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約束の聖霊によってキリストの証人へと (使徒言行録1:3~11)

メッセージ
2020/05/03
富里キリスト教会説教
「約束の聖霊によってキリストの証人へと」
(使徒言行録1:3〜11)

① 使徒言行録について
使徒言行録は新約聖書で唯一の歴史書というジャンルに入ります。この書物はイエス・キリストの公生涯における言行が書かれた福音書と昇天後のキリスト教会にあてられた手紙との間に存在する歴史的ギャップを埋める、とても重要な機能を果たしていると言われています。簡単に言いますと福音書と各教会に当てられた手紙、パウロ書簡や公同書簡とを結びつける橋渡し的な役割を果たしている歴史書と言えるでしょう。そして、その中心キーワードは聖霊と教会です。
この使徒言行録での大きなニュースの一つは初代教会が生まれたということです。私たちの教会の原点がここにあります。そしてこのエルサレムで生まれた初代教会から、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てローマへと福音宣教が使徒たちの働きによって広がっていく様がこの書では描かれています。8節後半でイエス様が

「エレサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

と言われた通りになっていくのです。

しかし、それだけではありません。確かに使徒言行録はその名の通り、使徒の言行についての記録ですが、かつてこの書は使徒行伝と呼ばれていましたがまたの名を聖霊行伝とも呼ばれていました。この書の最も大切な中心メッセージはその使徒たちの働きの原動力、力の源は聖霊にあるということです。8節の前半ではこうイエス様が言われています。

「あなた方の上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」

聖霊の力を受けたからこそ使徒たちがキリストの証人となり、地の果てまで福音宣教が拡がっていったのです。一見、人の歴史ですが、その内実は聖霊なる神の歴史における御力とみわざの表れなのです。聖霊とは神様そのものです。
初代教会は発展する要因に乏しかったにも関わらず進展しました。欠けの多い人間を用いて神様ご自身のみわざとみこころを確実に前進させ、歴史の流れを導いておられたゆえです。生ける神こそ歴史の支配者であることがこの使徒言行録ではよくわかるのです。この一点にのみ教会は生まれ出ることも成長することも、託された使命を遂行することもできたのです。
ここに教会の原点があります。この原点に帰ることによって今日に生きる私たちの教会はどうあるべきか、もっと狭めれば、私たちキリスト者としての生き方とはどうあるべきなのかを見つめ直す良い機会となることを願います。私たちの力の源である聖霊様の働きに期待いたします。

② 復活の確信と約束の聖霊
3節
「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」

イエス様は復活後、弟子たちに2つの大切なことを教えられました。一つは復活の事実です。中々復活を簡単に信じ、理解できない不信仰で疑い深い弟子たち(この弟子たちの姿はまさに人間の本質を表しているでしょう)、に向けてイエス様は丁寧にご自身の体の蘇りを40日もかけて弟子たちに証拠を示しました。
主ご自身が私たち人間の欠けを十分理解された上でのご配慮とも言えますが、それほど復活の事実、その証拠を確信することは今後、キリストの復活の証人として生きていく弟子たちにとって最も大事な事柄であることが伺えられます。ここがゆらぐと何もできなくなります。不安そうでぐらついてる証言者の発言には全く説得力がありません。主は復活されたという確かな確信が必要だったのです。
二つ目は神の国についてです。神の国とは、お空の上の天の国というものではありません、ましてや、私たちが知っている国家という概念とも違います。神の国とは、本来神のご支配という意味です。神の支配がこの地上にすでに始まったのです。
 それは、神様ご自身が人となって地上に降りてきてくださり、私たちの罪のために十字架にかかり、復活なされた。この救い主イエスさまのみわざをもって人間が罪、サタンから解放され、死ではなく永遠の命に生きるという、人類の救いを表しています。神の国が来られた目的は私たち人間の救いであり、その霊的領域は今、この現代においても着実に拡がっているのです。
そして、神の支配は人の生活など全領域をカバーした救いや祝福をも含む、より豊かな概念でもあります。教会の中だけで留まるものではありません。むしろ、神の国は教会から拡がっていくものと言えるでしょう。赤十字やハンガーゼロ、被災地支援、他にも多くのキリスト教系NPO法人などがあります。医療、教育、福祉などは聖書の価値観を通し、発展していった面が多々あります。私たちはこの地上において神の国を表していくことが望まれているのです。
そして、この神の国が前進していくには人の力だけでは決してできません。ただ、聖霊の働き。この力ゆえに教会は復活の主を証言していき、神の国を立て上げていくことができますし、その原点がこの使徒言行録に書かれているのです。
イエスさまは、復活の証拠、神の国、その二つの知識を弟子たちに教えました。その上で、父の約束された聖霊を待ちなさいと言われました。いくら、聖書や他の知識、経験などがあっても聖霊がなければ私たちは何もできないのです。いくら頭で理解できても、聖霊がなければ復活の主を信じることはできません。そして、そこにはイエス様の言葉に対する信頼、従順が必要なのです。待てと言われて素直に待つ。必ず約束を守られる神様に期待して待ち望み、祈る。この姿勢が聖霊を受ける上でとても大切なことだと思います。
そしてその父の約束とはイエス様がずっと私たちと一緒にいてくださるという約束なのです(ヨハネ14:16〜20)。聖霊の働きによって私たちはイエス様が今も生きて一緒にいてくださっているという実感をもつことができるのです。その実感、確信がキリストの弟子である私たちの原動力、エネルギーの源なのです。

