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結婚について (Ⅰコリント7:1~16)

メッセージ

2013年7月7日富里キリスト教会

「結婚について」
(Ⅰコリント7:1~16)

1.夫婦の体は共有のもの

「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得し合ったうえで、もっぱら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になると言うなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないとも限らないからです。もっとも、私は、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。わたしとしては、皆がわたしのように一人でいて欲しい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(7:1~7)

「男は女に触れない方がよい。」と冒頭に書かれてあります。コリントの町に住んでいる男性の場合、町の神殿娼婦とみだらな関係を持つというような悪しき習慣もあったのではないでしょうか。そうしますと、奥さんの方がもうあんな人とは一緒に居たくないと言って、別れ話や離婚の相談がパウロのところまで行ったのではないかと思います。そういうみだら行いを避けるために「男はめいめい自分の妻を持ち、女もめいめい自分の夫を持ちなさい。」と勧めています。そして、夫は妻に夫としての自分の務めを果たし、妻もまた自分の夫に妻としての務めを果たしなさいと言っております。

そして、妻は夫を拒んではいけないし、妻は自分の体を意のままにすることはできず、夫の方はその権利を持っているのだと言っています。そしてまた、夫も同様に自分の体を自分の意のままに使って、娼婦と関係を持ったりすることはできません。夫の体を意のままにする権利をもっているのは妻の方ですと言っています。このように夫婦は、互いに自分の体を自分勝手に使うことはできないのです。夫婦の体は、どちらも二人のものであり、いわば共有財産だということです。その体に対する権利は、お互いに持っているというのです。それが夫婦だと言っています。

ただ、クリスチャンの夫婦ならば、時には、祈りに専念するために別居生活もありうるかもしれないというのです。しかしその場合でも、パウロは三つの条件を出しています。5節に「納得したうえで、もっぱら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になると言うなら話は別です。」とクギを刺しています。一つは「お互いに同意をしたうえ」です。どちらかが一方的に、今日から祈るためにしばらく別居するとは言えないのです。両者が同意しなければなりません。二つ目は「しばらくの間、短期間ならば」許されるとあります。長く別居していると、やはりサタンの誘惑に負けてしまう恐れがあります。三つ目は「また一緒になる」という条件の下でなら、二人で自分たちの結婚についてしばらく、別々になって祈りながら考えてみるということも認められると言っています。

7節に「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」と言っています。パウロは独身で主に仕えるとこが、一番ベストではあるが、これは誰でもできることではないと言っています。つまり、独身でいることは神様からの賜物であって、自分にはこの独身の賜物が与えられているが、全員がそうではないというのです。ある人は独身で教会に仕える場合もあるし、ある人は夫婦で仕える場合もあります。人それぞれによって様々な生き方があるというのです。

2.未婚者と未亡人、そして既婚者についての勧め

次に8~9節を読んでみます。「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」ここでは、男性の独身者と、「やもめ」とありますので女性の独身者についての勧めです。連れ合いの方を亡くされて、独身になった方の場合です。

「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。」とパウロが言っていますので、パウロは結婚していたけれど妻に先立たれたか、あるいは彼がキリスト信者になった時に妻の方から出て行ったのではないかという推測もされますが、パウロが結婚していたかどうかは断言できません。いずれにしましても、自分の情欲をコントロールできる賜物をもっている人は、独身者でいた方がよいと勧めています。主イエス・キリストもこう言っています。「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:12)と。

また、女性の独身者の方、または未亡人になった方も同じように一人でいた方がよいと言っています。このことについて7:39でも、次のように述べています。「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。」(7:39~40)と。

そして次に既婚者についてもこう命じています。7:10から読んでみます。「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。すでに別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。また、夫は妻を離縁してはいけない。」夫婦は基本的には別れてはいけないと言っています。

3.片方が信者でない場合

「その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻の故に聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。しかし、信者でない相手が離れて行くなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られていません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうしてわかるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうしてわかるのか。」(7:12~16)

ここでパウロは、たとえ片方が未信者であっても、その人は片方の信者である妻の信仰、又は片方の夫の信仰によって聖くされていると述べています。これは、パウロならではの見解ではないかと思います。異邦人教会の中で、必ず起こってくる問題を先取りして述べています。そしてパウロの見解として、片方が信者であれば、その人の信仰によって未信者の配偶者も聖なる者とされているというのです。

ですから、たとえ夫が未信者であっても、また教会に行く事を許していることによって聖なる者とされているということです。聖なる者とされているということは、まだ信仰を持っていなくても妻と同じように神の豊かな恵みにあずかっているということです。そしてやがて、時が来れば神の救いにあずかるということです。ですから、何とか未信者の夫を、また未信者の妻を信者にしようと焦る必要はないですが、わたしは祈ることは大事だと思います。すでに神の恵みの下にいるのですから、あとは神様の救いの時を信じて待っていなさいとパウロは言っています。いずれにしても、その家庭で一人の人の信仰によって、家族が聖なる者として、すでに神の恵みにあずかっていることを覚えたいものです。

しかし、その人の信仰に反して、もし未信者の夫、または妻が自分の方から離れて行くならば、その時には離れるままにしておきなさいと言っています。何が何でも、未信者の夫を救わねばならない、妻を救わねばならないと言って蒸発した夫や妻を探し回る必要もないということです。自分から神の恵みの中にあることを拒んで、出て行った者に対しては、自分を卑下したり自分を責めたりする必要はないということです。

その場合には結婚に縛られる必要はない、出て行くままに任せ、あなたは平和な生活をしてひたすら神に仕えるようにしなさいと勧めています。パウロは人生で大事なことは、結婚ではない、結婚していてもしていなくても喜んで主に仕える平和な生活、正しい品位ある生活をすることが大事であると述べています。そしてまた、人生で大事なことは結婚でも家庭でもない、一番いい生き方は独身でひたすら主のために生きることであると言っています。(7:29~31)ただ結婚している者は、今あるがままで、与えられた環境で、そのままの状態で喜んで主に仕えて行くことベストな生き方だということです。

「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(7:16)と言っております。それを知っておられるのはただ一人主なる神様だけです。私たちが救うのではなりません。救いは主にあります。ですから、今置かれた状況の中で熱心に主に仕えて行くことです。そのことによって、たとえ未信者の家族の者がいても、その人の信仰と働きによって、その人の妻も夫も、家族も子供たちも聖なる者、神の恵みに共にあずかっている者とされていることを覚えたいものです。そのような恵みにおいてくださった主に感謝し、キリストの体である教会に、喜んで仕えて行きましょう。                  (岡田 久)

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