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羊飼いの信仰 (ルカ2:8~20)

メッセージ
2019年12月22日富里キリスト教会
「羊飼いの信仰」
(ルカ2:8~20)
1. 神様からのしるし

ベツレヘムの野原で羊の群れの番をしていました羊飼いに、天使が現れてこう告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:10~12)

天使は羊飼いに神様からの一つのしるしを告げました。それは飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子です。産まれたばかりの赤ちゃんが、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ているというのです。これが神様からわたしたちに示されたしるしです。さて、皆さんしるしとは何でしょうか。英語で言いますと、サインです。野球でベンチから監督が、打者にヒットエンドランのサインを出したりします。キャッチャーがピッチャーに指を使って直球かカーブかスライダーかのサインを送ります。指をこうして二本立てると、これはピース平和を表すサインです。これを下に向けるとカーブのサインになります。

つまり神様から送られたサインは、飼い葉桶の赤ちゃんというサインです。さて、この神様からのサインを見て、皆さんはどんなメッセージが送られてきたとお思いでしょうか。ある人は平安と答えるかもしれません、またある人はへりくだり、ある人はかわいそうな赤ちゃんと思う人がいるかもしれません。

でも聖書には、この飼い葉桶の中の赤ちゃんというしるしには、次のような神様からのメッセージがあると説明しています。それがその前の天使の言葉です。ひとつは「恐れるな。」です。二番目は「大きな喜びです。」三番目は「あなたがたのための救い主が生まれた」というメッセージです。一つにまとめてみますと、「心配しなくてもいいよ、恐れなくてもいい、誰もあなたを懲らしめはしない、あなたは神に愛されているのだから、むしろいつでも喜びなさい、愛し合いなさい、赦しあいなさい、神があなたを愛しているのだから。」というメッセージなのです。

A.愛の神

わたしは、今朝はこのしるしから、神様の愛とへりくだりという二つのことを学んでみたいと思います。まず神様の愛の御意志を表したのが、この飼い葉おけの乳飲み子なのです。この赤ちゃんの顔が本当の神様の顔なのです。この赤ちゃんの顔は神様の愛の顔を表しています。乳飲み子が飼い葉おけの中で、鬼のような恐ろしい形相をしているでしょうか。わたしたちは神様の顔を知っています。しかし、神様の顔を知らない人々は、神は懲らしめる父、怒る父、罰を与える父だと思っていますから、神の顔を造るときには怖い鬼の面を作るのです。「愛には恐れがありません。完全な神様の愛は恐れを取り除きます。恐れには懲らしめが伴い、かつ神を恐れるものには、愛が全うされていません。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。」(Ⅰヨハネ4:18~19)

皆さんの本当の父は鬼ではありません。懲らしめ、怒り、罰を与えるお父さんではないのです。自らへりくだり、肉をとって、この世の貧しいところまで、飼い葉桶の中まで身を低くしてくださったお方なのです。ここまで上がって来い、これが出来たらお前はわたしの本当のこどもだ、と言っている体育系の根性パパではないのです。父親の方が自ら低くなって、わたしたちの不十分なところまで無力なところまで来てくださったのです。それがこの飼い葉桶の乳飲み子です。神が赤ちゃんになられたのです。

「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。そしてそれは恵みと真理に満ちておられた。」(ヨハネ1:14)恵みと真理はこのイエス・キリストを通して現わされたのです。また「神はその独り子を賜るほどに、この世を愛された。それを御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)ここに愛があります。わたしたちが神を愛したのではなく、神が先にわたしたちを愛して下さって、御子を与えて下さいました。この御子の内に神の愛が示されたのです。

B.ヘリ下りの神

次にこの飼い葉桶の赤ちゃんを通して、神様のヘリ下りが示されました。わたしたちに、頑張れがんばれと檄を飛ばして、ここまで登って来いという父親ではないのです。神様が降りて来てくださったのです。先日も悲しい事件の判決が出ました。政府の政務次官を務めた立派な父親が、暴力をふるう息子を思い余って自分で手にかけてしまったのです。あまりにも父親の存在が強すぎた、立派過ぎたゆえに、自分でそれを乗り越えることが出来ない、父親の期待にこたえることが出来ない息子の反発としての暴力だったのです。親を殺さなければ、自分は生きるすべがない、あるいは自分が死んでしまうかの道しかないと、多くの日本人が呻き苦しんでいます。その息子の暴力に耐えかねての父親の犯行でした。

この家庭だけではありません。日本中の親子がこの父の偉大さ立派さを乗り越えることが出来なくて苦しんでいます。そして父親もどのようにして何を手本に子供を育てたらいいか、愛したらいいかが解らないでいるのです。結局は自分の古い父親のやり方を踏襲するしかないのです。子供にとっては、父が死ななかぎり、自分が生きる道がないのです。恐れるな、心配するな、お前はそのままで私のこどもだと言って欲しいのです。「恐れるな、わたしはあなたを生んだ父親だ、わたしはあなたを贖う、あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。あなたはわたしの目には値高く、貴くわたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:1、4)と言って欲しいのです。無条件の愛を求めているのです。

