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私の隣人は誰か (ルカ10:25~35)

メッセージ
2019年2月17日富里キリスト教会
「わたしの隣人とは誰か」
(ルカ10:25~37)
1.何をしたら救われますか?

さて今朝は、皆さんもよく知っている「良きサマリヤ人」のたとえ話です。今日のルカによる福音書の10:25~37を見てみますと、二つのお話からできています。前半の25~29節までは、一人の律法学者がイエス様を試そうとして質問を仕掛けたお話です。そして、それに逆に答えさせられてしまった律法学者が、今度は自分を弁護するために「わたしの隣人とは誰ですか?」と質問しました。それに対してイエス様が、「良きサマリヤ人」のたとえ話を話されました。

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。』とあります。」イエスは言われた。正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では私の隣人とは誰ですか?』と言った。」(ルカ10:25~29)

この律法の専門家の人は、イエス様を試そうとして、逆に自分が窮地に追い込まれてしまいました。この律法学者は、神を畏れることなくイエス様を試しました。そもそも彼はイエス様を神だとは思ってもいませんでした。そこに既にこの人の大きな罪があります。そしてイエス様を試そうとしたにもかかわらず、自分の質問そのものの中にもうすでに大きな誤りを持っていたのに気が付かなかったのです。それは、「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」という問いです。どうですか、皆さん方この質問をどう思いますか?いい質問だと思いますか?自分も同じような疑問を持っていると思いますか?英語では簡単な言葉です。What shall I do?です。永遠の命をいただくために何をしたらいいでしょうか?この質問は正しいですか?皆さんもイエス様に同じような質問をしますか?

キリスト教信仰は、何をしたら天国に入れますかと言い信仰でしょうか?わたしたちも陥りやすい信仰の落とし穴です。もしそう思っているならば、その人は創価学会や他の新興宗教と同じ信仰を持っている人です。ここにはこの礼拝の場には、誰も何か良いことをしたら天国に行って、永遠の命を持つことができると考えている人はいないと思います。でもこの人は聖書の専門家でした。当時のユダヤ人、ユダヤ教と言ったものがいかに見当はずれな信仰を持っていたのかが分かります。そして今でもユダヤ人はそうです。何をしたら、何を守ったら神の国に入れるのかと。

自分たちは神から選ばれた民族だ、律法、旧約聖書が与えられている、そして我々はそれをきちんと守っている。ユダヤ人の方々は、そう信じて誇りに思っています。あんなサマリヤ人など存在しないとさえ思っています。後でたとえ話に出てきますサマリヤ人は、かつてアッシリヤに侵略されて、拉致されて行って、向こうで外国人、異邦人の血が混じり、民族的にも信仰的にも、ユダヤ人の信仰の純潔が失われているサマリヤ人など本当の神の民ではないと、今でも信じています。

イスラエルに旅行に行った時に、ユダヤ人のガイドさんに尋ねました。「今でもサマリヤ人はイスラエルにいるのですか?」そうしたら、曰く、「そんな人々はイスラエルにいません。」という答えが返ってきました。でも以前NHKで「世界の少数民族」というテーマで、イスラエル在住のサマリヤ人のドクメンタリー番組がありました。彼らはイスラエルの中に、今でもひそかに息を殺して迫害を恐れて住み続けています。ユダヤ人にとって、サマリヤ人は昔も今も宗教的に堕落した軽蔑すべき民族であったのです。軽蔑と排除と迫害の対象なのです。

イエス様に「あなたは聖書をどう読んでいるか?」と質問された律法学者は、待ってましたと言わんばかりに、聖書の一番大事なみ言葉をすらすらと答えました。それは旧約聖書の申命記6:5とレビ記19:18からとった律法のテーマともいえる大事な御言葉です。「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えました。そしてこれは正しい答えでした。

