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罪に死に、キリストと共に生きるバプテスマ (ローマ6:1~14)

メッセージ
2018年7月29日富里キリスト教会
「罪に死に、キリストと共に生きるバプテスマ」
(ローマ6:1~14)
1. アブラハムの信仰

ユダヤ人にとりまして、イスラエルの民に入るということは、その律法を守ることにありました。そして律法には、男子は割礼を受けなければならないとあります。そして生まれた赤ちゃんには、8日目に割礼を施すとなっています。アブラハムは割礼を受けたから信仰を持ったものと認められたのでしょうか。そうではありません。アブラハムは割礼を受ける前に、すでに信仰を認められて罪赦され、神の前に義とされていました。創世記15:5を読んでみましょう。「主は彼を外へ連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5~6)信仰によって義とされたのです。そしてこのアブラハムの信仰を、わたし達も同じように受け継いでいるのです。

パウロはこう言っています。「彼(アブラハム)は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(ローマ4:20~24)

なぜ私たちもアブラハムの子孫かと言いますと、この神の言葉であるイエス・キリストを信じたがゆえに、わたしたちもアブラハムと同じ信仰を持つものなのです。つまり、見えるものではなく、見えない神に約束の御言葉を信じること、これが信仰の条件です。アブラハムが主の言葉を信じて、それが義とされた、つまり罪赦されたということになるのです。「イエス・キリストはわたしの罪のために十字架に架かり、三日目に復活されて今も生きておられる」というこのみ言葉を信じること、これが義とされた信仰者です。聖書の御言葉を信じる信仰です。これがアブラハムと同じ信仰者です。そういう意味でわたしたちはアブラハムの子孫なのです。アブラハムは、わたしたちの信仰による父なのです。そしてわたしたちは血縁ではない霊のイスラエルなのです。

アブラハムはこの後、創世記15章の後に、17章24節にありますが、「アブラハムが包皮に割礼を受けたのは、99歳であった。」とあります。しるしはあとでつけたのです。この割礼の前に既にアブラハムは、主の御言葉を信じて義とされていたのです。割礼もバプテスマも目に見えるしるし、儀式ではありますが、この儀式やしるしが罪を清めるのではなく、その人の信仰がその人を罪から救い、清めるのです。この水のバプテスマは、これからイエス様と一緒に歩んでゆきますという、主に従う従順の信仰生活の第一歩です。バプテスマは、心の決心を行動で表すという証の生活の第一歩なのです。イエス様がバプテスマを受けられたように、わたしもイエス様の後に従いますという決心の表れです。

God took Abraham outside and said “Look up at the heavens and count the stars”. And God said to him “So shall your offspring be”.
Abraham believed the Lord, and God credited it to him righteousness.
Abraham believed the word of God. This is his righteousness. Being righteousness means that there is no sins in him. Same as Abraham believed the word of God, if we believe in Jesus Christ as the word of God we will be saved. We will be righteousness. And then we will be baptized. Ritual of baptism do not save us but our faith will save us. Abraham believed the word of God and if we believe the word of God as well as Abraham, we will offspring of Abraham. Abraham is our father of faith. We will become one spiritual Israel.

2.イエス・キリストに結ばれるバプテスマ

ではどのようにして、これからの信仰生活を歩んでいったらいいのかということが、今日の聖書箇所でありますローマ書6章に述べられています。イエス・キリストの十字架と復活による万民の救い、この神の救いということは、あまりにも大きくて無限大なのです。どんな罪をも飲み込むほどの恵みと赦しと贖いがそこになります。しかしかといって、そんなに罪のある所に恵みが満ち溢れるくらいなら、我々はもっと罪の中にとどまっていようではないかという人がいたようです。

皆さんの目の前にありますように、このバプテストリーは、お墓を意味しています。わたしたちはイエス様とともに死んだものなのです。しかも罪に死んだものです。イエス様の十字架の死によってわたしの罪もそこに葬られたのです。いや死んだのは自分という、私自身でもあるのです。ですから、もう一度罪を体験して恵みを再確認したいとかと考える必要はありません。罪に死んだものが、どうしてまた罪を重ねることができるでしょうか。わたしたちはすでに死んだものです。イエス・キリスト共に。

ですからも昔のように、罪に支配され悪から悪へと落ちて行くことはないのです。そこから引き上げられたものです。キリスト共にあるならば、もはや死も苦しみも闇も罪も支配しないのです。それから自由にされたものです。イエス・キリストは罪と死に勝利されて復活されましたから、キリストの十字架と復活を表すこのバプテスマにあずかった者は皆、罪に死んだものなのです。キリストによって、罪が消去されたものです。ですからどうしてまた私たちが、罪の中へ戻っていいでしょうか。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた私たちは皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。わたしたちはバプテスマによってキリスト共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3~4)

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマ6:11~13)

先日来、かつて日本中を震撼かせたオーム真理教事件の死刑囚の幹部が次々と死刑執行されています。中には自分の罪を認めて、万死に値することをしたと観念して死に向かった人もいると聞いています。たとえどんな凶悪犯でありましても、死刑に際しては死に対する恐怖感を覚えるのではないでしょうか。でも、イエス・キリストを信じるならば、キリスト共に罪に対して死んで、キリストと共に新しい人生に生きることができるのです。今までの罪を全部ご破算にしていただいて、釈放されたのがわたしたちなのです。もし、オームの幹部の中で、この無条件の救いにあずかる人がいたならば、果たしてもう一度あの凶悪な宗教活動に戻る人がいるでしょうか。今度は悔い改めて、正しい生き方を求めるのではないでしょうか。

