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私たちの集まり (Ⅰ コリント14・23〜33a)

メッセージ

2010年3月21日富里教会
「私たちの集まり」
                  (Ⅰ コリント14:23〜33a)
1. はじめに
富里教会には、他の教会にないすばらしい賜物があります。喜び、明るさ、率直さがありますから、特に活動中心にしなくても、皆でいるだけで楽しくなってくる何かがあります。それは、心を一つにして、証をし、御言葉を学ぶことによる聖霊様の一致によるのではないでしょうか。これを大切にしてゆきたいと思います。詩篇133の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」という御言葉のような集まりのあるところに、神様の祝福の油が注がれ、永遠の命が満ちあふれるのではないでしょうか。ですから、早く礼拝に行きたい、早く祈祷会に行きたい、スモールグループに行きたい、信徒訓練の学びに参加したいという思いがこみ上げてくるのではないかと思います。教会の命は、この御言葉の分かち合いによる交わりの集会にあると言っても過言ではありません。これが教会の生命線と言ってもいいかも知れません。

2. 心の秘密が明らかにされる集会
?コリント14:23から読んでみたいと思います。
「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だと言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(?コリント14:23〜25)

先週も言いましたが、賜物の根底に愛という動機がなければ、どんな賜物も意味がないということです。異言は、相手のことや未信者の方のことを全く考えていません。自分と神様だけです。自分を立てあげるものです。でも預言は相手のことを考え、相手を造り上げ、教会を造り上げます。「愛は自慢せず、礼を失せず、自分の利益を求めない」(13:4〜5)とありますとおり、どこまでも初心者や未信者の方々のために配慮します。

そして何よりも、預言の力は、聞く人の心の中を探り、その人の心に中に隠されている罪を明らかにします。そして、最終的には、この集まりの中に神様がいますと告白するようになるというのです。ここで少し注意していただきたいのは、未信者の方が自分の心の秘密が明らかにされて、ここに神様がいますと告白するに至るのは、実は、私がこうして説教をして、このメッセージを皆さんが聴いて、罪の告白にいたるということよりは、皆さんのお互いの会話を通して、その交わりの中で信仰に導かれると書かれています。

24節に「皆が預言しているところへ」とあります。ここではむしろ、成人科やスモールグループでメンバーがお互いに自分のことを証したりしている時のことのような気がします。そこで、新来者の方が、皆さんの話や証を聞いて、「神があなたがたの内におられます」と告白するようになるというのです。集会の、兄弟姉妹の心の中に、そして、その愛の交わりの中に神様がおられると感じるのです。31節に「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」とあります。ここで大切な事は、「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」ということです。集まっている人が、お互いに学びあって、お互いに励まされることが大切です。このようにして、皆が集まって、お互いに学んだり励まし合っている時にこそ、未信者の方に神様が働いてくださるのです。

ある家庭で、家庭集会がありました。夜集まっていましたが、クリスチャンの奥さんと二人のお嬢さんがおられました。お父さんはまだノンクリスチャンです。でも集会の時には、参加しないで、隣のテーブルで新聞を見ていました。4人で話が盛り上がって、御言葉について、お互いに話し合っていましたら、隣のお父さんの様子が少し変です。私は向きを変えて、「ご主人も、イエス様を信じませんか?」と思い切って尋ねてみました。そうしましたら、ボソッと「ウン」という返事が返って来ました。私は思わず、「奥さん、今ご主人が信じると言いましたよ。」いいました。3人とも一瞬あっけに取られて、しばらくポカンとしていましたが、それから奥さんがワーっと泣き出しました。14年間待っていたその日がついに来たのです。私達が御言葉を分かち合っていたその言葉を聞きながら、ご主人の心も開かれて、イエス様を信じるようになっていたのです。皆の会話の中で、心の秘密が明るみに出され、自分の中でも良く解らなかったことが、話し合いの中でわかるようになったのではないかと思います。(その時のお話は、天上から中風の人がつり下ろされてきた時のお話でした。)

3.愛のうちに人を造り上げる集会
次ぎにもう少し、集会の内容について書いてありますので見てみましょう。
14:26節を読んでみます。「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩篇の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。」

このコリント人への手紙の中で、今まで、主の晩餐式について語り、次に霊の賜物、そして教会はキリストの体であり、私たちは愛を持って、互いにその賜物を生かしてゆかなければならないと話してきました。とりわけ、クリスチャンにとって愛の賜物が大切であり、愛を追い求めることの大切さを学びました。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で、最も大いなるものは愛である」(13:13)と。教会では「愛」という言葉を口にします。また、愛こそが一番大切なものであると言います。じゃあ、一体この愛がどこに現れるのかと申しますと、それは集会の中なのです。

実に神様の愛が目に見える形をとって表れたのが、この教会の集まり、集会だったのです。パウロ先生は、この愛に裏づけされた集会のことを言いたくて、いろいろと語ってきたといってもいいほどです。当時はスモールグループのように、食事があったり皆が証をしたり、御言葉を分かち合ったり、祈ったりしていたのではないでしょうか。使徒言行録の中に、2000年前の生き生きとした教会の姿が描かれています。「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒言行録2:44〜47)。

これが教会の本来あるべき姿です。「神殿に参り」は、今日でいう、教会の祈祷会に行くということです。毎日ですから、早天祈祷会を毎朝していたのではないでしょうか。そして「家ごとに集まって、パンを裂き」は、即ち主の晩餐式を家で行ない、その時に食事も一緒にしていました。そして神を絶えず賛美していました。その群れに、神様が毎日、新しい人を送って下さり、だんだんと仲間が増えて行ったのです。(今の私たちの教会に似ていますね・・・。)

ですから、パウロはこのような集会をやめないように、と訴えています。
「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人達の習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励ましあいましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」(ヘブライ10:24〜25)

私は、富里教会が、この預言の賜物を愛のうちに豊かにいただき、それを集会の中で生かすようになってきたのではないかなと思います。たとえ人数が少なくても、神様は集会をやめたり休んだりすることを望んではおられません。主が再び来られる日まで、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:7)集まりを続けなさいと言っています。

教会はキリストの体であり、愛の共同体です。この教会の集まりの中に愛の神様が御臨在されています。そこでは、人は、心洗われ、「まことに、あなたがたの内に神様がおられます。」と告白せざるを得なくなります。この主にある兄弟姉妹の交わりが、グループとして、集会として、世に向ってキリストの愛を力強く証してゆくのではないでしょうか。私たちも、この愛の交わりに生きる教会を目指して行きたいと願っています。

       (岡田 久)

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