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私の願いではなく、御心のままに (マタイ26:36~46)

メッセージ
2021/3/21
富里キリスト教会礼拝説教
「私の願いではなく、御心のままに」
(マタイ福音書26:36〜46)

①イエス様の悲しみ
マタイ26:36―38
「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」

ゲッセマネとはイスラエルにあるオリブ山のふもとにある園のことでガス(しぼる)とシェマニーム(油の複数形)というヘブライ語が合わさった言葉で油絞りという意味をもっています。この園にはオリーブの木がありその果実から油を絞るところがあったことからそう呼ばれたのだろうと言われています。
このゲッセマネの園をルカ福音書22章では、いつもの場所と言っていますのでイエス様はこの園を、祈りの場所として好んで使われていたのでしょう。イエス様は時に群衆から外れ、人里離れ、さみしい場所で、お一人で祈ることを大切にされていました。そういった点から見るとゲッセマネで祈るということはいつもの定番。日常的なことだったのかもしれません。しかし、この日のゲッセマネの祈りは特別でした。
私たちは今この聖書の時代から2000年を経て、先ほども言いましたが教会暦で言うところの受難節という時を過ごしております。そして来週は、いよいよ受難週を迎えることになります。このゲッセマネでイエス様はまさに、これから受ける十字架の苦しみ、受難を前に葛藤を覚えつつ、それでも十字架の盃を飲み干す信仰的従順にいたろうとする苦闘のような祈りをされるのです。
イエス様は、もうこの時、もうすぐ自分が十字架の上で苦しみ、死ぬことがわかっていました。みなさんは、来週あなたは死にますと宣告を受けたらどうしますか。わたしなんかは恐怖のあまり気が狂ってしまうかもしれません。しかも自分が悪いわけではないのに。罪もないのに罪人とされて死刑執行。冤罪も甚だしいです。やりきれない、悲しいの一言ではとても片付けられません。イエス様の悲しみたるや、いかばかりだったでしょうか。
しかも、イエス様の十字架の贖いは、ただの死ではありません。死ぬのが怖い、痛いのは嫌だ。そういった次元の悲しみではありません。イエス様は祈りの中で「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と言われました。杯とは神の裁き、怒り、災い等悲しみや苦しみを表すときに用いられる言葉です。これは神の憤りの杯なのです。
イエス様が十字架にかかるということは、ただ苦しんで死ぬということでありません。それは、人類全ての罪を背負うということです。その罪に対する神の怒りの裁きを一身に受け取るということなのです。生まれつき義人であるイエス様が私たちの代わりに罪とされ神の怒りとしての死を経験することはどんなに耐え難く、悲しいことだったでしょうか。
そしてその中で最も悲しいことは、神との親しい関係が断絶されることにあったでしょう。「これは私の愛する子」と祝福されたイエス様が、十字架上で「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのでしょうか。」と叫ぶこととなるのです。罪によって神との関係が断絶され、みなしごとなっていた私たち人間を再び、神の子とするために、ご自身がみなしごとなられるのです。そこには、神との豊かな交わりが断絶されることへの悲しみがあったことでしょう。親子でなくなる悲しさ、神の御子が見捨てられるのです。このことはイエス様にとっては死ぬばかりに悲しいことであったことを私たちは覚えたいと思います。
悲しみの極み。そうなったとき、人は一体どのような反応をするでしょうか。自暴自棄になり、人を憎み、神を恨む。そうなるかもしれません。しかし、そのようなとき、イエス様がしたことは神に祈るということでした。ありきたりのようですが、この祈りこそが悲しみ、苦しみの中にあるキリスト者にとって最良の選択なのです。血の汗を流すほどの苦しみと悲しみを覚えながらも御心を求めるゲッセマネの祈り。このイエス様の姿はキリスト者に祈りの神髄を教えています。