An expert in the law asked Jesus “what must I do to inherit eternal life?”. Jesus answered. “what is written in the law and how do you read it?”. Then he answered “Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your strength and with all your mind and love your neighbors as yourself.” Jesus said to him “you have answered correctly and do this and you will live.” But he wanted to justify himself, so he asked Jesus. “who is my neighbor?” (Luke10:25-29)
The expert of the law asked Jesus “what must I do to inherit eternal life?” is this a correct question? Do you think that we should do something to get eternal life? Christion used to mistake that we should do something good to get eternal life. We used to think Christian should love the neighbors to get eternal life. To love neighbors as ourselves is the second commandment, the first commandment is to love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your strength and mind. The expert of the law misunderstood the order of the commandment. So he asked Jesus “what shall I do to inherit eternal life?” This is a wrong question, a correct question is “whom shall I worship to inherit eternal life?” “what” is not the correct question, but “whom” is the correct question to inherit the eternal life.

すると主イエスは「それを実行しなさい。」と言ったのです。すると彼は急に態度を変えて、「では私の隣人とは誰ですか?」と尋ねたのです。おかしいですね。あんなに聖書に精通しているのに、それを実行しなさいと言われたら、「自分が愛すべき隣人とは誰を指しているのでしょうか?」と聞き返したのです。彼は隣人が誰だか分らなかったのでしょうか。聖書には「自分を正当化しようとして」とあります。なぜ自分を正当化しようとしたのでしょうか?

リビングバイブルにはこう書いてあります。「しかし律法の専門家は、自分がある種の人々を愛していないことを正当化しようとして『ですが・・・、隣人とは誰のことで?』と聞き返しました。」(リビングバイブル)とあります。つまり、彼が正当化しようとしたのは、自分が愛していない人、愛さなくてもいい人がいたからです。その人は自分にとっては隣人ではなかったのです。ユダヤ人は愛するけれどもサマリヤ人は愛さなくてもいい人、憎むべき人だったのです。味方や親族は愛するけれども、敵や赤の他人は愛する必要がないと考えていましたから、自分にとっての隣人は誰でしょうかと尋ねたのです。

彼は聖書をそう読んでいたのです。自分の都合の良いように、社会の習慣に従って、自分の視点で読んでいましたから、隣人とはいったい誰を指しているのか分からなかったのです。しかし、真剣に聖書を読み、真剣に主なる神を愛している人ならば、自分にとって隣人とは誰であるかが分かるはずです。人からいちいちあの人は隣人で、この人は隣人ではないと教えてもらう必要があるでしょうか。牧師が隣人ですと言った人が自分の隣人で、先生があの人はそうではないと言ったら隣人とは見なさいないと皆さんお考えですか?

聖書を自分でどう読んでいますか?How do you read Bible? です。いちいちわたしが指示しなければどうしていいかわからないのでしょうか?でも悲しいかな、それが律法学者だったのです。当時の聖書の専門家だったのです。どこが問題でしょうか。知識は知っている、百点満点だ、でもその御言葉の適用ができないでいたのです。聖書を教科書みたいに読んでいたのです。その聖書の言わんとしている意味や命令を自分に当てはめることができなかったのです。適用できなかったのです。自分に向けて聖書を読んでいなかったのです。

いかがでしょうか。心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主なる神様を心から愛しているならば、自ずと自分が隣人に対してどうすべきかが出てくるのではないでしょうか。わたしたちはなぜ神様を愛するのですか?聖書にそう書いてあるからですか?そうではないでしょう。わたし達が神を愛するのは、神様が私達の罪のためにご自分の一人息子と捧げて下さったからでしょう。

その神の大きな犠牲的な愛をわたし達に示してくださったからではないでしょうか。この神の愛が隣人への愛となるのではないでしょうか。それ以外の愛は自己中心の愛です。このお話の後に、マルタとマリアの姉妹の話が出てまいります。姉のマルタは一生懸命、隣人愛に燃えて奉仕をします。ところが何もしないでお話を聞いている妹のマリアを非難し始めます。それでも気が済まないで、イエス様をも非難し始めてしまいます。神様の愛ではなく、自分中心の愛です。

