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聖書の説明と燃える心 (ルカ24:13~35)

メッセージ
2019年3月31日富里キリスト教会
「聖書の説明と燃える心」
(ルカ24:13~35)

今日は少し長い箇所ですが、このお話の中でわたしは五つの疑問点を取り上げて、解釈の手助けにしたいと思います。1番目は、「なぜこの二人の弟子の目がさえぎられてイエスと気が付かなかったのか?」ということです。2番目は「なぜ二人の弟子は、先を急ぐエスを引き留めて宿に泊まらせたのか?」ということ。
3番目は、「二人の目が開かれると、なぜイエスの姿が見えなくなったのか?」ということです。そして4番目に、「心が燃えるということは、どういう体験か?」ということ。そして最後5番目は、「二人はなぜ引き返して仲間のところに行ったのか?」と言うことです。この5つのことを質問しながら見てみたいと思います。

This morning I would like to ask you 5 questions about today’s story. First why were they kept from recognizing Jesus? Second why did they urge Jesus to stay with them? Third when their eyes were opened and recognized Jesus, why did Jesus disappear from their sight. Forth what a kind of experience that our hearts burning within us? Fifth why did they came back to the disciples in Jerusalem?

1.なぜ二人の弟子の目が遮られていたのか?

「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタデオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(ルカ24:13~16)

「ちょうどこの日」と言いますのは、イエス様が復活された日のことです。三日前にイスラエルを解放してくださるという人々の期待を一心に集めておられたナザレのイエスが、十字架刑に架けられて死んでから三日目、日曜日の夕方のことです。自分たちの神の国運動も、もう終わってしまったと思って、エルサレムから自分の村に帰ってゆく二人の弟子たちがいました。一人の弟子の名前はクレオパと言いました。二人は先日の出来事についていろいろと語り合っていました。

するとそこにスーッと一人の見知らぬ旅人が近づいてきて、一緒に並行して歩き始めたのです。そしてその旅人、実はその方は復活されたイエス様だったのですが、二人に尋ねました。「歩きながら何を話しているのですか?」と。ところがこの二人の弟子は、復活されたイエス様ご自身がすぐそばに来ていたのに、全く気が付きません。そして三日前の十字架刑の出来事から復活の出来事までを、この旅人に話して聞かせました。イエスが十字架に架けられてどんなにかがっかりしたかということ、そしてその人が復活したといううわさ話まで出ていると話しました。

しかし、二人の目が遮られていて全くイエス様の存在に気が付いていないのです。どうしてでしょうか?こんなにすぐそばにいたら気が付きそうですし、言葉使いや顔を見たら分かりそうなものです。それは復活のイエス様は、わたしたちの目をもって、客観的な事実として科学的に証明することはできないということです。科学的に物理的に復活の主を証明することは不可能です。二人の目は、まさに復活のイエスを科学的に歴史的に証明しようとしていたのです。十字架の出来事は歴史的事実です。しかし、復活されたイエス様は歴史的科学的物理的には証明できない出来事なのです。研究したり、調査したりするのではなく、出会いなのです。

復活の主はこのお方と実際に出会ってみない限り証明することはできないのです。ではどこで出会うのかと言いますと、それはこの聖書を通してです。この聖書が復活のイエス様との出会いの場なのです。そして聖書はキリストについて書いていますので、その聖書の言葉を通して復活の主と出会わない限り、復活を信じることはできませんし、復活のイエス様と出会うことできないのです。

ですから復活の主を知りたい、このお方と出会いたいと願う人は、この聖書を読めばいいということです。しかし、読むだけではだめです。誰かに説明してもらう必要があります。しかも聖書全体についてです。そこでイエス様は、この心の鈍い弟子たちに対して、歩きながら根気強く聖書全体について説明して下さいました。「そこでイエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自身に書かれていることを説明された。」(24:25~27)とあります。

聖書は説明されなければ分かりません。聖書は誰かに言葉で、意味を解き明かしてもらう必要があります。聖書の中からイエス様を知ろうとしない限り、その人の目は塞がれたままです。目にうろこの蓋がしてあるのです。二人は聖書の言葉を忘れていたので、目が塞がれていたのです。ここにイエス様がすぐそばにいても、気が付かなかった理由があります。

