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究極の結論 (コヘレト12:9~14)

メッセージ
2020/11/22
富里キリスト教会礼拝説教
「究極の結論」
(コヘレトの言葉12:9〜14)

①知恵の探求で見えた神の知恵
いよいよ今日の箇所がコヘレトの言葉の最後、結論の部分となります。この結論がコヘレトが一番いいたかったことであり、この結論に至るために彼は、思考を深めながら行ったりきたりと揺れながら、問い続けながらこの真理へと向かってきたのでした。
その結論とは「神を恐れ、その戒めを守れ」という今までのコヘレトの言葉とは思えないほどシンプルで明快なものでした。それゆえ、この箇所は悲観的・消極的人生を語るコヘレトの手によるものでなく、のちの人の付加であると言われたりもしています。しかし、これを別人の手によると断ずる必要はありません。本文と結論の精神と、そこに流れている文章の調子は同じものといえます。
コヘレトはなぜこの世界が空しいのかが、揺れながら、問いながら求めて、この最後の段階でとうとうわかったのです。それゆえの確信に満ちた言葉なのです。神がいないという視点、価値観に立った時、まことに世界はむなしく、その世に生きる人間も儚く、空しい。裏を返せば、この世界には神がおられ、ご支配されているという視点に立った時、その空しさは希望に満ちたものとなる。彼はその真理に気づいたのでした。彼は人生の意味を追求していく中で改めて神様と出会ったのです。
この結論はコヘレトの言葉に流れている真の悲観論と、神なしと未来もなしとする現代の悲観論との間に相違があることを示しているのです。神がいないとこの世界は空しいという悲観論と神などいないこの世界は空しいものなのだという悲観論は大きく似て非なるものなのです。

12:9−10
「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。」

ここでの「知恵を深めるにつれて」という言葉は直訳するとコヘレトは知恵ある者となったとなります。彼は7:23では賢者でありたいと思ったがそれは遠いことだった、知恵は得られないと語っていましたがここでは、彼は知恵ある者となったと語ります。そうです。この最後の最後で彼は知恵、神の真理を得たのでした。神様から与えられたのです。それゆえの力強いシンプルな結論なのです。
その知恵、神の真理をコヘレトは吟味、研究して編集したとあります。それは、彼が人生の意味を問い続けたこの「コヘレトの言葉」を指したものとも捉えられますし、この書の著者をソロモンだとすれば、箴言を指すとも捉えられます。この格言という言葉は箴言と訳されている言葉と同じ言葉です。
とにかく、彼は真理を見つけ、その言葉を忠実に記録しようとしました。その真理とは、天地万物を造られた在って在る者、ヤハウェなる神がおられ、この地をご支配されているということです。神の存在。人間の空しい心の穴は神以外には決して埋めることができない。神様だけが心の穴を埋める唯一のパズルのピースなのです。

②まことの知恵は神の言葉
12:11−12
「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただ一人の牧者に由来し、収集家が編集した。それよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学び過ぎれば体が疲れる。」

コヘレトは、賢者の言葉は突き棒や釘のようだといいます。箴言などは確かに棒で心をグサグサ突かれるような厳しい言葉もたくさありますよね。

箴言5:9
「怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。」

まるで母親に怒られているようです。

箴言10:31
「神に従う人の口は知恵を生み、暴言を吐く舌は断たれる。」

確かにその通りだけれども厳しいなぁと思わされます。舌は断たれたくないものです。しかし、箴言は何が愚かで何が正しいことかをはっきりと教えてくれるとても意味深い知恵の言葉です。この神の知恵の言葉は私たちをしっかりと守ってくれます。
コヘレトはこの真理の言葉は釘だともいいます。しっかりと釘が打ち込まれた建物は、雨や風に耐えうる堅固な揺るがない家となります。教会の屋根が風で飛んで行った時、大工さんにみていただいたところ下地が腐っており、釘が抜けやすくなっていたことが原因にあるといわれました。今は、下地から直していただき、しっかりと釘を打ち付けてくれたことにより、雨や風にもまけない立派な屋根へと生まれ変わりました。知恵の言葉は様々な苦難に遭遇する私たちの人生を足元から支え、守り、揺るがないものとしてくれるのです。そして、コヘレトはこのような知恵の言葉は全て、一人の牧者に由来すると語ります。牧者とは一体誰なのでしょうか。