③ 見える国ではなく、見えない国を
イエス様はこのように、目に見えない非常に霊的な神の国について語られました。しかし、弟子たちは、相変わらずまだ、よくわかっておりませんでした。見えるものにまだ希望を持っていたのです。イエス様は全ての人の救いのための神の国の話をしているのに、弟子たちは当時のユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアによって実際のイスラエルが復興し、ローマの圧政から脱却し、この地上を支配するというユダヤ的王国をまだ望んでいたのです。「私たちイスラエルの復興はいつなのですか?」と。
このユダヤ的王国の復興への願いは終わりの時にメシアによってイスラエルが復興するという当時のユダヤ人における終末思想からくるものでした。かれらは、地上の王国という目に見えるものに囚われているだけではなく、「いつ起こるのか」という時間にも囚われていました。
その弟子たちの問いにイエス様は、完全否定はされず「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。」とだけ返します。いつ、終わりの時がくるのかということは誰もが興味をもつことでしょう。終末については本当に多くの本が出版されていますし、あらゆる異端やカルト宗教がいつ終わりの時が来ると預言し、多くの人の恐怖をあおっています。今、コロナウイルスの蔓延という混沌とした状況をみるといよいよ、終わりが近いかなと思ったりもします。
しかし、それがいつ起こるかどうかについて聖書は沈黙しています。つまり、それは私たちが知るべきことではなく、神様の領域の事柄だということです。そもそも、「待て」と言われて「いつ」と尋ねることが神様に対する良い向き合い方といえるでしょうか。待つのが苦手なのが人の弱さというものですが、神様に「待て」と言われれば従順に「はい」と答え、待つことが幸いな信仰者と言えるのではないでしょうか。
そして、イエス様は見えるものや時間ではなく、すでに動き始めた見えない神の国に心を留めよと言うのです。

8節
「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

これが、使徒言行録のメインテーマです。使徒たちの一人一人に聖霊が降り、力を受けます。そして、その聖霊によってキリストの復活の証人となるのです。それが聖霊の力の本質です。主を主と告白する、証言者となる力をもつ、これが何よりも代え難い聖霊の奇跡の力です。人の心を変え、確信に満ちたものとする力です。

イザヤ書43:10
「わたしの証人はあなたたち。わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを」

このように、聖霊の力は旧約時代から約束されていたものです。そして、その力によってエルサレムから地の果てまで福音は地理的に拡がり、その救いの対象もユダヤ人だけでなく全ての人となり、民族的な拡大をもなされていくのです。そして、その神の国の拡大は教会を通して成されていくのです。

④ 終わりに向かっていく始まり
イエス様はそれらのことを話し終えられると、天に昇っていかれ目から見えなくなりました。昇天といわれるものです。弟子たちはその光景を目の前で見ていました。イエス・キリストは神でありながらご自分を顧みず、人となり十字架の苦難を受け、死に、復活され、最後に天に上がり神の右の座に着かれました。その昇天をもって救いの計画は完成されました。しかし、それは霊的な完成を意味します。むしろその完成はゴールではなくスタートを意味します。神の国はすでに来られ、この地上における神の支配が始まったのです。
使徒たちは、イエス様が見えなくなってもじっと天を見つめていました。人間、見えているものが見えなくなると不安になるものです。思わず、不安になって天を仰いでしまいます。しかし、その時こそ父の約束を思い出すのです。あなたをみなしごにはしない、あなたと共にいるとインマヌエルなるイエス様は約束してくださりました。見えなくなっても聖霊となって共にいてくださるのです。
そして、イエス様は「あなたがたのところに戻ってくる。」とも約束されました。その言葉を思い出せと言うかのごとく、その場にいた御使いも「イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と言われました。これを「再臨」と言います。この再臨の時が本当の終末、最後の時と聖書は語っています。そして、その時をもって神の国は霊的だけではなく地上的にも完成するのです。これが神の国のゴールです。そのゴールまで向かっている、すでに来られた神の国といまだ来られていない神の国、その「すでに」と「いまだ」の只中にいるのが私たちの今の時代、教会の時代なのです。