First why were they kept from recognizing Jesus?
Two disciples were going to the village called Emmaus, Jesus himself came up and walked along with them. But they did not recognize Jesus. For their interest focused on the event happened in Jerusalem.
Their eyes attended to historical and scientific affairs. As long as our eyes try to see historical facts and seek scientific facts, we cannot find resurrected Jesus. But Jesus came up to them hiding himself, explained the Bible from the beginning to the end. Jesus made their eyes focus on the Bible. He explained the bible earnestly. The only way we can find and meet the resurrected Jesus is to hear from the Bible in humble.

2.なぜ二人は旅人を引き止めたのか?

時は夕方です。そろそろあたりも暗くなってきましたので、二人はなおも先に進んで行こうとするイエス様を引き止めて、今夜はこのエマオの宿屋に泊まることを勧めました。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。」(24:28~29)とあります。

イエス様は先を急いで、さらに先に行こうとしていました。何故でしょうか。それはご自分の復活されたことを、弟子たちに知らせるためではなかったのでしょうか。でも二人の弟子は、この先を急ぐイエス様を自分たちのもとに引き止めました。「今夜は一緒にここに泊まってください。」と無理に引き止めたのです。

わたしたちの人生の中での復活のイエス様との出会いは、正直言って一瞬です。一期一会です。そのチャンスを逃がしたら、もう一生会えないかもしれないのです。ですからこの二人の弟子は、自分たちの心にともった信仰の灯火を消したくはなかったのです。「この人の話を聞いていると、何か心が燃えてくるような気がする。何かあるに違いない、もう少し一緒にいて下さって説明してくれませんか。もうちょっと話してくだされば、納得できるかもしれない、飲み込めるかもしれない。」と思ったのでした。無理やり引き止めたのです。

天国は、すでにこの聖書の福音の中に来ているのです。この聖書の中に復活も永遠の命もあります。そして聖書を牧師が懇切丁寧に説明しています。聖書は言葉で説明されなければなりません。しかも聖書全体にわたって説明が必要なのです。二人は何かある、もう一息何かをつかみたい、信仰の確信を得たい、この人に聞けば解かるかもしれないと思って、旅人を引き止めました。イエス様はわたしたちにつかず離れず、自分の姿を隠して、何とか聖書を通してご自分のことを知ることができるように、試しているような気がします。このまま二人は別れたら、もとの黙阿弥です。何も分からずじまいで、二人の人生はむなしく終わってしまったかもしれません。

ですから、「求めよ、さらば与えられん。探せ、そうすれば見つける。叩け、そうすれば開けてもらえる。」なのです。ですから皆さん是非、牧師を使ってください。わたしが天国への鍵です。わたしを使って聖書の言葉を通して天国に入ってください。先生、ぜひうちに来て聖書を話してください、説明してくださいと言って下さればありがたいです。どこへでも行きます。福音を語ることができる人は皆、この天国の鍵を持っているのです。「一緒に泊ってもでもいいですから、もっと聖書の話を聞かせてください。」とおっしゃっていただければ嬉しいです。

Second why did they urge Jesus to stay with them?
As Jesus was going farther, they urged him to stay with them strongly. Then Jesus went in to stay with them. The encounter with Jesus is one chance in our life. We must not miss that crucial moment. Two disciples urged Jesus to stay with them for long time suspecting something with him. We should catch the moment to encounter Jesus. And do not miss that crucial moment. For example, “Pastor come to my house and please explain the Bible from the beginning to the end. I want see the resurrected Jesus.” I am very happy to hear that.

3.目が開かれると
イエスの姿が見えなくなったのは何故か?

