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罪の力にまさる神の救いの成就 (マタイ2:13~23)

メッセージ
2020/12/27
富里キリスト教会礼拝説教
「罪の力にまさる神の救いの成就」
(マタイ2:13〜23)

①預言の成就―エジプトへ
先週は、三人の博士と救い主であるイエス・キリストとの出会いを通して、私たち全人類の救いのためにお生まれになった救い主なる主イエス・キリストのお誕生、クリスマスを共に喜び、祝いました。きっと当時の三人の博士たちとヨセフ家族の上にも喜びが溢れていたことでしょう。
しかし、その喜びの時もつかの間、ここから場面は急展開へと向かっていきます。

2:13
「占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている』」

ヨセフの元に再び天使が夢に現れて告げます。しかも今度は喜びの知らせではありません。ピンチの知らせ、警告です。ヘロデが救い主を殺そうとしている。博士から話を聞いた時からヘロデにはそのような魂胆がありました。新たなユダヤ人の王など出られては困る、ワシだけが王なのだ。ワシの全てを奪う恐れのあるものは決して許さん。ヘロデの執着からくる憎悪がそこにはありました。
そんなヘロデの悪意を主は全てお見通しでした。天使を遣わしエジプトへとヨセフたちを導きます。「エジプトへ行け。そして、いいというまでそこにいろ。」ヨセフたちにとっては寝耳に水だったことでしょう。イエス様も生まれてほっと一息といったところだったかもしれません。しかし、ヨセフは戸惑うことなく従順に言われた通り、しかもその夜のうち、言われてすぐに行動をしました。ここでもヨセフのよき信仰者としての姿勢が窺えます。
そして、彼らはエジプトでヘロデが死ぬまで言われた通りにじっと待っていました。いわば、彼らは逃亡生活です。きっと、とんでもないストレスとプレッシャーがあったことと思います。まだか、まだか。普通であれば焦りたくなるような状況です。私だったら待ちきれずに勝手にまたどこかに動いてしまったかもしれません。元来、人は待つということがとても苦手な生き物です。しかし、彼らはこの逃亡生活においても焦らず、神様の導きと守りを信じて、じっと待っていたのです。忍耐という名の信仰がそこにはありました。信じているからこそ忍耐して待つことができるのであります。日々私たちの人生には様々なことが起こりますが、それでもぐっと忍耐している、そのあなたの姿には信仰というものが土台となっているのです。そしてその忍耐はその先にある希望へと必ず導いていくのです。

②ヘロデの子殺しの背景
ヨセフを始め、イエス様は神の守りによってエジプトで安全に過ごすことができました。救い主、メシアの誕生は旧約聖書で預言され、ずっとイスラエルの民が待ち望んでいたこと。その神の救いの計画は必ず神によってなされます。だれもこの預言の成就を止めることはできません。救い主は守られました。しかし、それとは逆にベツレヘムでは悲しい事件が起こります。

2:16
「さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知って大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」

ヘロデは、博士たちに騙されていたことに気づくと逆上し、世にも恐ろしいことを始めたのです。自分を脅かす芽はどうしても摘んでおきたい。すでに星の出現の時間は博士から聞き出している。その赤ん坊の誕生の時は知っているので2歳以下のベツレム中の子供を殺せばライバルのユダヤ人の王も殺し去ることができるはず。そう思ったヘロデは躊躇なくたくさんの子供たちを殺したのでした。ヘロデ大王という人物の性格は残忍きわまりなく、猜疑心と恐れの塊だったと言われていますが、そのような性格が如実に表れているような事件です。彼のこの行動は常軌を逸したものと言えるでしょう。目を背けたくなるような人間の罪に満ちた話です。聖書はこの出来事に対して怒りではなく悲しみと嘆きを表現しています。