聖書の父は、そして本当の父はそう言っています。わたしはお前を愛していると。
父親はもっともっと、自分の弱さを見せるべきですし、へりくだるべきですし、子供に負担をかけ重荷を負わせるべきではありません。100点取らなければ自分のこどもではない、○○大学に入らなければ、○○会社に入らなければ、医者にならなければ、弁護士にならなければ、親の後を継がなければ自分のこどもではないというべきではありません。聖書の神様は、自らヘリ下り、赤ちゃんになってくれました。

わたしたちが努力して高い所まで行かなくてもいいように、神様の方からわたしたちの弱さ、不十分さ、未熟さ、苦しみのところまで降りて来てくださったのです。あるがままで愛して下さったのです。ボロボロになった者でも、人生の失敗者でも、人生の負け組でも自分の子として無条件で愛して下さっているのです。これが。神様から与えられた「飼い葉桶の中の乳飲み子」というしるしの意味するところではないでしょうか。

2. 羊飼いの信仰

そして、この神様からのメッセージとしるしを受けた羊飼いたちはどうしたでしょうか。なんだか変な夢でも見たなあとか、幻を見たと言って語り合うだけではメッセージを聞いたかいがありません。わたしたちも今日礼拝でメッセージを聞いたならば、それが本当かどうか、その通りかどうか生活の中で探し出し、確かめてみることが必要ではないでしょうか。聞くだけでは信仰の半分しかありません。

彼らの信仰は、このメッセージを現実の自分たちの世界の中に発見しようとしたのです。それはこのメッセージを信じたからです。信じたから、その晩のうちにベツレヘムの村に行って、片っ端から馬小屋、家畜小屋を探し回ったのではないでしょうか。今と違って、昔はどの家にも家畜小屋はありました。今の私たちの家にガレージがあるように大小の小屋があったのではないかと思います。何軒も探し回りました。そのメッセージの現実、事実を自分たちの生活の中に確かめ捜すことです。つまり御言葉の適用です。自分の生活に当てはめてみる、自分たちの生活の中から発見することです。

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(ルカ2:15~16)つまりこの世界には神様のメッセージの事実が隠されているのです。その事実を生活の中から見つけ出すことです。発見することです。そのためには何軒もの馬小屋を回らなければならないかもしれません。でも諦めずに御言葉を信じて、その事実を見つけ出すことです。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜すものは見出し、門をたたく者は開けてもらえるからである。」(マタイ7:7~8)簡単です。イエス様を求めればいいのです。このお方がわたしたちの宝物であり、真理であり、道だからです。このお方を求めることです。門は開かれているのですから、自分で叩けばいいのです。捜せばいいのです。

わたしたちに何か必要な物を求めれば、与えられると言っているのではありません。羊飼いに、今晩の暖房の薪を与えるとか、あなたがたに食べ物を与えるとか、もっと良い仕事を与えると言っているのではなりません。この飼い葉桶の乳飲み子のキリストを与えると言っているのです。わたしたちの問題の解決はここにあります。キリストを求めることです。これが神様の答えなのです。神様が教え示してくださった方、そしてわたしたちの喜びであり救いであるお方を、まず第一に求めることです。そうすれば、その他のことはすべて解決します。

そのためにもイエス・キリストをまず、探さなければなりません。求めなければなりません。門をたたかなければなりません。そうすれば、必ず見出すものです。何故ならすぐそばに来てくださったからです。ご夫妻も12年間、なかなか教会の門をくぐれなかったのではないでしょうか。すぐ近くにありながら、近くて遠い門です。入れるようでは入れないで12年間過ぎてしまいました。中には、30年も40年も近くにありながら帰るに帰れないでいる方がいます。

すぐそばにありながら、入れないのです。近くにあっても帰れないのです。でも、自分の目を天に向けて、神様を見上げた時に、そこには怖い罰を与える神ではなく、愛の優しいイエス様の御顔が見えたのではないでしょうか。そこが門です。入口です。主を求めるならば、そこに愛と赦しとやわらぎの顔が見えてきます。主の前に自分の罪を告白し、初めて一歩踏み出すことが出来たのではないでしょうか。自分の罪が赦されたと同時に、自分が赦していなかった人々への赦しの思いも湧き上がってくることはないでしょうか。

そして、この神様からの最大のプレゼントである御子イエス様発見した方は、もはやその喜びのあまり、自分の口からあふれ出る救いの知らせを抑えることが出来なくなってくるのではないでしょうか。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」(2:17)とあります。本当にこのイエス様を見つけた人、イエス様と出会った人は、もう黙っておられません。誰かにこの嬉しい知らせを伝えたいのです。

このイエス様と出会ったら、このお方を発見したら、仕事辞めても、家事を捨てても黙っていられないのです。人々に知らせたい、話したい、宣べ伝いたいという欲求と言いますか情熱があとからあとから湧いてくるのです。羊飼いはこの天使の出来事を、マリア夫婦にも話してあげました。そして「神を崇め、讃美しながら帰って行った」(2:20)とあります。これが羊飼いの信仰の生涯です。メッセージを聞いてそれを自分の現実の生活の中で適用して確かめ、発見し、その救いの出来事を人々に伝道し、毎日毎日神を礼拝するものとなり、そして最後には天国に帰って行ったのです。

そのすばらしい新しい人生の出発点が、このイエス・キリストの誕生です。皆様方の心の中に、今日、この知らせが届くことを願ってやみません。「今日、ダビデの町に救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストです。天に栄光、地に御心に適う人々に平和がありますように!」(岡田 久)

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