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聖なる献げ物 (レビ記27:28~34)

メッセージ

2016年1月10日富里キリスト教会

「聖なる献げ物」
(レビ記27:28~34)

1.奉納物はすべて聖なるもので主に属する

さて、今日の聖書のレビ記27章28~29節までを読んでみましょう。「また、自分の持ち物の内から、永久に主のものとして奉納したすべての奉納物は、人であれ、家畜であれ、先祖伝来の畑であれ、それを売ったり、買い戻したりすることはできない。永久に奉納物はすべて、神聖なもので主に属する。特に、永久に神に奉納された奉納物が人である場合は、その人を買い戻すことができず、必ず殺されねばならない。」(レビ27:28~29)

これは、神様に自分から進んで献げる任意の献げ物について記した箇所です。誰かが神様に対して、人を献げたい(自分の子供など)、家畜を献げたい、畑を献げたいと言って神殿に奉納した場合には、それらは全て主のもの、主の所有物となってしまいますので、買い戻したりすることはできないという戒めです。例えば、子供ができなかった母ハンナは、神様にこう祈りました。「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子を一生主にお捧げします。」(サムエル記上1:11)と祈りました。そして、その祈りが聞かれて、子供が授けられました。

幼子サムエルは神殿で神に仕えるものとして献げられましたので、彼は生涯、自分の家に帰ることなく、神に仕え続けたのです。子供の時から祭司の子供のように、神殿でのいろんな仕事をしながら成長し、イスラエルの指導者になりました。また、主イエスも、生後一か月後に、両親と一緒に神殿に行って献げられました。この時、両親は幼子の代わりに鳩を献げて、わが子を買い戻して養い育てました。これはわが子を神によって聖別してもらうという儀式でした。(ルカ2:22~24)

ですから自分でこれは神様に献げますといったん心に決めて献金した場合には、絶対にもう一度自分のものにすることはできません。それは神に対する違反として厳しく追及されました。あのサウル王も同じような罪を犯しています。神様が全部滅ぼし尽くせと言ったにもかかわらず、戦利品の中で値打ちのないものだけを滅ぼして、高そうなものはもったいないと思って滅ぼさずに持ち帰りました。その時サムエルは、サウルにこう言ってとがめています。「主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主のみ声に聞き従わず、戦利品を獲ようととびかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」(サムエル記上15:18~19)

新約聖書でも、あの初代教会で有力な信徒だったアナニヤとサフィラ夫妻が、この罪を犯してしまいました。自分の土地の代金を売ったお金を献金しますと言ながら、あたかも全額教会に献金したようなふりをしたのです。仲間のバルナバが土地を売った代金全額を教会に献げたものですから、自分達も負けずに献金しました。でも実際は、代金の一部に過ぎなかったお金を土地代全部ですと嘘をついて献げたのです。その結果、聖霊を欺き、神を欺いたという大きな罪の故に、神様この夫婦をその場で打ち殺したという悲しい出来事がありました。(使徒言行録5:1~11)

ですから、いったん主に献げると決心したものを、もったいないからとか、何か自分の利益のために利用しようとするようなことがあれば、主の目から見て大きな罪になります。人はそれぞれ、主の前に、自分の心に決めた通りに、男らしく正々堂々と献げなければなりません。いったん主に献げられたものは主のものであり、聖なるものであり、それを惜しんだり、もったいないと思ったり、自分の利益のために利用するようなことは厳に慎まなければなりません。

いったん、心を決めて献げたものは、もはや自分のものではなく神様のものです。献金はあくまでも神様と自分との信仰による関係で献げられるべきです。人と比較して競争したり、いったん献げておきながら後で惜しくなって返して欲しいと言ったり、献金をひも付きにして自分の利益のために使おうとしてはいけません。すべて聖霊様がその心の奥底までご存じであれます。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」(Ⅱコリント9:7)と聖書にある通りです。

2.十一献金の恵み

次に、一献金の恵みについてお話したいと思います。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。もし、十分の一の一部を買い戻したいときは、それに五分の一を加えて支払わなければならない。牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。」(レビ記27:30~33)

収穫物の十分の一は主のものであると言っています。しかもそれは聖なるものであり、主に属するのです。主の所有物なのです。ですからもし、わたしたちが十分の一を献げなかったならば、その十分の一に当たる分の収入金額は神様のものですから、神様のものを無断で使用しているということになります。有名なマラキ書で万軍の主は、「あなたたちは十分の一を献げないことによって、わたしのものを盗んでいる」と言っています。

「人は神のものを盗むことができようか。ところがあなたがたは、わたしのものを盗んでいる。しかもあなたがたは言う。『どのようにして、わたしたちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは十分の一と奉納物によってである。あなたがたは呪いを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」(マラキ3:8~9・新改訳)と厳しくイスラエルの罪を責めています。

もしわたしたちが十分の一献金を献げていないのなら、その十分の一に当たる他のお金は、神様のものです。それを自分のため、生活のために使うならば、それは神のお金を勝手に盗んで使っていることになるのではないかと言っています。神に対して泥棒を働いていることになります。聖書の御言葉です。神様が私たちに命じていることなのです。天国に行ってから、神様の前で「なぜあなたはわたしのお金を盗んで使いましたか。ちゃんと十分の一を献げて、私の分を返しましたか。」と問われるに違いありません。

ですから、ある人は十分の一献金とは言わずに、十分の一返金と言っていました。その分は神様のお金なのです。まず家計簿の第一項目に、収入の十分の一を取って、それには手をつけないで主に献げるべきではないでしょうか。実際皆さん、必要経費を取ってから十一献金をしようとしても、もはや手元に残っていないこともあるのではないでしょうか。ですから、出費をする前に、まず十分の一を取って聖別して家計簿をつけて行ってみてはいかがでしょうか。

子のレビ記7:32節以下にこう述べています。「牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。その羊を見て良し悪しを判断して他の羊と取り替えてはいけない。」と。牧者の杖の下をくぐる十頭目の羊を、品定めしないで、良くても悪くても十分の一として献げなさいと言っています。この場合でも、もし十頭目に一番肥えた良い羊がかかったならば、他の弱い羊と取り替えて捧げるようなことをしないようにと言うことです。献げ物の品定めをしないで、良くても悪くても、拾番目にくぐったものをきちんと献げるようにしなさいと言っています。ところが献げる時にもったいないと思ってしまいます。そしてつい、そばに居た別の痩せたみすぼらしい羊に取り替え得て献げてしまうことのないように注意しなさいと言っています。

十分の一献金はあくまでも、神様とわたしとの関係で献げられるべきです。牧師や会計さん手前献げるというものではありません。残りものではないのです。また私たちの教会が、連盟に協力献金として献げる場合もそうです。第一のものを第一にするということです。預言者マラキは、「もしあなたがたが、十分の一を神の倉に運び入れ、いつも神の家が食べ物でいっぱいになるならば、神は天の窓を開いて神の祝福を限りなく注ぎます。」と言っています。そして「本当にそうなるかどうか、試してみなさい。」と言っています。このマラキ書3:
10だけが、唯一聖書で神様を試してもいいと言っている箇所です。

2016年新しい年を迎えました。神様の祝福が今年もいっぱいに降り注がれる年になることを願っています。そのためにも、わたし達も神のものは神に返す。その十分に一の献げ物によって、神様が天の窓を開いて今年もわたしたちを豊かに祝して下さるように祈りつつ、感謝と喜びを持って献げて行こうではありませんか。 

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