2:18
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

マタイはこの子殺し事件をエレミヤ31:15の預言の成就と示します。エレミヤはバビロン捕囚される民がヤコブの妻でありイスラエル民族の生みの母でもあるラケルの墓のそばをとおっていくときラケルは墓の中でどんなに嘆いただろうかと言います。このラケルの嘆きはそのままベツレヘムの母親の嘆きとなりました。
ラマという場所はラケルの墓があるところであり、ベツレヘムへの道にありました。そしてそのラケルの嘆きには主の慰めと希望が与えられます。神の民の新時代が来て、そして預言は新しい契約を結ぶ日が来ると展開していきます。
ヘロデの行為は人間の罪性を凝縮した、悪の根源のようなものと言えます。子を殺されて悲しむ母親の姿はその罪の世界に痛み、傷つき、嘆く私たち人間の姿が重なります。しかし、その暗闇のどん底の中に救いの希望が降りてきてくださったのです。
ただ、ここで一つ心に留めておいてほしいことがあります。それはこのヘロデの残虐行為そのものが神のみわざによるものだと言っているのではないということです。預言の成就ということを何度もマタイは語りますが、実はこの17節だけは「主が」という言葉と「ためである」という語がぬけています。マタイ福音書は人間の罪の結果起こることと、神のみむねとをはっきり区別しているのです。人間の不信仰と罪に対する嘆きこそが聖書の指摘している事柄なのです。
しかし、このヘロデ王という男はなぜ、ここまでのことをしたのでしょうか。あまりにも常軌を逸しています。実は彼がこのようなものになってしまったことにはいくらか経緯があります。少し彼の人格形成の背景について見ていきましょう。
ヘロデはまずイドマヤ人であり、ユダヤ人ではありませんでした。ユダヤ教に改宗した異邦人だったのです。彼は当時のユダヤ王朝であったハスモン王朝の内紛に乗じて力を伸ばし、それゆえ何度も命をそのハスモン家から狙われました。そのため、彼はローマ帝国にすり寄り、ローマの傀儡政権として王と認められました。しかし、パリサイ人は彼のことを半ユダヤ人と蔑み、ローマに友好的なため憎みました。ユダヤ人は誰も彼を王と認めていなかったのです。そして外には、エジプトのクレオパトラなどの敵がいました。内にも外にも彼には敵しかいなかったのです。誰にも認められず、そして彼自身は誰も信じられなかった。
結果、彼はローマにもユダヤ人にもいい顔をしようとします。ローマ皇帝のためにカイザリヤという皇帝追従の名前を町につけ、ローマ風の建物もたくさん作りました。ユダヤ人に対しては、エルサレム神殿を大々的に改築をしました。しかし、どちらからもやはり、認められません。
最終的にはヘロデは大切な家族すら信じられなくなります。十人の妻により十五人の子を得たヘロデの家庭は散々たるものでした。中傷を鵜呑みにして最愛の妻マリアンメを処刑してしまいます。そして妹サロメが息子のことを中傷すると今度は疑心暗鬼で息子を何人も殺してしまいます。そして、その処刑の5日後、ヘロデ大王は国民からも近親からも憎悪され、不審と病苦にさいなまれつつ死にます。ベツレヘムの幼児殺しはこういう状況下の事件だったのです。
だれにも認められず、何も信じることができなかったヘロデ大王。しかし、これは想像ですが、何も信じられなかったからこそ彼は、本当は揺るぎない何かを信じたかったのではないかとも思うのです。しかし、残念ながら彼は、救い主を信じ、受け入れることはできませんでした。彼は実は三人の博士を通して誰よりも早く救い主の誕生を聞いていたはずなのに。彼は本当に欲しかったものを信じ、受け入れることができず結局自分の握りしめていた顕示欲や名誉欲を捨てることができませんでした。その闇をサタンが最大限に用い、ベツレヘムの幼児殺しという悲劇が生まれてしまったのです。ここに救いを止めようとする悪の力が働いていたことが見えます。

③悪に負けない神の救い
ヘロデにおけるベツレヘムの幼児殺し。目を覆いたくなるような悪の極みがそこにはありました。しかし、神の救いの計画はどのような悪の企みがあったとしても決して頓挫することはありません。救い主イエス・キリストは主の天使に守られ、そして主のしもべなるマリヤとヨセフによって守られエジプトで豊かに成長していきます。神の救いを止めることは何人にもできません。神の救いは必ず成るのです。
私たちの生きる今の現代社会を見ると悲しみや嘆きを覚えることもあると思います。目を覆いたくなるような虐殺事件がいまだに起こったりします。ヘロデの時代と何にも変わっていないような一面を見て、絶望したくなる時もあります。悪はいまだに神の救いの御わざを止めようと画策してきます。しかし救い主はすでに来られ、十字架をもって私たちの罪を、そしてこの世界そのものをも贖われました。どのような罪や悪がはびころうとも神によってこの地は回復されていきます。
「御国を来らせたまえ」主イエス・キリストが来られ神の国はいまや、完成へと少しずつ近づいております。そして私たちは、その御国の建設に参与する一人の信仰者であり悪の力と戦う戦士でもあります。ヨセフとマリヤも救い主を守るため悪と戦いました。信仰を盾とし天使の言葉、つまり私たちでいう御言葉を剣として、グッとこらえ忍耐して救いを待ち望んでいたのです。私たちも彼らのようにこの歪んだ時代にあって神の武具を手にとって、来たる救いの完全な完成、終末を待ち望み、その救いの計画の一端を担う者としてみこころを表していきたいと願います。

エフェソ6:13〜18
「だから、邪悪な日によく抵抗し、全てを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」

