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耳のある者は聞きなさい (マタイ11:2~19)

メッセージ
2021/2/14
富里キリスト教会礼拝説教
「耳のあるものは聞きなさい」
(マタイ11:2〜19)

①ヨハネのつまずき
本日の聖書箇所は、洗礼者ヨハネとイエスと題されている通り、間接的ではありますがバプテスマのヨハネとイエス様のやりとりが描かれております。そしてこの箇所から、バプテスマのヨハネの役割、そしてそのバプテスマのヨハネとイエス様の間に明確な線引きがされ、時代が変わったということ、そしてその中にあってもユダヤの民は頑なで福音を受け入れない。そういったことを読み取ることができます。さて、その中から今の私たちはどのようなメッセージを受け取ることができるでしょうか。共にみことばに聞いてまいりましょう。
まず場面は、ヨハネの弟子がイエス様の元に来て質問するところから始まります。

マタイ11:2
「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』」

来るべき方とは、旧約で預言されていた、イスラエルが待ち望んでいたメシアのことを指します。ヨハネは最初はイエス様のことを神の子羊と呼び、メシアであることを認め、賞賛し、自分はこの方の靴紐を解くほどの価値もないと謙遜するほどでした。それなのに一体なぜ、今更このような質問を投げかけたのでしょうか。そこには2つの理由が考えられます。
まず一つに彼はその時牢獄にいたということにあります。彼は、ヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスが兄弟の妻ヘロデヤを自分の妻としたことに対して姦淫の罪を犯したと勇気を持って批判し、それゆえ投獄されていたのです。牢獄の生活というものはきっと心も体も弱らせていくことでしょう。その中で彼は徐々に落ち込み主イエスに対しても疑惑と失望を覚えていったのではないでしょうか。状況が変われば人の心は簡単にぐらつきます。人間はそれほど弱い者です。いくらバプテスマのヨハネが偉大な預言者だったとしても彼もまた、一人の弱き人間なのです。
また、もう一つの理由は、彼のメシア像の認識とイエス様の姿にずれを感じていたからだということです。ヨハネは民に悔い改めを迫る中、「斧はすでに木の根元に置かれ、良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げこまれる。」と叫んでいました。これは、メシアが来られた時、さばきの炎をくだすと彼は考えていたからでしょう。悪人を裁くといった一面しか彼のメシア像にはなかったのではないかと思われます。
しかし、いつまでたってもイエス様はそのさばきを行わない。その上、牢獄にいるので彼の耳に入ってくる情報は中途半端なものだったでしょう。イエス様の宣教活動への理解不足がありました。何事においても言えますが知識、理解の足りなさが誤解、偏見というものを生み出します。ヨハネもそのような状況からイエス様を誤解していったのでしょう。
そんなヨハネに対してイエス様は、その弟子たちに正確な情報を伝えます。私のしていることをしっかりと理解した上で判断しなさいということです。癒し、死者の蘇り。これはまさしくメシアのみわざです。イザヤ33:5−6の預言の成就がなされていることをイエス様は伝えます。

「そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒野に水が湧きいで荒地に川が流れる。」

そして、イエス様はさらにその預言に新たな事柄を付け加えられます。これは、旧約の時代から新たな時代に突入したことを表しています。その事柄とは貧しい人、罪人、自分の罪を悔やみ嘆く者や虐げられ苦しむ者たちに福音が告げ知らされているということです。イエス様が来られ、預言の成就と共に神の国は少しずつ広がっていたのです。イエス様はこの地上に2度来られます。1度目は福音を宣べ伝え、十字架の贖いをもって私たちを救い、罪と死から解放するための恵みと憐れみの来臨です。
そして、2度目がその恵みを信じ受け取った者と、頑なに神に背を向け続ける者を永遠にさばくためのさばきの炎の再臨です。救いとさばき。この両面を理解していないとイエス様を誤解してしまい、つまずく事にもなりえます。バプテスマのヨハネもこの一面しかみえてなかったゆえに誤解し、つまずきそうになったのです。
ここから私たちはメシアなるイエス様を十分に理解せよというメッセージを受け取ることができます。恵みだけ見ていてもだめだし、さばきだけみていてもダメなのです。主イエスは、罪人を癒し、慰め、死から命へと解放するために私たちの元まで来られました。しかし、主はそこまでされたにも関わらず、その福音を受け入れない不信仰な者をさばくためにも再びこの地に来られるのです。この両面を知っていてこそまことの恵みを味わうことができるのです。