詩篇23:1−3
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。」

主は、わが羊飼い。神様こそが私たちの大牧者です。イエス様もご自身を良い羊飼いと語られました。コヘレトが編集した知恵の言葉は、自分で見出した知恵ではないと彼は言うのです。与えられたものとして受け止める謙遜な賢者の言葉です。真理とは神から与えられるものなのです。ですから、箴言やこのコヘレトの言葉も人間によって書かれた知恵の言葉ではありますが、その根源は神にある、神の知恵の言葉なのです。
更に言えば聖書そのものが神の言葉であり、神の知恵、救いの啓示なのです。真理は神様に由来するのです。聖書の言葉は私たちを愛し、救い出すための誤りなき神のことばであり、いのちの知恵なのです。この真理に立った時、時に痛く感じる突き棒のような言葉は、慈しみに満ちた羊飼いのエスコートとなります。
突き棒とは本来、羊飼いが羊の群れを行く先に導くための棒であって、知恵の言葉はこの突き棒のように人を正しく導くのです。バシバシ叩いたり突いたりして、支配するのではなく後ろから見守りながら迷いそうになったとき、その棒で優しくエスコートしてくれるのです。神の御言葉とは、そのような慰めに満ちた光であり、命のともしびなのです。まことの知恵、神の真理であるみことばに生きる時、そこには空しさはなく、喜びが満ち溢れるのです。主が羊飼いであるとき、私たちには欠けるものは何一つなく、その魂は憩いの水のほとりで安らぐ羊のようになるのです。空の空とは全く逆であります。

③コヘレトの結論―神を恐れよ
12:13−14
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ人間のすべて。神は一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」

コヘレトは人生の意味を問い続け、知恵を求め続けてきた中で神の真理を見ました。そこで得た結論はここまで語られてきた深い哲学的な洞察や問いとは、真逆のような誰もが知っている子供にも理解できるようなシンプルなものでした。それが神を恐れ、その戒めを守れということです。
ソロモンが記し、編集した箴言には「主を恐れることは知恵の初め」とあります。知恵を追求し、時に見失い、しかしそれでも求め続けてコヘレトがたどり着いた、与えられた結論は原点であり出発点でした。原点に帰っていくということはとても大切なことです。しかしながら、この始まりであり続けるということがとても人には難しいのです。
救い主である主イエスと出会い、このお方を信じて生きていくのだと信仰告白をしたあの時の生き生きした信仰が、いつの間にかどこか落ち着き、慣れてしまってはいないだろうか?信仰生活が長くなればなるほど、そのようなことに気づかされることが多くあります。少なくとも私はそうです。そういった時に求道者から学ぶことが本当に多くあります。シンプルに一つ一つのみことばに感動し、救いを喜び、神のみ前で素直であろうとする姿です。聖書の知識は増えても、その初心を忘れたくはないものです。
福音の真理、十字架の贖い。神の戒めを守れ。それは何回も聞いた。もう、聞き飽きたよ。十分、理解している。そのように分かった風になってはいけません。その何回も聞いた言葉を、当たり前を当たり前のように受け取るのではなく、いつまでも生き生きと新鮮な気持ちで、神の知恵、みことばを求めていく時、私たちは日々新たにされていくのです。
わかりきった結論です。神を恐れて、その存在を認め、信頼して生きていく。そしてその神が私たちを守るために与えられた戒めを守っていく。しかし、このわかりきったシンプルな結論にこそ魂の満たしがあるのです。それが全てだとまでコヘレトは言います。この結論がコヘレトの言葉の主題なのです。今まで何度も空しい空しいと、げんなりするような物言いはこの結論のための布石といってもよいでしょう。
彼がずっと語ってきた世界の現実は人が神を恐れず、戒めを守らず、神なき世界を生きているからこその空しさなのです。神なき世界はむなしく、神のある世界においてこそその空しさ、心の穴は満たされるのです。決して目に見えるものに囚われてはなりません。たとえ、悪が栄えているように見えても、いずれ必ず全ての者が神のみ前に立ち、申し開きをしなければなりません。どんなに巧妙に隠しても罪は暴かれます。そして、神は善も悪をも公正に裁きをなされるのです。
目に見えるものに空しさを覚え、絶望するのではなく見えない神に信頼し委ねるのです。この世にあっては創造者なる神を覚えて生き、死後に審判者なる神の裁きに出ても安んじていられるような歩み、それが、神を恐れる歩みであり、神の命令を守って生きるということです。人間にとって、とても大切なことです。