わたし達が誰かを愛したから、永遠の命をいただくことができるのでしょうか。そうではありません。たとえわたし達が愛せなくても、神様は無条件でわたし達を愛して下さっているのです。だから、わたしたちは全身全霊で主を愛するのです。今日もこうして神様の前に出てきて心からの礼拝を捧げているのです。これが神を愛するという事です。そしてイエス様の十字架の贖いの血とパンをいただくのです。主の晩餐式が礼拝の中心です。それはまず神様がわたしたちをどこまでも無条件で罪を赦し、愛して下さったという事です。そこで私たちは、御前に来て礼拝を捧げているのではないでしょうか。それから出て行って隣人に仕えるのではないでしょうか。

「○○さん、あなたは、先週誰々さんを愛さなかったから礼拝に出る資格はありません。永遠の命はあなたに与えられていません。」と、誰が言えるでしょうか。なんでこの無知な律法学者は、「何をしたら永遠の命を得ることができるでしょうか?」という間違った質問をしたのでしょうか。イエス様を試すつもりが、逆に自分の信仰のなさを、そして知識のなさ、聖書をきちんと読んでいない偽学者だという事が、証明されてしまったではありませんか。しかし、彼はなおも簡単に引き下がりませんでした。どこまでも自分を正当化しようとして、更に反論しました。「先生、じゃあ、わたしの隣人とは誰のことですか?」と。

As the expert of the law asked the wrong question, when he was ordered to love his neighbor, he asked Jesus to justify himself “who is my neighbor?” why did he ask Jesus who is his neighbor? Didn’t he know his neighbor? Yes , he knows his neighbor whom he hates and despises. He loved only his family and his people but he hated and despised gentiles and Samaritan. So he asked Jesus who is my neighbor. He distinctly distinguished loved one from hated one in his heart. He read the bible in his sight and in his scale not reading in God’s sight and God’s scale. So he asked Jesus “what shall I do to inherit eternal life?”

2.わたしの隣人とは?

この律法学者の「わたしの隣人とは誰ですか?」という質問に答えて、イエス様は、それは○○だよとは答えませんでした。あくまでも聖書がわたしたちに問いかけているように、イエス様は彼に問いかけたのです。あなたは聖書をどう読みますか。あなたは聖書のたとえ話をどのように理解し、どのようにその御言葉に従いますかと。あくまでも本人に考えさせ、本人に決断をさせるのです。聖書の読み方は人それぞれで違います。それを理解し、解釈し、従うかはその人本人の決断です。あなたはどう読みますか?How do you read? これが聖書の答えです。聖書はわたしたちに問いかけているのです。

そこでイエス様は、あの有名な良きサマリヤ人のたとえ話をしました。ここには登場人物が6人出てまいります。被害に遭った旅人、強盗、祭司、レビ人、サマリヤ人、そして宿屋の主人です。一人の旅人が追いはぎに襲われて、半殺しにされて道端に放り出されました。そこに祭司が通りかかりましたが、祭司は忙しかったのか礼拝に行く時間が迫っていたのか知りませんが、道の向こう側を通って知らん顔して行きました。次にレビ人ですが、この人も神殿に仕える仕事をしている人です。ところがこの人も道の向こう側を通って通り過ぎて行きました。

最後にサマリヤ人が通りかかりました。サマリヤ人はユダヤ人からは宗教的にも民族的にも異邦人の血が入ってしまったという事で、軽蔑されていました。でもその人は、その追いはぎにあった人を憐れに思って、油とぶどう酒で手当てをしてやり、自分のロバに載せて宿屋まで連れて行って、費用を払ってあげました。デナリオン銀貨2枚という事は約2万円です。しかも追加料金がかかったらあとで支払うとまで行ってくれました。