②ヨハネとは何者
イエス様はバプテスマのヨハネの弟子たちが去った後、ヨハネの存在について語り始めます。「あなたたちは荒野で何を見た?」風にそよぐ葦。臆病でグラつきやすい。そういった人を思い浮かべます。ヨハネはそのような人ではありません。権力者の罪を臆せず批難することのできる勇気ある者です。しなやかな服を着た人。ヨハネはそのような民衆の苦しみを知らずに王宮に暮らすような人ではありません。ラクダの着物、野蜜とイナゴを食し荒野で叫ぶストイックな人です。その姿はまさしく預言者にふさわしいものでしょう。しかし、イエス様は、彼はその預言者以上のものだと最大の賛辞を送ります。なぜならヨハネは、はるか昔から預言されていた特別な預言者だったからです。

マタイ11:10
「見よ。わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。」

この言葉はマラキ書3:1の預言の引用です。メシアの先駆けとして道を整えるエリヤが現れると預言されていたが、その者こそバプテスマのヨハネなのだと主は言われるのです。古い時代を締めくくり、新しい時代の道を整える特別な使命がバプテスマのヨハネにはあったのです。それゆえに偉大な者といわれるのです。旧約聖書に出てくる預言者の誰よりも彼には栄誉がありました。それはメシアのための預言者だったからです。ヨハネがユダヤの民を悔い改めへと導き、その罪を嘆き、心砕く者を主イエスは慰め、救いへと導きます。イエスの救いの道に至るにはまず、悔い改めることが求められるのです。

③新しい時代
預言者以上の偉大な者ヨハネ。しかし、イエス様は天の国においては最も小さな者でもそのヨハネよりも偉大だと言います。これは、旧約の時代が終わり、イエス様の到来によって新しい時代が来たということを表しています。ここでいう天の国とは、いわゆる死後の世界の天国のことではありません。神のご支配という意味です。罪の支配から神の支配による世界が到来し、その天の国は今もなお、拡がり続けているのです。
旧約の時代はイスラエルに与えられた律法に生きる者の時代でした。しかし、イエス様の到来によって福音が異邦人を含めた全ての者に開かれていく新約の時代へと変わってきたのです。バプテスマのヨハネとイエス様との間には明白な時代の分かれ目という一線が引かれているのです。
ですからここでいう偉大とか小さいという表現は人間的、信仰的優劣ではなく立場の違いを表しています。決してユダヤ人が劣っていて、クリスチャンが優れているということではありません。新しい時代が来たということなのです。天の国の住人とは自分の力ではなく、神の救いの恵みに生きる者です。その人が偉大というよりも神の偉大さがその人をとおして表れるということでしょう。

マタイ11:12
「彼が活動し始めた時から今に至るまで、天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」

ヨハネの活動は救いの完成のプロローグでした。ヨハネはその救いの道を整える者だったのです。そして天の国はイエス様の到来によって、病人は癒され、死人はよみがえり、福音が伝えられ拡がっていきます。そして、イエス・キリストの十字架と復活によって天の国は本格的に始まっていきます。この天の国の拡大は誰にも止められません。
ここでの天の国が襲われ、奪われようとされているという言葉は中々に解釈が難しいところですが、この言葉は天の御国は力強く突進し、力強い人々がそれを奪い取るとも訳すことができます。ヨハネが神の国が近づいたことを宣べ伝えて以来、熱心な人は罪を悔い改め、さらにイエスの福音を信じ、なんとかして神の国に入ろうと努めている。そのようなものこそが天の国に入るのだと言っているのではないでしょうか。
他方、罪人、取税人たちが熱心で積極的に求めているのに対し、当時のユダヤ人、パリサイ人たちは古い価値観、固定観念、頑なさ、高慢によってイエスの福音を聞こうともしませんでした。そう言った彼らへの皮肉も込められていたのだと思われます。

