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立ち帰って生きよ (エゼキエル33:1~11)

メッセージ
2016年10月16日富里キリスト教会

「立ち帰って生きよ」
(エゼキエル書33:1~11)

1.見張り人の務め

「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら受け入れず、剣が望んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救い得たはずである。しかし、見張りが、剣の望むものを見ながら、角笛を吹かず、彼らの内から一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪の故に死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。』」(エゼキエル33:1~6)

つまりわたしたちは地の塩であり、世の光であるわけですが、それはこの腐敗した世にあって、やがて神の裁きがやって来るということを告げ知らせる働きを担っているものなのです。たとえ、預言者のように口で大衆に向かって、あるいは王に向かって警告の言葉を言わなくても、こうして私たちが毎週日曜日に集まって来て神に礼拝を献げているということは、この世に対する神の警告のしるしでもあるわけなのです。

わたしたち一人一人は主に選ばれた見張り人なのです。7節に「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を語らねばならない。わたしが悪人に向かって『悪人よ、お前は必ず死なねばならない。」という時、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪の故に死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。』」とあります。

つまりわたしたちが、理由もなく礼拝を休んでいる人、あるいはもう信仰など忘れて悪の道に走っている人に対して、礼拝に来て神の前に立ち帰らないならば、お前は滅びると警告しなさいと主は命じています。そしてわたしたちがちゃんと警告しても、その人が聞き入れなかった場合には、その責任はその人にあるというのです。でも、わたしたちが神の警告を聞きながら、その人に語らなかったり、その人を戒めたり責めなかったりすれば、その人の死の責任はわたしたちにあるというのです。語らなければいけません。警告し、戒め、注意しなければならないのです。それが見張り人としてのクリスチャンの働きです。

ですから皆さん、わたしたち信仰のあるものは、お互いに戒め合いましょう。本当の友人というのは、自分に賛同してくれる人ではありません。それはイエスマンであり自分の子分のような友人です。真の友人というのは、自分を正しく戒め正しい道に行くことができるように、命がけで戒めてくれる人です。そういう信仰の友を持ちたいものです。友人が、大した理由もなく日曜日休みたいと言ったとします。皆さんはどう答えるでしょうか。①関係を悪くしたくないので、同意する。②悪の道へ行くと思ったが、自分には関係ないので見てみぬふりをする。③日曜日礼拝を休んじゃだめだ、神様はちゃんと見ているから一緒に行こうと必死に引き戻す。

礼拝は結婚式より大事な儀式なのです。結婚式なら37度くらい熱があっても行くでしょう。そして今日のこの礼拝が、もしかしたら地上での最後の礼拝になるかもしれないのです。来週はないかもしれません。今週中にイエス様が再臨されて、もう天上での礼拝だけになってしまうかもしれないからです。ですから、毎週毎週が勝負です。

2.言い訳は通用しない

聖書には、主の裁きを語らないならば、警告をしなかった本人に死の責任を与える、またクリスチャンが語る警告の言葉を聞きながら、悔い改めて主のもとに立ち帰えらないならば、その責任はその人本人のものであると言っています。
でも手遅れになった人は言うでしょう。誰もわたしに天国について話してくれなかったし、福音を語ってくれなかった。自分が救われないのは、誰かのせいだと他人のせいにしてしまうことはないですか。最後の審判の時に、果たしてこういう言い訳は通用するでしょうか。

実は何度も出て来ましたが、イスラエルの人々は、自分たちがこうなったのは、つまり戦争に負けて捕囚の身となったのは、先祖のせいだ。彼らが神に対して背いたので、その罰が我々に当ったのだ。「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」ということわざが昔からあるじゃないかと、言っていました。「この神の呪いの因果の鎖からは、我々は抜け出ることができない」と考えていました。そして他の神々に走り、偶像礼拝にふけっていたのでした。わたしたちがもし、自分がこうなったのは、こんな悪人になったのは、親のせいだと考えてはいませんか。悪い道に入ったり、何をやっても失敗してしまうのは親のせいだ、あの人のせいだと、他人のせいにしてしまうことはないでしょうか。

今週の暗唱聖句を肝に銘じたいものです。「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」(エゼキエル18:20)わたしは33章よりも18章の御言葉が、このエゼキエル書の大切な部分ではないかと思っています。