聖書はいろいろな「はてな?」があります。そしてそれが聖書を正しく解釈する鍵になるのです。このエマオ途上の出来事にも、いろんなはてながあります。第3番目のはてなは、二人の目が開かれて、イエスだとわかった瞬間に、イエスの姿が消えてしまったことです。何故でしょうか?これが一番難しいし、又とても大事なところです。考えてみてください。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。』と語り合った。」(24:30~32)

夕食の時、三人でテーブルについて食事をしました。その時、イエス様がパンを取って祈り、そしてそれを二人に分けて与えました。その時、二人の目が開かれたのです。「アッ、この方はイエスさまだ、主が復活されてわたしたちに現れて下さったのだ」と悟りました。するとその瞬間に、イエス様の姿が見えなくなりました。不思議です。イエスさまだと分かったら、ますますイエス様の姿が見えるはずではないでしょうか。それが逆に見えなくなってしまったのです。

この食事の時に祈るということは、荒野で5千人を養った時も同じようにしてイエス様が祈りました。また、最後の晩餐式の時にも、イエス様がパンを取って感謝の祈りをささげられました。その時のやり方とそっくりです。つまり中東では、そこの家の主人がパンを取って裂いて配るという習慣がありました。つまり、この食卓の主人はイエス様だということです。主人はイエス様です。主人は弟子ではないのです。つまり、一つの事件を見聞きして論じるということは、自分が主人であり、自分の視点で物事を見ているのです。ですから真理を悟ることができないということです。目が遮られている状態です。

でも今ここで初めて、主人は自分ではなく、イエス様だということが分かったのです。食卓の主はイエス様で、このお方がわたしたちに霊の糧を与えて下さっているということに気が付いたのです。つまりこれは自分がへりくだって、主人の足もとに来て、霊の糧である御言葉をいただきますという態度に変わったということです。主人と客人の立場が逆転したのです。これが、目が開かれたということです。今ようやく、この食卓で二人の弟子の目が開かれて、イエス様が自分たちの主人であるということに気が付いたのです。自分たちが主人ではないのです。主よ、お語り下さい、僕も御言葉をいただきますという信仰に変えられたのです。耳で聞くという真の信仰に変えられたのです。

霊の眼が開かれたので、その瞬間にイエスを肉眼で見ようとしていた科学的な目が必要なくなったのです。これがイエスの姿が見えなくなったということです。でも、見えなくてもいいのです。目は必要ありません。耳が開かれましたから。今初めて、御言葉を聞く耳が開かれたのです。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)こうして二人は、初めて復活の主に出会ったのです。

Third when their eyes were opened and recognized Him, why did Jesus disappear from their sight? When Jesus took bread and gave thanks , and broke it and began to give it to them, their eyes were opened and recognized him. Then He disappear from their sight. The way to take bread and give it to guests is the manner of the host. At this time Jesus became a master. And two disciples became guests. The reversal of the subject and the object has taken place. As we became a guest or the object, Jesus became a master and the subject. What does it mean? When we are hearing the master’s voice by our ears  not seeing the appearance of Jesus by our eyes, we can meet the resurrected Jesus. Jesus Christ has risen in the Word. Then we should hear the word of Jesus explaining the Bible and discuss the meaning of the Bible with Jesus. When our spiritual eyes were opened, we need not to see the appearance of Jesus. Jesus disappeared from our sight. We can hear the word of Jesus from the Bible.

4.聖書を説明した時に心が燃えたことがあるか?

このようにしまして、イエス様はその姿が分からないようにして、近づいてこられ、聖書を初めから最後まで全体にわたって説明されました。その時に、二人の弟子たちの心が燃えたと記されています。皆さんも自分の心が燃えるような経験をしてみたいと思いませんか?イエス様はわたしたち一人一人が、聖書を通して心に熱いものを感じるような学びをしてほしいと願っているのです。復活の主と誰でもお会いしたいと願っています。その唯一の方法は、聖書を読み合い、聖書を語り合い、聖書の中身についての説明をしたりされたりする時に、心が熱くなるのです。

聖書にはその力があります。ルカもイエス様もわたしたちの目を何とかこの聖書に向けさせたい、そして目で見るのではなく、グループの中の対話として、その時の聖書の説明という作業の中で、心に熱いものを感じると言っています。まとめてみますと、復活の主との出会いと言いますのは、まず言葉だということです。しかも聖書の言葉です。そしてそれを誰かに伝える、1対1、あるいは1対2の対話を通して、デスカッションしながら話し合うことによって出会うのです。特にその際必要なことは、「聖書全体にわたって説明」することです。

