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終わりをめざして (ダニエル12:1~13)

メッセージ
2016年11月27日富里キリスト教会

「終わりをめざして」
(ダニエル書12:1~13)

東京に60年ぶりに雪が降った、アメリカでは強硬派のトランプ氏が政権を取ったと言うことを考えれば、確かに年々終わりが近いと言うことは予感しますが、キリスト再臨と世の終わりの年号を断言するのは早計だと思います。ダニエルもいろんな幻を見て、世の最後について恐れを持ったことは確かです。しかし、チグリス川の流れの上に立った受肉前の先在のキリストは、ダニエルにこう言いました。最後の言葉です。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」(12:13)と言いました。今朝は、この最後の御言葉に注目してお話してみたいと思います。

1.終わりまで自分の道を行け

このダニエル書に現われたキリストは、「終わりまでお前の道を行きなさい」と命じました。ダニエルはペルシャ王キュロスの時代にも、ペルシャの大河チグリス川の岸辺にいて、一人の人が立っているのを見ました。「1月24日のこと、チグリスと言う大河の岸にわたしはいた。目を上げて眺めると、見よ、ひとりの人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようあった。」(10:4~6)とあります。

この人は受肉前のキリストと言われています。いわば、クリスマス前の天上におられる「先在のキリスト」です。12:7ではこのキリストが川の真ん中に立って、麻の衣を着て、両手を天に差し伸べて誓ったと言われていますが、それが12章の最後の言葉です。12:13でキリストはダニエルに、「終わりまでお前の道を行きなさい。」と言われました。

つまりこれから多くの困難や迫害があるかもしれないが、お前は自分の道を真っ直ぐに行けばいいのだと言ったのです。たとえこの幻の意味が分からなくても、無理に解釈せず、また解らないからと言って信仰を諦めるのではなく、たとえ解らないところがあっても、あなたはあなたに定められている信仰の人生を、コースを外れないでまっすぐに走り抜きなさいと励ましました。「それがあなたのアドベントです。」と言ったのです。

ですからこの受肉前のまだ地上に来られていない時のキリスト様ですが、「最後までお前の道を行きなさい」と言っています。つまり自分で自分の人生を選び取って行きなさいと言っているのです。失敗もあなたの財産、成功もあなたの宝物、何事にも人生意味があるのだから大事に生きて行きなさいと言っているような気がしてなりません。12:10にも同じような御言葉があります。「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。」(12:10)

わたしたちは自分の人生の失敗を誰かのせいにして、いつまでも恨み、つらみのままで生きていることはないでしょうか。過去から解放されないまま、過去に縛られたままで生きている人はいませんか。あの人のせいでこうなった、親のせいで自分はこうなった。自分のしくじり人生は、あの人のせいだと決め込んではいないでしょうか。あるいは他人の重荷を、無理に背負い込んでいることはないでしょうか。自分が何とかしなければ、あの人はだめになってしまうとか。

エゼキエルもダニエルもそういう境遇にありました。親や先祖の不信仰と失敗で、外国に拉致されてきているのです。帰る当てもありません。やがて異国の地で、生涯を終えそこで骨になって行くのかと思うと、どんなにかやるせなく、つらかったでしょう。自分たちの人生は何だったのだろうかと思ってしまいます。自分たちのせいではない、先祖や親のせいでこうなったと考えたくもなります。

でもキリストは、「終わりまで自分の道を行きなさい。」と言っています。他人の道を行くのではないのです。自分の道を行くのです。自分だけのかけがえのない人生を行くのです。それは神様がわたしたちに与えて下さった人生のコースを一目散に走り抜けよと言うことです。皆さんの人生のコースは何ですか。その目標は何ですか。親のためですか。子供のためですか。会社のためですか。社会のためですか。そうではないですね。自分のためなのです。自分が自分であるための道を行きなさいと言うことです。それはどんな道ですか。快楽や放蕩三昧の道ではないことは確かですね。そんな道を行っても、心から満足しません。空しいです。

わたしは、それは神様がわたしに与えて下さった道を走り通すことだと思っています。神様がわたしに備えて下さった道、それは牧師になる前も、牧師になってからも、恐らく牧師を引退してから続くでしょう。わたしにとってそれは、福音を宣べ伝えることです。「憩いに入りなさい」と言うのは、地上の生涯を終わると言うことです。息を引き取って主のもとに帰るまでと言うことです。その時まで、自分に与えられている働き、使命を全うしなさいと言うことです。

しかもその場です。エルサレムに行ったらこうしようと言うのではないのです。祖国に帰ったらこうしようではなく、バビロンで、ペルシャで、拉致されていったその場で自分の人生を選び取っていきなさいと言うことです。今、その場で、自分が置かれた所で、皆さんはどんな目標を神様からいただいていますか。どんな人生にしたいですか、そしてどのようにして最後まで走り続けたいですか。それは自分で選びとって行くものです。これが「終わりまでお前の道を行きなさい」と言うことです。

周りを見ないで、人と競争しないで、自分に与えられている道を真っ直ぐに行きなさいと言っています。それは自分の人生にもっと責任を持ちなさいと言うことです。たとえ、苦難が待っていても必ずや、大天使長ミカエルが守ってくださり、先立って下さると約束しています。「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子を守護する。」守護天使ミカエルがいるのです。わたしも何度も助けられました。

