますと、「主があなたと共におられる」という中味です。神様からのプレゼントは、ケーキとかオモチャとかお金とか家具と言った物ではありません。最大のそして最高のプレゼントは、神様が共にいるということなのです。

クリスマスの恵みは、「神様が共におられる」という事実です。ですから私たちは、神に対する畏れと感謝の思いをもって、全力を尽くして主の業に励むのです。今年は、子供クリスマス会をやる前に、わたしはもうたくさんの恵みを神様からいただきました。それは、皆さんが一緒になって、和気あいあいと一生懸命、子供たちのために準備をしてくださったことです。

祈祷会の後、どなたかがお昼を準備して下さって、そしてあの寒い中、(少し言い過ぎかもしれませんが)体を張って、学校の校門のところで、子供たちに声をかけて誘ったということです。どなたかが「今まで、子供クリスマス会のためにこんなに準備したことなかったわ。」とおっしゃっていたほどに、皆さんで心を一つにして取り組んでくださいました。準備の段階の時から、既にクリスマスの恵みをいっぱいいただいていたような気がします。これが、神様が共にいますという、クリスマスの恵みのプレゼントではないでしょうか。

2.人間の戸惑いと恐れ

ところが先ほども言いましたが、人間の方は、かえって逆に戸惑いと恐れと心配の心が起こって来ます。マリアもそうでした。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。』」(1:29~31)

この箇所に、マリヤの心境が三つ述べられています。一つは「戸惑った」ということです。二つ目は「考え込んだ」ことです。そして三つ目は「恐れた」とことです。誰でもそうかもしれません。誰でも躊躇するでしょう。「待てよ、大丈夫だろうか、もしかしたらおめでとう詐欺かも知れない。」と思うかもしれません。そうですよね、誰でもあなたは信じたら永遠の命をただいて天国へ行けますよ、と言われても、本当だろうか、何か裏があるのではないだろうかと戸惑います。誰でもそうです。あの信仰深いマリアでさえそうでした。マリアは、「戸惑い」、「考え込んだ」、「恐れた」と述べられています。

確かに信仰は一つの決断です。神様からの呼びかけ、メッセージに対して決断することが求められています。でもその前に誰でもちょっと待てよと考え込んでしまうことはないでしょうか。でも、聖書はそのようなこともまた一つのプロセスではないかということを示しています。これも大事なことです。神様からの一方的な恵みのプレゼントですけれども、「ちょっと待って下さい。」と自分の心の準備と整理も必要かもしれません。

あれこれと考えながら、神様からのメッセージを思いめぐらしながら、悩みながら、また祈りながら考える。「どうしようか、素直に信じて従うべきだろうか。」と思い込んでいる時に、神様は、その人に一つのヒントを与えて下さることがあります。決心するチャンスやきっかけを必ず備えて下さるのです。マリアの場合は、親戚のエリサベツおばさんの高齢出産でした。35節から読んでみます。「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われているのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。』」
(1:35~37)

神様は、私たちが思い悩み考え込んでいる時に、必ず何か確かなしるし、サインを送ってわたしたちが決断できるように助けてくださいます。あの年をとった親戚のエリサベトおばさんでさえ、妊娠したというのです。だから、「神にはできないことは何一つない。」と言ったのです。神様には不可能なことはありません。どうですか皆さんこの言葉を信じますか。

3.マリアの信仰

次に最後ですが、マリアの祈りの言葉が出ています。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』そこで、天使は去って行った。」(1:38)彼女は考えに考えたあげく、最終的にはこの天使の御言葉を受け入れたのです。先が見えない、不安だ、心配だと思いながらも、この天使の言葉を受け入れたのです。それが「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」というマリアの信仰告白でした。信仰というのは、納得してからわかるというものではありません。神様の約束を受け入れることから始まります。たとえ先が見えなくても、真っ暗で不安がいっぱいでも、この神の約束の言葉を受け入れる時に、そこから新しい道が開けてくるのです。

私たちよりも、マリアの方がよっぽど聖霊によって身ごもるということを信じられなかったのではないでしょうか。これからの生活のことも考えると、不安があったと思います。自分の身に起こる先の見えない生活が待っています。ですから、余計心配や戸惑いもあったと思います。でも、信仰の歩みというのは、まず「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます。」という約束の言葉を受け入れるところから始まるのではないでしょうか。

私は、マリアはこの時、新しく生まれ変わったのではないかと思います。マリアこそ、この御言葉を、聖霊様を通して信じて立ち上がった最初の人ではないでしょうか。マリアが、御子イエスを胎に宿したから、崇められるのではなく、マリアがわたしたちの模範となって信仰の道を示して下さったから尊敬されるべきではないかと思います。この点で、マリアはクリスチャンの模範となるべき最初の信仰の母となったのではないかと思います。

それは神の僕、奴隷として、どこまでも神の御言葉に従うことです。自分の疑いや思い、自我というものを捨て去って、どこまでも神様の御言葉に従って行こうと決心する信仰です。神を畏れ、神に従う忠実な僕として従って行く人生です。失敗しても成功しても、とにかく主の御言葉に従って行くという決心をしたのです。わたしの主人はわたしではなく、イエス様こそ私の主人としてどこまでも従うこと、これがマリアの新しい信仰の生き方だったのではないでしょうか。

そういう意味で、「おめでとう、恵まれた女よ、主があなたがどこへ行っても、何をしても共にいて下さる。」という神様からの恵みをいただいたのです。今日もこのアドベントの朝、主はお一人お一人に「おめでとう恵まれた人よ。主があなたと共におられます。」と呼びかけておられるのではないでしょうか。そしてマリアと共に、「私は主の僕です。お言葉どおり、この身になりますように」と、この主の呼びかけに答えて従って行くことを願っておられます。

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