「言葉化」「対話」そして「説明」この三つの要素が、心が内側に燃えるという経験を生み出すのです。教会学校でも、最初はショートメッセージです。そして分級でリーダーがもう一度説明をして、疑問や質問を出し合ってデスカッションをします。そこで聖書のメッセージが伝わると、みんな嬉しいではないですか。終わることはみんな心が燃えて元気になっています。スモールグループでもそうです。DVDのメッセージが伝えられ、それに対する質疑応答、話し合い、そして聖書の説明がされると、メンバーがみんなそこで復活の主に出会います。もう心が燃えに燃えて、意気揚々と帰って行きます。復活の主に出会ったからです。

Do you have experiences that your hearts were burning within you?
Our hearts are burning in us whenever Jesus opened the Bible anywhere and talked with us and explained the meaning of the Bible story. The Bible should speak and talk each other. The Bible seeks someone to discuss with the speaker. The Bible need a dialog and group to talk about the meaning. The Bible need to be explained by a preacher or speaker. If you want to burn in your heart, read the Bible and talk the Bible and explain the Bible with someone to be saved.

5.復活の主に出会った人はどこへ行くか?

そしてその人が本当に復活の主に出会ったかどうかは、その後の行動によって区別できます。「そして時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」(ルカ24:33~35)

神の国の実現運動に挫折して、故郷に帰って行く二人の弟子は、途中で復活の主に出会い、その人生の方向が180度転換しました。失敗と挫折の人生から、希望と確信に満ちた新しい人生に変えられました。田舎に引きこもる人生から、全世界に出て行って福音を宣べ伝える人生へと変えられたのです。聖書全体を説明してもらうことによって、復活のイエスと出会ったからです。

二人はどこへ行ったかと言いますと、「時を移さず出発した」ということですから、もしかしたらその晩のうちに、宿を立ってエルサレムの弟子たちのことへ舞い戻ったのではないでしょうか。あの羊飼いのように、ベツレヘムの馬小屋を目指して真夜中に走り出したように、クレオパたちも、夜の道をエルサレムへ向かったのではないでしょうか。二人とも、「主は復活した。主は復活した。」という言葉と感動を持ったまま、一気に到着したのではないでしょうか。心が熱くて熱くてしょうがないくらい、心が燃えていたのです。

そしてエルサレムに行って、11人の使徒と他の仲間たちに告げました。これが本当に復活の主に出会った証拠です。しかし復活の主に出会わない人は、そのまま自分の家に帰って行きます。この前の記事の24:11~12の中にも、そのことが記されています。イエス様と出会った三人の女性たちは、仲間のところに行って復活を知らせました。ところがその後墓に入ったペテロは、まだ復活を信じていなかったので、「家に帰って行った」とあります。この帰るべき方向が、その人が真に復活の主に出会ったかどうかを区別しています。

When they meet the resurrected Jesus being explained in the Bible. Where did they go? They went to the companion in Jerusalem. These who met Jesus surely went to companions to share the good news. These who did not to believe the resurrection went to his own house.
The places where the two kinds of people have gone is very different.
When we met the resurrected Jesus in today’s worship, we may go to the friends and faithful one to share the good news.

わたしたちも、聖書全体について熱心に学びましょう。もしかしてまだ私は復活について確信がないとか、聖書がよく分からないと思っている方はいないでしょうか。人生の黄昏を迎えて、後ろ向きになっている人はいないでしょうか。そういう人はぜひ、もう一度原点に返って、聖書と取り組んでみてください。スモールグループに参加してください。教会学校に来てください。そしてお互いに、心の内側に熱いものを感じるような学びをしましょう。聖書の御言葉を通して聖霊に満たされて、主を宣べ伝え証をするものとなろうではありませんか。そしてわたしたちが出て行って、主を証し福音を宣べ伝えるところでは、復活の主が再びそこで出会ってくださいます。そこに教会の命があります。力の源があります。今日もここから出て行って、すべての人々に福音を宣べ伝えようではありませんか。(岡田 久)

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