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罪の起源

メッセージ

2009年7月5日富里教会
        「罪の起源
                   (創世記3:1〜9)
                       
1. はじめに
さて、罪とは一体なんでしょうか。キリスト教は罪からの救いについて語っています。ですから、この罪が解からないと、聖書も神様の救いも、イエス・キリストの十字架も解からないことになってしまいます。日本人は罪というと犯罪を思い浮かべますが、聖書で言う罪とは、法的な犯罪よりも神様に造られ愛されているのに、その造り主である神に背を向けていることを意味します。神から分離していること、自分を造って下さった方を忘れていること、このお方に背を向けて自分の道を歩いていることが、罪の本当の意味です。ですから救いとは、真の造り主である神様にイエス・キリストを通して心を向け、本来の自分に立ち返ることです。これが信仰であり、悔い改めるとは方向転換を意味します。今朝はどのようにして罪が入り込んで来たのか、罪とは何かを、旧約聖書の創世記から見てみたいと思います。

2. 神は本当にそう言われたのか?
(神の御言葉に背かせる蛇)
神様がエデンの園を造った時、アダムにこう言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16〜17)と。ところが、いけないと言われると、逆にそうしたくなるものです。そこを蛇に身を隠したサタンが入り込み、彼らを言葉巧みに誘惑しました。
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』女は蛇に答えた。『私たちは園の木の果実を食べてよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。』」(創世記3:1〜5)

蛇が「『どの木からも食べてはいけない』と神様が本当に言ったのですか?」と尋ねた時、エバは「園の中央の木の実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」と答えています。このエバの答えの中にすでに、サタンの術中に陥っている心の迷いが見えています。まず第一に、エバは神様の言葉を言い換えています。神様は2:16で「すべての木から取って食べなさい、善悪の木以外は」と言っています。神様はすべてを許しているのです。でも、エバはたった一本の木が禁じられたことにこだわって、あたかもすべてが禁じられているかのような束縛と支配を感じてしまっているような言い方をしています。また「触れてもいけない」という余分な禁止項目まで付け加えています。もうエバの心の中には、神様中心の生活が窮屈だ不自由だという心が芽ばえ始めています。

そして、第二番目に決定的なのは「死んではいけないから」という神様の命令の言葉を、自分の都合の良いように言い換えています。つまり、2:17では、神様は「決して食べてはならない、食べると必ず死んでしまう。」と言っています。「必ず死ぬ」という言葉をエバは、「死んではいけないから」と言い換えています。これは、大きな変化です。サタンの罠にひっかかりました。つまり、エバはこの時、神中心の考えから、自分中心の考えに、既に移っていたのです。「死んではいけないから」と。果たして神様は私たちが死んではいけないから、命じたのでしょうか。

数年前に、小学6年生の女の子たちが、渋谷で監禁されるという恐ろしい事件が起こりました。この事件に、蛇とエバのやり取りを重ねてみると解かりやすいかも知れません。おそらく、この子達の親は「絶対に渋谷に行ってはいけない。大人でも誘惑されて事件に巻き込まれるから、小学生は一人では行ってはいけない。」と言ったのではないでしょうか。ところが、子供達はこの親の言葉を自分なりに解釈して、「お父さんがそう言ってくれるのは、私たちが死んではいけないからだね。お父さんありがとう。でも、私たちは子供ではないから、自分の行動には自分たちで責任をとるから。」と考えて出かけました。つまり、親の戒めを破っても自分たちで責任を取るから、もう子供ではないから、自分の人生は自分で責任を取ります。そういう、神中心ではなく、自分中心の世界に、彼女たちは踏み出して行ってしまったのでした。そして6年生の女の子達は、見知らぬ男に声をかけられ、監禁されました。犯人の青年は、死を覚悟で子供達を監禁したのです。死んで自分が責任をとれば何をしても良いという、自己中心の生き方、これが罪の始まりであり、罪の正体ではないでしょうか。今でも、そういう事件は後を絶ちません。

ここまでくれば、もうサタンの思う壺です。蛇はその本性を現して、いっきにエバに襲いかかりました。「決して死ぬことはない」。この言葉は、2:17の神様の言葉と真っ向から対立する言葉です。神様は「必ず死ぬ」と言ったのに、蛇は「死なない」と言いました。そしてこれがサタンの本性であり目的なのです。すなわち、自我という思いを持たせ、神の御言葉に背かせることです。エバはこのサタンの誘惑に負けて、転がるようにしていっきに罪の世界に落ち込んで行きました。

3. 二人の目が開け、裸を隠した
(罪の世界の現代)
サタンの誘惑に負けたエバは、夫アダムにも木の実を与えます。そして、その善悪の木の実を食べたとたん、二人の目が開かれました。
「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(3:6〜7)