そして最後にイエス様が、この3人の中でこの被害者の隣人になったのは誰かと尋ねました。当然誰でも分かります。「助けた人です」と答えました。するとイエス様が「行ってあなたも同じようにしなさい。」と言われました。この律法学者が、「分かりました。」と言って同じようにしたかどうかは書かれてありません。彼は、「サマリヤ人です。」とは言いませんでした。まだこだわっていたようです。あくまでも「助けた人です」と答えました。よっぽどサマリヤ人を嫌っていたのでしょうか。

私達クリスチャンも、このたとえ話を聞いて、すぐに自分もあのサマリヤ人のように困っている人を助けてあげようと思いがちです。誰でもこのお話からして、そう決心をしてしまいます。そしてこの教えがわたしに取りましても、長い間クリスチャンとしての指標になっていました。困っていた人を見たら助けてあげる。自分はクリスチャン、イエス様のご命令に従うのだ、自分は良きサマリヤ人なのだと。

でもよく考えてみてください。なぜサマリヤ人だけがそのような親切な行動をとったのでしょうか。祭司やレビ人は、なぜ何もしないで通り過ぎたのでしょうか。神に仕える身ならば、率先して困っている人を助けるのが筋ではないでしょうか。なぜサマリヤ人だけが愛の行動をとったのかといいますと、それはやはり彼がサマリヤ人だったからではないかと思います。イスラエルの国では差別され、軽蔑され、異邦人の血が混じってしまった混血民族ということで、宗教的にも社会的にも差別と偏見をもって見られていました。(ゲリジム山への参拝)

彼らはそういう差別と偏見の中でも、神様は一つ、このような自分たちをも愛しておられる。たとえ異邦人の血が混じっても、我々の神に対する信仰と愛は変わらない、神は憐れみ深い方だ、自分の弱さや罪深さを知っている者にこそ愛を示してくださるお方だという事を知っていたのではないでしょうか。このサマリヤ人の介抱の仕方を見てください。憐れに思って近づきました。そしてその傷口にオリーブ油とぶどう酒を注いで手当てをしてくれたのです。このサマリヤ人の動作を見ていると、あのイエス様の憐みの心と愛の御手が思い出されて来ませんでしょうか。

憐れに思った、近づいてくださった、そして傷口にオリーブ油とぶどう酒を注いでくれました。オリーブ油はふつう聖霊を表していますし、ぶどう酒は十字架の贖いの血潮を意味しています。ですから、このサマリヤ人はまさしくイエス様ご自身の行為を表しているような気がしてならないのです。こんな異邦人のような汚れた自分でも、神の民からは程遠い人間であっても、神はそのようなものをさえ無条件で愛して下さっている、これが真の神だという事をこのサマリヤ人は知っていたのです。ですから、自分から進んでこの哀れな人に目を留めて近づいてきて手当をしてくれたのです。

ですからこのたとえ話を聞いた後で、「あなたは、この3人の中でだれですか?」という質問をよく耳にします。「そうです、わたしはあの良きサマリヤ人です。」ですからわたしも同じようにしますと考えがちです。でもこの「隣人を自分のように愛せよ」という戒めは、第二番目の戒めであって、その前に「主なる神を、心を尽くし、精神を尽くして、力を尽くし、思いを尽くして愛しなさい。」という第一の戒めが来ています。この第一の戒めを第一とする時に、自然と第二の戒めが出てくるのではないでしょうか。

主なる神を愛するという事は、まず主を礼拝するという事です。そして祭司もレビ人も礼拝をしていました。もしかしたら熱心に礼拝するあまり、余計なことをしないでまっすぐに神殿に急いだかもしれません。だからけが人に手を貸せなかったかもしれません。でもそれではその礼拝とはいったい何でしょうか。自分を正しいものとして神の前に出る礼拝でしょうか。そうではありません。礼拝の中心は主の晩餐式です。主イエスの流された血潮と裂かれた体にあずかることが礼拝の中心です。毎月読んでいます。「主はわたしたちの罪のために死んでくださった。この主の死の意味を主が再臨する時まで続けなさい」と告白しています。