⑤ 聖霊の時代、教会の時代
今、私たちが生きている時代は聖霊の時代であり教会の時代。そして、それはイエス様が来られ、神の国が広がり続けていると共に、終わりの時に向かい続けている時代でもあります。いつ再びイエス様が来られることは、先ほど言ったように知る必要もありませんし恐れる必要もありません。終わりの時とは私たちにとって完全な救いの完成だからです。
私たちが見つめるべきは、いつ来るかわからない未来の終末よりも、今です。初代教会から始まり、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、ローマ、そしてまさしく地の果て日本まで神の国は拡がり続けていることを私たちは今日のこの富里教会の礼拝において実感することができるでしょう。たしかに聖霊は働き続けているのです。そして、今もさらにさらに地の果てまでも神の国は拡がり続けているのです。歴史は神の御手の中で動き続けています。その証人の一人が私であり、あなたなのです。
私たちが今、イエス・キリストを復活の主であると告白する証人であることが、聖霊が確かに今も生きておられ働かれているという証拠になります。逆に言えば、聖霊そのものによって、あなた自身が間違いなく主イエス・キリストによって救われていると証明されるのです。聖霊なる神様ご自身がまず、私たちの救いの証人となってくださっていることを忘れずにいてください。それゆえに、私たちは感謝と喜びの思いを持ってキリストを証する者へと聖霊によって整えられていくのです。
しかし、キリストの証人として生きていくことは本当に喜ばしい幸いな恵みですが、それは決して人間的な喜びや成功を意味するものではありません。そこには苦難が必ずあります。「証人」と言う言葉はギリシャ語でマルテュスといいます。この言葉は後にキリスト者における「殉教者」という意味を持つようになりました。英語でいう殉教者、martyrという言葉はこのマルテュスが語源となっています。
使徒言行録での使徒たちの働きは目を見張るものがあります。ド派手で痛快なものもあります。しかし、その中でステファノとヤコブという殉教者が出ていることもまた明確に記されています。もっと言えば、聖書自体には記されていませんがこの使徒たちはヨハネを除き全員が迫害を受け、殉教しています。
決して華麗な世界ではないのです。しかし、永遠の命を信じ、死を恐れずイエス・キリストを証し、殉教する。これこそまさしく死を打ち破られた復活の主イエス・キリストの証人の姿ではないでしょうか。こんなこと、人の力では絶対できません。とてもじゃないけど、ビビリのわたしには無理です。でも、人の決意や意志ではありません。その人の心に働かれる聖霊の力によってなされるのです。
そして、迫害の中、流された殉教者の血や、宣教師たち、名もなき信仰者たちの苦難を通してこの二千年、福音は世界中に語られ、神の国はこの極東である日本まで拡がっているのです。そのような殉教者たちと同じ聖霊を私たちは受けているのです。とてもじゃないけど私は使徒たちのようにはなれない。そう思いますか?確かに私も思ってしまいそうです。でも、人間がその限界を決めてはいけないのです。なぜなら聖霊の力は神の力、神の力は無限大だからです。自分の力ではなく、神の力を信じようではありませんか。

◎結
この日本はかつて迫害の時代がありました。今は、信教の自由が保障され主を主と堂々と告白できる時代になりました。しかし、同調圧力の強いこの日本社会、圧倒的マイノリティであるクリスチャン、そもそも宗教自体に良いイメージがない。そのような社会で生きる私たちはどうでしょうか。
この時代にあなたは何をもってキリストの証人であることを表しますか?圧倒的マイノリティであっても、教会だけでなく職場や、地域など、あなた自身が主に遣わされている場所で、ハレルヤと、自分は復活の主を信じていると告白することができたとき、まさにあなたはキリストの証人でしょう。神様から受けた愛を、隣人に流していくこと。弱さがあり、助けを必要としている人たちに寄り添い神の愛を表した時、まさにあなたはキリストの証人でしょう。神を愛し、隣人を愛した時、そこにはキリストの証人であるあなたがいます。その愛し方は人それぞれで多様に富み、その可能性は無限大です。
私にはできないと思うようなことが平気でできることもあります。大丈夫です。私たちには、あの命をかけて主を証しした使徒たちと同じ聖霊が与えられているのですから。その聖霊の力を信じ、今週もそれぞれに遣わされた地でキリストの証人として生きてまいりましょう。

武井誠司

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