罪の世界に真逆さまに落ちてゆく人間の姿が、ここに描かれています。エバは、木の実を見ました。善悪を知る木の実は、人間の目を引き付け、手を伸ばして食べるという、人間的な欲求を誘い出します。善悪を知りたい、神のように賢くなりたいという欲求です。アダムも、神の言葉を直接聞いたにもかかわらず、この妻の誘いの言葉には反対することができませんでした。それだけ、見る、取る、食べるという誘惑は、聞くということよりも強いということです。
とうとう、アダムもエバと一緒に、善悪の木の実を食べてしまいました。するとどうしたことでしょう、二人の目が開かれました。善悪を知るようになったのです。普通、目が開かれると言うことは良い意味で使われますが、自分中心の目が開かれ、自分の価値観、自分の尺度、自分の判断ができるようになったのです。自分という視点で物事を見、自分の視点で判断するようになったのです。今までは、神様の視点ですから、男女共に裸であっても恥ずかしいとは思いませんでした。でも、今度は違います。自分という視点ですから、お互いに肉体的な違いに気がつきました。そして、お互いに恥ずかしいと思って、いちじくの葉っぱで腰を隠したのです。

どうして自分の目が開かれたら、裸であることに気がついて、恥ずかしいと思ったのでしょうか。それは自分にないものを相手が持っていると思った時に、自分が欠けている、欠点をもっている、不完全だというコンプレックス、劣等感を感じるからです。だからあわてて、その欠点を隠したのです。神様の目から見たら、男は男、女は女、それぞれ違いますが、恥ずかしいことはありませんでした。それが、今、目が開かれて恥ずかしいと思うようになったのです。
例えば、お隣の奥さんが高級革のバックを持っていたとします。持っていない自分が恥ずかしく、なんだか否定されたような気持ちになりました。そこで、ご主人に訴えて、さらに高級なバックを買ってもらいました。そして、これ見よがしに隣の家のそばを、買い物に行くふりをして、そのバックを持って通りました。この、バックがいちじくの葉っぱです。自分の欠点、不完全さを隠すものです。欠点を隠し、相手よりも良いものでカバーします。時には、このいちじくの葉っぱが、高級車であったり、子供の学校であったり、会社であったり、地位であったりします。この自分の欠点を隠す比較と競争の世界が、残念ながら今日の私たちの世界です。ずっとこのアダムとエバの罪の遺伝子を皆、引継いできているのです。

4. アダムよどこにいるのか
(名を呼ばれる神) 
このエデンの園でも、罪を犯してしまった人間はもはや、自分で神様の前に出ることができなくなってしまいました。なぜなら、罪を犯してしまったからです。子供がお母さんのお財布から、お金を取ってしまったようなものです。恐いのです。しかられる、罰を受けると思うと素直に神の呼ぶ声に答えることができませんでした。神様がどうしたか、聖書を見てみましょう。
「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(3:8〜9)
聖書には「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を捜し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行うものはいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10〜12)とあります。このアダムの犯した罪によって、すべての人は生まれながらにして罪人です。罪の性質を持って生まれてきます。罪のない人は誰もいません。この罪が、なかなか現代人には解かりません。しかしその罪の証拠として、私たち人間はすべて、例外なく死を迎えます。この死は、実は罪の結果なのです。ローマ5:12を見てもらいましょう。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだのです。」とあります。アダムの罪によって、アダムがエデンの園から追い出されて、死を負わせられるようになりました。罪を犯すまではアダムはエデンの園で、永遠に生きていましたが、罪を犯した結果、死を迎えるようになりました。死の原因は罪なんです。私たちは死を恐れますが、真に恐れるべきはその原因である罪なのです。ですからこの罪からの解放が、私たちを再びエデンの園に帰してくださり、神とともに永遠に生きることを可能にして下さるのです。

木の間に身を隠したアダムとエバに向って、神は「どこにいるのか?!」と今も呼びかけていてくださいます。神様はイエス・キリストの十字架で私たちの罪を贖い、赦して下さいました。「私はあなたの名を呼んだ。あなたの罪を贖った。私はあなたを愛している。あなたは私のものである。あなたは私の目に尊い。」(イザヤ43:1〜4)。何もブランド品で、自分を良く見せようとする必要はありません。神様の前ではたとえ裸であっても、お互いに自分の欠点を隠す必要はありませんでした。欠点を持ったままで、汚れや罪をもったままで、不十分なままの自分でいいのです。今朝、この神様の呼ぶ声に答えて、主の元に帰ろうと、一歩、足を踏み出す方はいませんでしょうか。

                                         (岡田 久)

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