イスラエルの人々は、いつも繰り返してこうなったのは自分たちの罪ではなく、先祖の犯した罪のせいだと考えていました。そしてそこから一歩も踏み出さなかったのです。因果応報の世界に埋没して、自分で何とかこの罪の連鎖を断ち切って新しく生きようとはしなかったのです。人間が過去を振り返り、過去に縛られ、先祖や親の罪のせいにして生きていたらどうなりますか。

最後には、親に対する反発、恨みつらみが爆発して、最悪のケースである親殺しが起こるのではないでしょうか。今日、子供が親を殺す、親が子供を殺すという事件が当たり前のように、あちこちで起こっています。自分の悪、自分の罪の原因を自分以外に探してはいけません。本人のせいなのです。自分がこうなった原因は親にあるのではないのです。罪は自分の中にあるのです。そのことに気が付かない限り、わたしたちは真に立ち直ることはできません。この過去の繋がり、運命の糸を断ち切らなければ真に自由になることはできません。未来が開かれないのです。悪の道に運命づけられている、そういうふうに自分に暗示をかけてしまっているのです。日本人にとって血筋と呪いが一緒なんです。

過去への原因探しではなく、まず一人一人が罪を悔い改めて主の前に立つことです。ですから自分は親のせいでこうなった。子供のせいでこうなったといろんな言い訳はできます。そういう因果関係にがんじがらめに縛られているわたしたちです。でもこのエゼキエル書では、「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない」と言っています。どんなにこの一言に救われるでしょうか。そしてこの18章では、三世代の人物の生き方と結果が述べられています。5~9節までが一人の正しい人の人生、10~13節までがその人の子供の人生です。しかし、その子供が乱暴者で悪を働きました。そして次はこの悪人の子供です。この子供は親の行いを嫌って正しい生き方をしました。子供、父親、祖父の三世代にわたってみてみても、決して親の罪を子供や孫が負うことはないのです。「罪を犯した本人の責任であり、本人が死ぬのである」と聖書は教えています。

こういう考え方は、当時のイスラエルにとっては画期的なことでした。なぜなら、神は、「自分を拒む者には、その人の罪を三代四代までも呪うと言われていました。そして神を愛するものには幾千代にもわたっていつくしむ」と言われておりました。(出エジプト記20:5~6)ですから、イスラエルの民はみんな自分がこうなったのは先祖のせいだと、十戒を誤って考えていました。

でも主なる神は今この捕囚という出来事を通して、先祖が悪いのではない、今のあなたがどう生きるかが問われているのだと言っているのです。これは全く新しい考えでもあったのです。たとえ先祖がどうであれ、親がどうであれ、大事なことは、今のあなた、あなたの人生を、あなたがどう生きるのかということが問われているのです。「子は父の罪を負うことはなく父もまた子の罪を負うことはない」のです。逆に言うと、あなたは今どう生きるのかということが問われているのです。わたしたちの責任ある生き方が問われているのです。

3.立ち帰って生きよ

33:11にこうあります。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」と主なる神は言っておられます。神の願いは、もちろん私たちが自分の責任で正しく生きることです。でもたとえ、罪を犯し、悪の道に走ったとしても、そのことを他人のせいにしないで、自分の非であるとはっきり認めて悔い改めることです。これが、立ち帰って生きよということではないでしょうか。他人のせいにし、自分以外のところに原因を見つけようとしている限りは、クリスチャンであっても救いはありません。

確かに親の負債が、本人の知らないところで覆いかぶさって来ることもあるでしょう。でもそれは親の負債であって、あなたの負債ではありません。あなたは親に負債を負っているものは何もありません。ただ、一つ負っているとすれば、あのイエス・キリストの十字架の死についての負債はあります。イエス様にだけは借りがあります。これだけは一生かかって払って行かなければなりません。(ローマ13:8)愛の負債があり、それは生涯支払って行かなければなりません。そういう力を主は与えて下さいます。それはイスラエルの家の見張り人であり、この世の光として歩む人生です。地の塩としての生き方です。

悪人の悪を余すことなく、はっきりと確信を持ってまた愛を持って警告することです。その見張り人の責任が問われています。10月の30日は30名礼拝を目指しています。どうか今、道を外れている人がいましたら、その人に神の言葉を語りましょう。「今こそ主のもとに立ち帰りなさい。あなたの罪過ちを主は全て十字架の上で赦しておられるのだから、一緒に主の前に出よう。」と言って礼拝に誘いましょう。沈黙したり、同調するのではなく、この世界の見張り人として、神から授かった御言葉をはっきりと人々に語り続けましょう。愛の警告者として、今週も兄弟姉妹を尋ね励まして、30日の礼拝に誘って行きましょう。      

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