④耳のあるものは聞きなさい
そんなユダヤ人たちに対して主イエスは、呆れ、見捨てたでしょうか。そうではありませんでした。言っても無駄だと諦めず、「耳のあるものは聞きなさい」と語り続けます。旧約聖書においても、イスラエルの民は神様の話を聞かず背を向け続けました。それでも神様はわたしの元に帰ってこいと諦めずに語り続けました。そしてその神様は、とうとう人の姿となってまで私たちに伝えに来られたのです。なんという私たちへの愛と忍耐でしょうか。
「耳のあるものは聞きなさい。」聞いているようで聞いていない。こういったことはよくある話です。特に男性は脳の性質上、話を聞くのが苦手という傾向が総体的に見てあるそうです。わたしの父親も母親によく話を聞いていないと怒られている場面を何度も見てきました。「聞く」という行為は、これは実は簡単なようで簡単ではないようです。
本当の意味での聞くということは体と心そのものを全力で傾けて、集中して受け取るということです。情報だけ耳に入れるということではないのです。私は介護職員として働いていた経験がありますが、まず最初に覚えた基本的な利用者さんとの接し方に「傾聴」というものがありました。傾けて聴くと書きます。親身になってポーズではなく共感し、心と体を傾けてその方に集中する。なにかをしながらではなく、作業を一旦やめ、その方のために時間を使うのです。主が私たちに望む「聞く」という行為はこの「傾聴」のような聞き方だと思います。
しかし、聞いても上の空。右から左へ抜けていく。福音を聞いているようで聞いていない。心が閉じている。今はそんな時代だともイエス様は子供の遊びにたとえて嘆かれます。
笛吹きは結婚式ごっこ、葬式の歌は葬式ごっこを表しています。笛の音を聞いても喜んで踊らず、結婚式ごっこに入らない。だからといって葬式の歌を聞いても悲しまずに、葬式ごっこにも入らない。笛の音も歌も聞こえているのに参加しない。聞こえているのに動かない。これは、もはや聞いていないことと同じです。まるで受け入れるつもりがない頑なさです。なんといいますか、はすに構えているといいましょうか、天邪鬼と言いましょうか。ひねくれてますね。全く素直じゃありません。きっとそんな子を目の前にすると心の狭い私なんかは、なんだ、可愛げのない子だな、なんて思ってしまいそうです。そして、その可愛げのない子供は同胞であるはずのユダヤ人、パリサイ人たちであると、ここでイエス様は言われているのです。
ヨハネが禁欲的な生活をしていると、それができない自分たちは彼を悪霊に取り憑かれていると狂人扱いにしてしまう。かといってメシアなるイエスが来られても罪人と宴会をするその姿に自分たちのメシアへのイメージがあまりにも違い、罪人の仲間だと非難する。どちらに対しても結局批判し、悔い改めの言葉も福音の招きも彼らは受け止めないのです。話を聞いても本当の意味で聞いていないのです。
今の私たちの時代はどうでしょうか。私たちは悔い改めや福音の恵み、つまり神のみ言葉に対してどのように向き合っているでしょうか。素直でしょうか。それともひねくれているでしょうか。神のみ前に悔い改めなければならない時にパリサイ人のように胸を張って祈り、悔い改めなければならない自分の罪を忘れてしまう。反対にイエス様が来られ、すでに世に勝っていると福音が伝えられているのに喜び踊らず、困難や苦しみを訴えて自分の弱さと苦しみの大きさのみ数えてダメだとため息をついてしまう。そんな天邪鬼にはなっていないでしょうか。皆さんに問いかけつつも自分自身に対して何よりこの問いが迫ってきます。
悔い改めも恵みに喜ぶことも信仰生活には欠かせません。分かち難いコインの裏表といっても良いでしょう。悔い改めに迫られた時は素直にへりくだり、胸を打ち、主よ憐れんでくださいと祈り、悲しむ。また、しかし主はそんな私のために、十字架にかかられた。その圧倒的な愛、その圧倒的な福音の恵みを前にした時、素直に喜ぶ。この素直でまっすぐな信仰を主は望んでおられるのではないでしょうか。ただ、いうは易し、行うは難し。わかっていても中々できることではありません。自分で言いながらもそのことを痛感しております。
しかしそれでも、主イエスは聞く耳を持たない私たちに今日も明日も諦めずに、見捨てずに「耳のあるものは聞きなさい」と招き続けてくださっています。私たちが諦めることはあっても主が私たちを諦めることはないのです。聞き逃すことも多々あるかもしれません。私たちはそのような弱さももつ人間です。ですが、その弱さを全てご存知な上で今日も主は、聞きなさいと招いてくださっているのです。聞き逃しても、気付いた時にその都度、悔い改め、主よもう一度お語りくださいと素直に聞けば、きっと主はその都度、喜んでみことばを通して、聖霊を通してお語りくださることでしょう。
メシアなるイエス・キリストのみこころをしっかりと理解し、誤解によってつまずかず、その主を素直に信頼し、神の国の到来を喜ぶ者として、全身全霊をみことばに傾けて、みことばに聞く者として今日も明日も生きてまいりましょう。

武井誠司

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