②祈りの要素―自我と御心
イエス様はこのゲッセマネで三度、神に苦しみ、呻きながらも祈り続けていきます。そして、その祈りの中で心が変えられていきます。祈りによって私たちは主によって整えられるのです。祈りの中で様々な気づきがあるのです。
イエス様の1回目の祈りは「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」といったものでした。苦しみを受けるための内面的葛藤を祈りで表現されています。そして、この祈りには2つの願いが語られています。
一つは十字架の苦しみをできるならば受けたくないという自分の願いです。他方、もう一つは自分の願いではなく、御心のままにしてほしい。そのような私でありたい。そういった神の御心を願ったものでした。この相反した2つの願いの間に板ばさみとなってイエス様は苦しみ悶えていたのです。しかし、これこそが祈りなのです。
イエス様は自分の本心のありのままを神様に伝えました。それでいいのです。祈りとは自分の願いを飾らずに素直に神様に伝えるという一面を持ちます。ただ、それと共に祈りとは、神の御心に従いたい、その御心を教えてくださいと聞く一面をも持ちます。祈りとは、伝え、そして聞くという神との対話なのです。そして、その祈りを通して見るのは御心を求める信仰と自分の願いを求める自我との戦いであり、その神との対話の中で自分の願いが御心を願うものへと自然と整えられていくのです。

「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

これはイエス様の二度目の祈りですが、この祈りはみこころのままにと主の祈りに示された模範的な祈りの姿勢に到達しています。ご自分の使命、御心をしっかりと受け止めることができたのです。神がその心を整え、引き上げられたのです。これが祈りの力です。神の恵みです。奇跡と言いますと超自然的現象を思い浮かべる人は多いと思いますが、私は人の心が変えられることこそ、何よりもの神の奇跡であると思っています。祈りという神との対話の中で、無理矢理にではなく、自然とやさしく、いつのまにか心が変えられるのです。最初は、苦しみながらも祈りの中で自分と戦い、御心を切に願うと必ずそのように引き上げられていくのです。
長年クリスチャン生活をしていると、答えというものはわかってくるものです。しかし、私たちはその答えに心が追いつけずに苦しみます。委ねます、感謝します、喜びます、ゆるします。こういったものは聖書の中で何度も勧められている御心に適ったものです。それはわかっている。でも辛い、悲しい、苦しい、憎い、ゆるせない。そういった自分がいるのです。しかし、その自分を主にさらけ出しつつ、あなたの望む私にしてくださいと祈るのです。そのあなたの切実な願いは聖霊によって必ずや叶えられるのです。
かつて、牧師として召された時、自分の自信のなさから恐怖に怯えていた私が、今、曲がりなりにも講壇に立ち、神の言葉を取り次いでいます。あの人をどうしてもゆるせないといったのに、祈ると出てきた言葉はゆるしますという言葉だった。そういうことを経験された方もおられました。祈りを通して自分の願いが神の願いと重なり、一致し、心が引き上げられます。今の自分の心を認めつつ、御心を求め、共に祈り続けていきましょう。