2.自分に定められている運命がある

次に、二番目にこう言っています。「時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って」(12:13)とあります。さっきは確かに、自分の道を行きなさいと言いましたが、でもここでは、実は「お前に定められている運命がある」と言うのです。

つまり12:2にありますように「多くの者が地の塵の中から目覚める。ある者は永遠の命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」(12:2)
つまりわたしたちの運命はすでに定まっているのです。確かに自分で決断して選び取る人生ですが、でもその決断は既に、神様の御計画の中に置かれていると言うのです。塵の中から目覚めるのです。死人の中から復活するのです。そして復活するだけではなく、その後に永遠の命に入るのです。またそうでない人は、復活しても永遠の裁きである地獄の火の中に入れられる人もいます。

そしてそのように、わたしたちを裁く権限を持っておられるのが、イエス・キリスト様です。新約聖書のヨハネ5:22(P.172)を見て下さい。「また、父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」とあります。最後の審判者はイエス・キリストです。更に4:27から読んでみましょう。「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(ヨハネ5:27~29)

これが時の終わりに定められている運命です。そしてわたしたちの運命は、当然、裁かれるために復活するのではなく、永遠の命を受けるために復活させられるのです。なぜならば、このヨハネ5:24で主イエス様はこう言っておられるからです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。(これは断言することだから注意して聞きなさいと言う意味です。)死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ5:24~25)とあります。

皆様は主の御言葉を聞いているから、すでに死から命に移されています。永遠の命に入るために復活するのです。なぜなら、主の声を聞いているからです。主の御言葉を聞いているからです。この御言葉を聞く者は生きるのです。主の声に耳を傾ける者は命へと復活させられているのです。聞かないものは既に死に定められているのです。クリスチャンとは主の御言葉を聞く者のことを言います。聞かない人はクリスチャンではありません。

わたし達主を信じる者は皆、そのような運命の中に置かれているものですから、人生右往左往することなく、自分に定められているコースを全速力で走り抜こうではありませんか。伝道するものは一生懸命伝道し、献金するものは喜んで献金しましょう。教える者は喜んで教えましょう。あの人はしないから自分はしないとか、自分だけが一生懸命やって損をしていると思ってはいけません。みんな、一人一人に定められた信仰の人生のコースがあり、最後には誰でも御言葉に聞く者は復活させられ、永遠の命を受けるのです。そういう定めなのです。そういう星のもとにわたしたちは生まれて来たのです。生まれる前からそのように御計画されていたのです。ですから今、現在を精一杯、自分のできることをしようではありませんか。愚痴をこぼさず、横を見て比べないで、上だけを見てゴールを見て一目散に走りましょう。将来の星のように光輝く運命を目指して。

3.ついには立ち上がる

そして最後ですが、「お前は立ち上がるであろう。」と言っています。これは運命ですから、立ち上がるであろうではなく、立ち上がりますと断定してもいいのではないではないかと思います。「立ち上がる」と言うのは、これは復活すると言うことです。塵の中から目覚めて、霊の栄光の身体に復活させられるということです。

そして12:3を見て下さい。「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして知識は増す。」(12:3~4)

わたしたちは死んで塵になったとしても、その中から復活させられるのです。それはどんな体かと言いますと、大空の太陽の光のように輝き、永遠に星と輝くのです。今朝もCSで、この「星と輝く」と言う言葉から、あの加山雄三の有名な「君といつまでも」と言う歌の解釈をさせていただきました。「君」と言うのは、恋人のことではなく、イエス君と言う意味だと言いました。そしてダニエルが夕べに窓辺にひざまずいて祈ったように、イエス君といつまでも一緒に一日の始まる夕方(ユダヤ人は夜が先で昼が後ですから)、窓辺にひざまずいて共に祈りをささげることを歌っていることを言っているのだといいました。たとえ夕闇迫る暗い艱難の時代が来ようとも、イエス君と共に祈るならば、やがて星と輝くような明日がやって来るだろう、これはこの「君といつまでも」と言う歌の歌詞の意味だ解釈しました。

わたしたちの運命は、最後には塵の中から復活して、とこしえに星のように輝く存在となると預言されています。これがわたしたちの運命なのです。すばらしい運命が待っています。星のように永遠に輝く存在となるのです。だから今、この夕闇が迫りくる時代にあっても、イエス君と共に窓辺にひざまずいて祈りましょう。たとえ、人生の途中で死んで眠りにつくようなことがありまして、イエス君がいつも一緒にいることほど幸せなことはありません。

わたしたちは今まさに暗い時代の夜に向かって進んでいます。でも、やがて来る復活の朝を待ち望みながら、その栄光の体への甦りと言う運命づけられた最高の幸せの朝に向かって歩んでいるのです。その預言の御言葉の光を見つめながら、主と共に窓辺にひざまずいて日に三度の祈りをささげましょう。今日から世界祈祷週間が始まります。また毎週の金曜連鎖祈祷日を忘れないで一緒に祈りましょう。病の中にある兄弟姉妹のためにも祈って参りましょう。これがわたしたちの行くべき道ではないでしょうか。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」(12:13) 

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