そしてその戦いは必ず勝利を持って終わりを迎えます。なぜなら主イエスはすでに世に勝っておられるからです。暗闇、苦難は必ず終わるのです。ヨセフたちの悪との戦いは天使によるヘロデの死の通告をもって終わりを迎えます。この知らせは勝利宣言とも言えますが、罪ある人間の悲しい末路の知らせでもありました。
ヘロデは猜疑心によって最愛の妻を殺し、息子たちも次々殺し、国民からも近親からも憎悪され、寂しく、孤独の中、死にました。そして、その死に際は極めてヘロデの性格が現れたものでした。ヘロデは自分が死期を迎えていることを知ったときユダヤ全国の主要な人物全員に使者を出して、エリコにいる彼のところに来るようにと命じます。そして、そこでかれらを競技場に閉じ込めるように命令をします。
そして彼は自分が死んでもだれも嘆いてくれないことを恐れて、妹サロメに彼が死んだらその死が公に発表される前に競技場内の全ユダヤ人指導者たちを殺すようにと命令をくだします。このようにして彼は「自分の葬儀に際して後世に残る哀悼の栄誉」を受けようとしたのです。自分の死を悲しむように演出しようとしたのです。信じられないような狂気です。最後まで彼は常軌を逸していました。
ヘロデは、目の前にある救いを信じることができず、最後まで悲しい選択をしてしまいました。本当は心の底で求めていた、信じたかったものがあったのに、彼は結局自分の栄光に走ってしまったのです。その方法はまさに狂気そのものでした。悪の力、サタンに囚われた者の末路です。
しかし、そんなヘロデのいる時代に裸で救い主イエス・キリストはお生まれになりました。イエス様は全ての者の救いのためにお生まれになりました。ヘロデのためにも生まれたはずでした。しかしヘロデ自身が自分自身でその手を振り払ってしまったのです。救いを信じるかどうかで私たちの人生の明暗がはっきりと分かれてしまうことを痛感いたします。

④イエスのために生きた両親
ヘロデの死をもって暗闇の悪は過ぎ去り、救いは守られました。ヨセフたちは安心してイスラエルへと向かいます。
しかし、そこでユダヤではヘロデの息子のアルケラオが支配していることを聞き、またもや不安に襲われます。アルケラオは国中の最有力者3千人を計画的に殺したりと父親に負けない残虐性を持っていたからです。人生とはこのようなことの連続ですね。安心―不安―安心―不安と。行ったり来たりです。
しかし、みこころを求めて主に信頼を委ねて生きるならば必ずそこには主の守りがあります。天使はこの夫婦に最後まで付き添い、再び夢で、ガリラヤーナザレに行くように告げ、彼らはその場所でやっと落ち着いて平穏に生きていくようになります。
マタイはこの出来事を淡々と書いておりますが、ヨセフとマリヤの人生はまさに波乱万丈だったと言えるでしょう。ガリラヤ、その中でもナザレという街は超ど田舎です。旧約聖書の中からは一回もでてきません。ダビデの血筋、救い主メシアが暮らすにはとてもふさわしい場所とはいえないかもしれません。それにヨセフもマリヤも若い二人です。田舎ではなくもっと都会で暮らしたかったかもしれません。しかし、彼らはナザレでひっそりとイエス様を守りながら生きていきます。
その二人の姿からは自己中心は見えません。ヘロデ王と真逆と言ってよいでしょう。救い主であるイエス様に人生をすべてささげたのです。イエス様中心の人生を歩みましょうとよく言われますが、救い主がお生まれになってから、その救い主イエス・キリストを中心とした人生を最初に歩んだ信仰者は両親であるヨセフとマリヤだったと言えるでしょう。
救い主イエス・キリストの誕生は旧約聖書の預言の成就であるとマタイは何度も主張します。そして、それは事実であり、イエス・キリストの誕生は確かに預言されていた、神の救いのみわざなのです。しかし、先々週も言いましたが神の救いのご計画、みわざは信仰者を通して成されていきます。
今日の箇所からは救い主を間において、はっきりと明暗の分かれた二つの生き方が見えました。一つはヘロデ大王の生き方です。本当は待ち望んでいたはずの救いを信じることができず、自分の欲望を握りしめ悪へと落ち、サタンにとらわれてしまった。もう一方はヨセフとマリヤの生き方です。彼らは神の言葉を信じ、恐怖が押し寄せても踏みとどまり、神の救いのご計画の一端を担う者となりました。
救い主である神は人となってこの地に降りてこられました。全ての人間の救いのためにです。例外はありません。ヘロデのためにも、ヨセフのためにも主は来られたはずなのです。しかし、ヘロデはその主のみこころを受け取らず、本当に悲しい人生を終えました。しかし、そのような悲しい結末を主は私たちに望んではおられません。主のみこころは私たちがこの救いを受け取り、喜びの中、神を中心として生きていくことにあるのです。私たちのために来られた主イエスを信じ、この福音に人生を預けて、今もなお行われている神の救いのみわざに私たちも参与してまいりましょう。

武井誠司

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