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罪の結果

メッセージ

2009年7月12日富里教会
            「罪の結果」
        (創世記3:8〜19)

1. 四つの非(あら)ず(=罪の現実)

さて、罪という漢字を知っているでしょうか。この「罪」という漢字をよくよく見てみますと、「四つの非」と書きます。「非」は「あらず」とも読みますが、これは正しくないこと、マイナスを意味しています。つまり、罪と言うことは四つの間違い、四つの正しくないことを示しています。
まず第一番目の「非ず」は、神と人間との間が引き裂かれたことです。いつもは夕方の風の吹く涼しい頃には、神様が人間に会いに来ました。しかし、アダムとエバは神の顔を避けて、エデンの園の木の間に身を隠しました。神が近づき、声をかけても人間の方で顔を背け、身を隠してしまったのです。神の顔を避ける、身を隠す、呼ばれても答えない。人間が自分の方から神との関係を断ち切ってしまったのです。この神と人間との断絶、これが罪の状態です。子供が悪いことをして、お母さんに名前を呼ばれると本能的に隠れてしまうようなものです。神様に対して、恐れを感じるようになりました。神の顔が恐い顔に思えてきたのです。真の神を知らない日本人は、神の顔を思い浮かべると、恐い鬼の顔になってしまうのもここに原因があります。この時から人間は、身体だけではなく、自分の心も神の前に隠すようになってしまいました。3章9〜10節をみてみましょう。「主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

第二番目に、人間は自分自身を偽ってしまいました。自分の裸の姿を隠すために、腰にいちじくの葉を巻いたのです。自分の真の姿、欠点を持った姿、短所や弱さを持った自分の本当に裸の姿を見ないようになりました。誰も人間は、自分はアダムの子孫、カインの末裔だとは思いません。神に背き、神と断絶しているという自分の本当の罪の姿を隠して、自分自身を偽っているのです。背伸び、見せ掛け、体裁を取り繕うとする姿です。自分自身の裸の姿を真正面から見ようとしないことです。この自分の真の姿を偽ることによって、本来の自分自身との間に第二の「非ず」という罪を作ってしまいました。

第三番目の「非ず」は、人間同士の「非ず」です。
11節から読んでみますと「神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので、食べました。』」(3:11〜12)
これは何ですか。そうです。責任転嫁です。アダムは自分が罪を犯したのは、自分ではない、あの女が、私に食べるようにといって唆したので、しかたなく食べたのです。悪いのは私ではありません。あの女です。しかも、あの女は、神様、あなたが私に与えたものです。悪いのは、神様、あなたです、といわんばかりの弁解をしたのです。こうして、神との断絶が人間同士の断絶をも引き起こしてしまいました。この時から人間は決して自分に罪を認めず、相手のせいにしてしまう自分中心の生き方になってしまったのです。これが第三の「非ず」です。

第四の「非ず」は、人間と被造物との関係が崩れたことです。エバも自分が悪いとは、決して言いませんでした。13節以下を見てみましょう。
「主なる神は女に向って言われた。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』主なる神は、蛇に向って言われた。『このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。』」(3:13〜15)
こうして蛇と女との間に敵意が起こり、お互いに争い合う関係になってしまいました。人間が自然を治めて、自然の繁栄を助けるのではなく、人間と自然界には敵対関係が生じ、今日のように自然は人間の手によって破壊され、地球温暖化という終末的な危機を迎えております。これが第四の「非ず」です。

このように、アダムとエバの犯した罪の起源である原罪によって、神と人間の関係が絶たれ、自分自身を偽り、人間同士の関係が壊され、人間と自然との関係が崩れてしまいました。これが今日の私たちの世界の姿です。アダムとエバは神様が造られた最初の人間です。人間の雛型です。りんごの木がりんごの実をつけ、ミカンの木がミカンの実をつけるように、罪を犯したアダムの子孫は、アダムと同じ罪を持って生まれてくるのです。

すべての人は例外なく罪人です。しかも、人間は、自分の意志の選択をもって罪を犯しました。よく、自分がこうなったのは、産んだ親が悪いと言う人がいますが、同じように、造った神が悪いと言う人がいます。果たしてそうでしょうか。そうではありません。最初、神様は最高の完全な人間と世界を造られました。ロボットを造ったのではなく、ちゃんと自分の心と意志を持った自由な人間を造ったのです。しかし人間はこの意志と自由をもって、自分で罪を犯してしまいました。もはや弁解はできません。