わたしたちも皆、そのような罪の中から救い出されたものです。無条件で恵みによって罪なしとされたものです。いったん死刑を宣告されたものですが、神様の恩寵によって、無罪判決の宣告をしていただいたものなのです。それがイエス・キリスト共に死んだもの、キリスト共に十字架につけられたものという意味です。そして、その死刑台から生還させられた人は、残りの人生を神と共に愛と感謝の内に生きるのではないでしょうか。もう二度とカルト宗教に足を踏み入れてはいけません。もう二度と、同じような罪の世界に足を踏み入れてはならないのです。むしろ、無罪放免された者として、今行かされていることを、感謝をもって神と人とに仕えてゆくのが新生者の生き方ではないかと思います。それが古い自分、肉の自分、罪の自分に死んだというバプテスマの意味です。

Recently death row prisoners of Aum truth religion affair have been sentenced to death. some of prisoners recognized his sins and prepared to take the death penalty. But the good news to sinners preached the redemption of all sins. By the blood of Jesus sinners criminals all forgiven and clear his sins. Being immersed into the water

and going up from the water, we can died with Christ and we will live with Him. Baptism unite us with Christ. We are the one of new born again. We are the follower to Jesus. Can we back to the old lifestyle down to the death? Paul says “Do not offer the parts of your body to sin, as instruments of wickedness, but rather offer yourselves to God, as those who have been brought from death to life, and offer the parts of your body to him as instruments of righteousness.” (Romans 6:13)   

3.キリストと共なる人生

わたしのPCのアドレスは「romans68」となっています。これを見た人は「岡田さんは、68歳までロマンスを追い求めているのでか・・・?」と不思議そうな顔をします。「いや、これはロマンスではなく、聖書のローマ人への手紙という意味です。その中の6:8がわたしの人生で大きな転換点を与えたみ言葉なので記念に残しているのです。」と答えることにしています。つまり、「わたしたちは、キリスト共に死んだのなら、キリスト共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:8)という言葉です。

このころわたしは、復活ということが良く分かりませんでした。自分の罪のためにキリストが十字架に架かってくださったことは理解しました。でも果たして復活はあるのだろうか、どんな世界が待っているのだろうかということが分からなかったのです。おそらく誰でもそうだと思います。まだ復活という事実を体験したことがありませんから。それを体験して実際に復活された方は、イエス・キリスト様おひとりです。

ここで6:8の御言葉の中に、「共に」という言葉があります。この「共に」という言葉に励まされまして、自分としてはまだ復活ということがどうなるのかわからないけれども、イエス・キリストがすでに十字架に架かって死んでくださり、三日目に復活して下さった。このお方だけが復活を体験されたのだから、このお方を受け入れて信じて共に歩むならば、きっとわたしもイエス様と一緒に復活の恵みにあずかるに違いないと思ったのです。復活というのはそういうものではないだろうかと思いました。つまり、まだ体験したことがない未知の出来事ですが、既にそれを体験されて生きておられる方がおられる。このお方と共に歩む人生です。このお方が生きておられるから、わたしたちも生きるに違いない、これが「キリスト共に死んだのなら、キリスト共に生きることになると信じる。」ということの意味ではないかと思います。

この浸礼のバプテスマは、イエス・キリスト共に死んで、イエス・キリスト共に生きるための最初の証の第一歩であります。決して人生のゴールではありません。むしろ新しい人生のスタートです。それと同時に、この水の中から上がるということは、キリストの再臨の時に、墓の中から復活させられて永遠の御国へと引き上げられるということの約束でもあるような気がします。主が死んでくださったので、わたしも古い罪の自分に死ぬことができる、そして主が復活して下さったので、わたしも共に復活させていただくのです。

このようにして、昔も今もそして将来も、イエス・キリストが共にいてくださること、主がそばにいてくださること、これに勝る喜びはありません。詩編に次のようなみ言葉があります。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたはわたしの右の手をしっかりつかまえられました。」「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(詩編73:23、28)主と共なる人生、バプテスマを受けた者の新しい歩みです。それはわたしたちが選んだのではなく、主ご自身が先にわたしたちを選んでくださったからです。

My favorite word of Bible is Romans6:8. I use this word as my mail address. Paul said “Now if we died with Christ , we believe that we will also live with him”. I like this word “with”. Through Baptism we will be planted to Jesus and united with Jesus. First stage of my faith I believed the redemption on the cross but I could not believe the resurrection of myself, I had not an assurance of resurrection. But Jesus Christ died and raised up before we live. Only he experienced the resurrection. So if I believe in the cross of his redemption, I may also be resurrected with Jesus. Through Jesus Christ I will be raised up on that day. Jesus is always with us through the mountains and the valley where we have to go. This is the meaning of baptism that is start point of long journey with Jesus Christ. Psalmist says “I am always with you; you hold me by my right hand, It is good to be near God”
(Psalm 73:23,28)

  

そしてまた、長い信仰生活、たとえ罪を犯すようなことがありましても、キリストの愛はわたしたちを放しません。「わたしはあなたを愛しているよ。決してあなたを見放すことはありません。」いつもそばにいて語りかけてくださっています。たとえ罪が増し加わったとしても、神の恵みはそれをはるかに超えて大きく包んでくださるのです。これが「キリストと共に」ということの意味です。恵みのある人生です。ですから自分の罪を告白して、熱心に悔い改めましょう。毎日毎日が、悔い改めの人生です。もはや罪の中に留まることも、罪に支配されることも、罪の中に快楽を覚えることもない新しい人生です。これが、キリストと共なるバプテスマにあずかった者の生き方ではないでしょうか。それの行き着く先は、永遠の命です。

最後にローマ書の6:12節以下を読んで終わりたいと思います。
「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義の武器のための道具として罪に任せてはいけません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマ6:12~13)神の道具、神の武器としてこの体を献げてゆきましょう。         

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