これが礼拝の中心です。あなたの罪のために主が来てくださった。あなたの罪のために主が血を流してくださった。これが真の礼拝です。そして本当にこの罪人の隣人になって下さったのは、まぎれもなくあのイエス・キリスト様なのです。
この律法学者は、自分の立場を弁護し正当化するために言った「わたしの隣人とは誰ですか?」という問いの、真の答えは「わたし、イエス・キリストがあなたの真の隣人なのだよ。」と答えられたのではなかったでしょうか。イエス様こそ真の絶対に裏切らない私の隣人です。わたしの友です。ですから、わたしも誰かの隣人になることができるのではないでしょうか。

As the expert of the law asked Jesus “who is my neighbor?”, Jesus answered by the parable of good Samaritan. A man was fell into the hand of robbers. He was stripped and beat and went away on the road. Then a priest went down the same road, and he passed by on the other side. And Levite came to the place, he also passed by. And a Samaritan came same place he saw him and took pity on him and cared him poring oil and wine and put him on his donkey and took him to the inn and paid the treatment fee. And Jesus asked him “who is the neighbor to the miserable man?” He answered “The one who had mercy on him.” Jesus said to him “Go and do likewise.”
Christian used to be a good Samaritan hearing the last word of Jesus
“Go and do likewise” This word was my guidelines of life for a long time. So I always did a good indeed as a good Samaritan and urged other people to do good thing. I wanted to be a good Samaritan and wanted to do good things to get eternal life. But the life style like a good Samaritan is getting hard for me.
Brothers and sisters what did Jesus intend to say in this parable? Why did each of these three react differently. Why did only a Samaritan approach and take care this miserable person? The reason is that he was discriminated and abandoned by Jewish people. He recognized himself as a gentiles and sinners far from God. But he had a hope to be a spiritual Israelite. He may believe in redemption of their sins and wait for new kingdom of God. So he have a sympathy to the sinners.
On the other hand the priest and Levite recognized themselves as a righteous one and judged the miserable one as a sinner. They did not understand who is the true neighbor for sinners. Jesus is our true neighbor who always with us and encourage us and comfort us in the trial. He never betrays us. He is a true one. He poured his blood on the cross and redeemed our sins and intercede to God. At first we should love the Lord our God as the Redeemer with all our heart and with all our soul and with all our strength and mind. Then we will be able to love our neighbor as ourselves.

わたしは祭司もレビ人も、この一番大事な罪の告白と贖い、罪の悔い改め、再献身という大事な大事な儀式の意味を理解していなかったのではないかと思うのです。ですから神様の愛と憐みを理解することができなかったのです。だから、けがをしている人のそばを通りかかっても、助けを求めている人のそばを通っても知らん顔をして、自分たちの形だけの礼拝を優先して通り過ぎて行ってしまったのではないでしょうか。

疲れた人、傷ついた人、障害をもって悲しんでいる人、病の中にいる人、罪に苦しんでいる人、そういう人にこそ主が来てくださいました。イエス様はそういう人の本当の隣人となってくださいました。見捨てることも手放すこともしない真の隣人はイエス様です。その人のために血を流され苦しんで、最後の最後まで罪の贖いと解放を告げて下さったのです。そういう神様を、わたしたちは全身全霊をもって愛し礼拝しているのではありませんか。それが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛すること」です。ここが大事です。神を第一とすることです。

ヨハネ17:3にこうあります。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」何かをすることではありません。永遠の命は、わたしたちの真の隣人であり、友であるイエス・キリスト様です。このお方を知り、このお方を全身全霊をもって礼拝することです。このわたしの罪のために苦しみ血を流してくださったお方を心から愛すること、ここに永遠の命があります。たとえ隣人を愛することができなかったとしても、主はわたしたちの永遠の隣人です。共にいてくださるお方です。このお方を愛するところに、わたしたちが向かうべき隣人が見えてくるのではないでしょうか。(岡田 久)

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