2. キリストの恵みはアダムの罪よりも強い
3:15の言葉を見てみましょう。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」とあります。少し解かりにくいので、説明しますと、「お前」とはサタンである蛇のことです。つまり、蛇の子孫であるサタンとエバの子孫であるキリストとの間に敵対関係が存在すると言うことです。そして、お互いに闘うわけですが、最後には、キリストがサタンの頭を砕いて勝利されるということを意味しています。でも、キリストも蛇にかかとを噛まれて傷を負います。
これは何を意味しているかと申しますと、イエス・キリストの十字架の勝利を表わしているわけです。イエス・キリストが全人類の罪を背負って身代わりになって、十字架で息を引き取られます。そのときサタンは神に勝ったと一瞬、罪の勝利を喜びます。これがキリストのかかとを砕くと言うことです。でも、イエス・キリストは三日目に罪と死とサタンに勝利されて甦られました。そして、十字架と復活を通して、完全に罪と死とサタンを打ち砕いたのです。これが、蛇の頭を砕くと言う意味です。
つまり、どんなに罪がこの世界を支配していても、イエス・キリストを通して示された神の恵みの救いのみ業は、アダムの犯した罪よりも圧倒的に大きく、罪を飲み込んで満ちあふれるほどのものであるということを示しているのです。
実は、この創世記の3:15の御言葉を表わした像が、函館のトラピスチヌス女子修道院の中にあります。マリヤと思われる一人の女性が、剣を抜いて立っているものです。そしてその足元を良く見ますと、蛇が頭を砕かれて苦しんでいる姿が彫られているのです。最初、なんだか気味の悪い変な銅像だと思ったのですが、その後、この聖書の中の、女の子孫がサタンの子孫の頭を打ち砕いて、完全に勝利すると言うことを表わした像ではないかと気がつきました。

エバの子孫として生まれたイエス・キリストの恵みは、アダムの犯した罪の力とその支配よりははるかに大きいのだということを、パウロもローマ書の中で述べています。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」(ローマ5:15〜16)

キリストの恵みはアダムの罪よりもはるかに大きくて、強力で、満ちあふれているというのです。たった一人の人アダムによって罪が入り込んで、全人類を今日に至るまで、死が支配してきたわけです。でも、キリストの十字架は、その数え切れない人々の多くの罪を、たった一人の人の死によって償ったわけですから、この一人の人キリストの恵みは、アダムの罪なんかと比べ物にならないほど大きいということになりはしないでしょうか。これが、「キリストは蛇の頭を砕き、蛇はキリストのかかとを砕く」ということの意味ではないでしょうか。
キリストの十字架の贖いと救いの恵みは、アダムの罪を完全に覆い尽くすということを述べているのです。どんなに罪が増し加わっても、キリストの愛と恵みはなお満ちあふれてあまりあるのです。

すでにこの恵みの支配、天国はイエス・キリストを通して、この罪と死の世界に入り込んできました。エデンの園が到来しました。死はもはやイエス・キリストを信じる私たちにとって、何の支配もできません。なぜなら、私たちはすでに、永遠の命を得ているからです。クリスチャンにとって死は終わりでも悲しみでもありません。天国への旅立ちであり喜びです。必ず、人生は復活の朝を迎えるのですから、その朝を待ち望みながら、希望を持って生きてゆくことができます。

「どこにいるのか」と神様が問いかけた時、裸のままで、素直に主の前に出て、「神様、ごめんなさい、私が木の実を食べました。あなたの御言葉に背きました」と告白するならば、主が無条件で赦して下さるのです。私たちと神様との関係をまず第一に回復することです。そこにこそ、この罪に満ちた世界の回復の道があるのではないでしょうか。今朝、この主の恵みの前に一歩足を踏み出す決心をされた方はいないでしょうか。また、クリスチャンの方も共にこの主の恵みの前に、自分の罪を告白して、また新しい一歩を踏み出すものとなりましょう。

                                  (岡田 久)

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