④恐れから愛へと
「神を恐れ、その戒めを守れ」 シンプルで素晴らしい結論です。しかし、ではみなさん、その神の戒めを全て守れていますか?外見をとりつくろうことは簡単ですが、あなたの心の中身はどうでしょうか?創造主であり裁き主である主を恐れながらも罪を隠しながら生きている自分がいる。神を信頼して生きていこうとしつつも、いつの間にか目に見えるものを頼りとし、心に空しさを覚えてしまってはいないか。私自身はそのような現実の中に自分がいることを否定することができません。
戒めを守れ、これが全てだとコヘレトは語ります。このみことばと向き合った時、できない自分がいることに気づかされます。一体どうしたらいいでしょうか。しかし、このみことばはある意味、神を恐れ、戒めを守ろうとしたとき、できない自分がいるということを知ることが、全てなんだとも言っているのではないでしょうか。そして、それは結論でもあり、始まりでもあるでしょう。
イエス・キリストとの出会いの始まりです。神のみ前で裁きを受ける時、罪に汚れた自分を見ると絶望してしまいます。このままだと永遠の滅びにいたってしまう。絶望、真っ暗です。しかし、その暗闇の中にいることを実感した時こそ、その暗闇で燦然と輝く十字架をみるのです。
神を恐れつつも、戒めを守れない。そのような私たちの罪深さ、弱さを全て受け取り、私たちのためにかかられたイエス・キリストの十字架です。そこには私たちへの完全な愛、全き愛が表れています。神を恐れつつも戒めを守れない自分を知ったその時こそ、そんなあなたのため、私のための十字架の意味を私たちは知ることになるのです。

1ヨハネ4:18
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。私たちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」

私たちは神への恐れから神の愛によって生きる者となるのです。恐れは十字架の愛によって締め出されるのです。しかし、締め出す恐れがあってこその愛との出会いです。旧約聖書では何度も神を恐れよと語られます。自分の罪深さを全て知り尽くされた神が裁き主としておられるという恐れがあってこそ、その恐るべき神が私たちに示された愛の深さ、広さ、高さ、重さを噛みしめることができるのです。恐れや罪の認識をすっ飛ばしては神の愛を本当の意味で味わうことはできないのです。ですから、神への恐れ、神の愛の両面を知るために旧約聖書も新約聖書のどちらもバランスよく読むことは本当に大切なことなのです。聖書は旧約と新約が一つに合わさってはじめて神の啓示といえるのです。
そして、その全き愛を噛み締めた時、私たちはもう二度と神を悲しますまいと罪から離れ、その神への愛情表現として神の戒めを守るように御霊によって変えられていくのです。恐れではなく、愛によってなされていくのです。

1ヨハネ2:5
「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることがわかります。」

コヘレトは知恵を追い求め続け、「神を恐れ、その戒めを守れ。」という結論に至りました。これが人間の全てだとまで言います。しかし、これは一つの帰結でありながら、始まりでもあります。戒めを守ろうとすることから始まり、守れない罪深い自分を知り、十字架の神の愛と出会い、そして戒めを守ろうとする。その繰り返しの中で私たちは神の愛、イエス・キリストの十字架の愛によって少しずつ罪から解放され、戒めを守れるように変えられていき、自分は神なくば生きていけない、そういう人生なんだということを知るのです。そして、神様はそんな私たちと共にいてくださることを約束してくださっているのです。神様が共にいる限り私たちの人生は決して空しいものにはなりません。神の愛に満たされて、神と共に豊かで幸いな人生を歩んでまいりましょう。

武井誠司

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