③弟子たちの弱さ
絶えず祈りなさい。そのように聖書は幾度となく私たちに祈りを勧めてきます。なぜ、何度も祈りましょうというのでしょうか?それは、そうはいってもやっぱり人は祈らないからです。人は情けなくなってしまうほど弱いのです。
イエス様は弟子たちを引き連れてゲッセマネに行きました。共に祈りたい、この苦しみを見て欲しい、ここを離れず目を覚まして私と共に祈ってくれないか。このイエス様の切実な思いを弟子たちはどれだけ理解していたでしょうか。・・・残念ながらよくわかっていませんでした。それゆえ、彼らは何度も寝てしまいます。目を覚ましていなさいと言われながらも何度も寝てしまう。イエス様が血の汗を流し、苦しみながら祈る傍でスヤスヤ眠っているのです。これが私たちの姿です。
このイエス様ほど切実に、私たちは祈っているでしょうか。自分の願い事ばかりしてしまう、まるで眠ったような祈りではないか。そんな自分の姿を痛感します。みことばと祈りは牧師の務め。今もこのようにみなさんに祈りましょうと偉そうに語っています。しかし、このイエス様を見ると私の祈りのなんと足りないことか。そのように思わされます。
しかし、イエス様はそんな私たちを決して見捨てません。何度寝ていても諦めずに起こしてくださるのです。呆れつつも目を覚ましていなさいと何度も声をかけてくださります。私たちの体が弱いことをよくご存知なのです。そして、それでも懲りずに眠るその横でイエス様は祈り続けるのです。
このゲッセマネの祈りは自我と戦い、苦しみながら御心を求めたものであると言いました。しかし、そこにもう一つの思いもあったのではないでしょうか。それは、弟子たちへの愛です。イエス様はこの傍で眠る弟子たちをお救いくださいと祈ったのではないでしょうか。十字架を選び取り、苦しんだのは神への従順。確かにその通りでしょう。しかし、それと共にそこには私たちへの愛があったはずです。
なぜなら神の御心は私たちの救いだからです。神に従いたい、それと共にあったのは愛する弟子たち、つまり私たち人間を十字架にはつけたくない、見捨てたくない、救い出したいという愛なのです。私たちを愛するがゆえの、見捨てたくないがゆえの苦しみの祈りだったのです。そしてその祈りは、三度目の祈りを持って完全に整えられます。イエス様は静かに決意し、そして眠る弟子たちを、愛を込めて呼び覚まします。

④祈り続ける者の姿
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

この言葉からは恐れや葛藤といったものが全く見えません。自分の使命を、御心を完全にイエス様は受け取られたのです。人の子は罪人に渡される。いいも悪いもない。これが御心だ。これが私の使命だ。このような心境です。祈りは自我を解きほぐし、完全に御心と一致させました。祈りは私の願いと神の願いを一致させるのです。そこにあるものはまさしく平安です。
イエス様は祈り切りました。時が来るそのギリギリまで祈り続けました。心が御心を願う祈りへと整えられても、さらにまだ祈られました。どこまでも祈るのです。そして、その祈りは私たちのための祈りでもありました。眠っていた私たちを見捨てずに起こし、さあ立って、行こうと呼びかけます。ここでの呼びかけは一人称複数形が用いられています。あなたたち行きなさい、ではなく私と共に一緒に行こうと主は呼びかけます。「神の御心はあなたたちの救いです。さあ、その十字架の贖いをしかと見なさい。」そのような揺るぎない確信に満ちた声です。ゲッセマネの祈りが主イエスを完全に整えたのです。
他方、弟子たちはイエス様が祈っている間、ずっと寝ていました。それゆえでしょうか。彼らはこの後イエス様が、ユダに裏切られ逮捕されるという苦難があると皆、あっという間に逃げてしまいます。イエス様は弟子たちのことを決して見捨てませんでしたが、彼らは簡単にイエス様を見捨てて逃げてしまうのです。ここに祈る者と祈らない者の姿が非常に対照的に描かれているように思います。
しかし、イエス様はそんな私たちの弱さを全てご存知です。祈らない私たちのために主イエスは祈り続けておられます。弟子たちの筆頭であったペテロは逃げた挙句に三度も主を知らないと言ってしまったという話はとても有名ですが、イエス様はそうなることを事前にペテロに向かって預言していました。そして、それと共にこのように語られました。

ルカ22:31
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

この主イエスの祈りがあったからこそペテロはこの後、立ち直ることができました。このペテロのように私たちはイエス様に祈られ、守られているのです。そして、その主が私たちと共に目を覚まして祈りたいと招いておられるのです。みなさん、この招きに応えて共に祈り続けましょう。
祈りの中で自我は御心と一体化し、御心こそがなによりもの自分の喜びとなる。これは、本当に幸いなことです。時に苦しい祈りもあります。それもまた確かです。その時こそ、どうか今日のこのゲッセマネの祈りのイエス様の姿を思い出しましょう。眠る者ではなく、苦しくとも目を覚まし、この主イエスのように御心を求めて祈ってまいりましょう。

武井誠司

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