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福音宣教の仕事 (Ⅱテモテ4:1~8)

メッセージ
2021年3月28日富里キリスト教会
「福音宣教の仕事」
(Ⅱテモテ4:1~8)
1.御言葉を自分で学んで確信する

この手紙は、パウロが晩年に弟子のテモテに向けて書かれた手紙です。若い牧者であるテモテに対するパウロの温かい心遣いと励ましの言葉が述べられております。テモテのお母さん、そしてそのおばあさんの信仰を受け継いで育ってきた弟子です。そのクリスチャン家族のすばらしいところは、やはり聖書を幼い時から親しんできたということではないでしょうか。

第二テモテ3:14から有名な聖書についての教えがあります。「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたはそれを誰から学んだか知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることが出来ます。」(Ⅱテモテ3:14~15)

そこに見のがしてはならない大事な言葉があります。それは「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」(3:14)という言葉です。聖書は自分で学ばなければならないのです。そして自分でその確信を得なければならないのです。その確信を得たなら、それから離れてはいけないというのです。それは一人一人が「自分で確信」しなければならないことなのです。あの十人の乙女のたとえ話の中で、油を切らしたおとめが別の乙女に油を分けてくださいと言っても、分けてあげることが出来ないのです。聖霊の油は自分用意しなければなりません。自分で買い求めなければならないのです。

イエス様が来たという時に、慌てて買いに行っても手遅れです。常に自分で自分の心の壷に聖霊の油を蓄えておく必要があります。自分で一生懸命聖書を学んで、そこから自分で救いの確信を得なければならないのです。皆さんはいつ学んで確信をつかみますか?それは「今」しかありません。イエス様が来てからでは手遅れです。み言葉の確信も聖霊の油も、どちらも自分で求め、自分で探し、自分で手に入れなければなりません。

このみ言葉の宣教が教会の中心です。その御言葉を取り次いで、その奥義を解き明かして説明するために牧師を立てたのです。この宣教が教会の生命線です。牧師の説教によって教会は生きもし倒れもすると言っても過言ではありません。ですから教会員の皆様は、牧師がみ言葉を正しくそして大胆に解き明かして、信徒を責めたり、とがめたり、励ましたりできるように祈らなければなりません。牧師個人の祈りも大事ですが、牧師の説教は信徒の祈りにかかっていると言っても過言ではありません。

2.御言葉を宣べ伝えなさい

「神のみ前で、そして、生きているものと死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。み言葉を宣べ伝えなさ。折がよくても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:1~2)

この4章の冒頭で、パウロは語調を変えて、厳かに命じますと言っています。しかも「神の前で、裁き主であるイエス・キリストの御前で」厳かに命じますと言っています。非常に重みのある、大事な宣言だということです。こういう表現の言葉が他にあったでしょうか。いかにこの命令が大事な命令であるかということです。ですからこの命令を、襟を正して聞いて下さい。神様が言っておられるということ、しかも再臨に際してイエス・キリストもこのことを最後に問いただすという言うことです。

その説教の内容とは、「とがめる」「戒める」「励ます」です。この三つのやり方で聖書のみ言葉を語りなさいと言っています。そしてこれを忍耐をもって、十分に教えなさいと言っています。耳に心地よくいい言葉だけでしたら、信徒の方々に歓迎されるかもしれません。「先生のお話はいいなあ、嬉しくなる、気持ちもよくなる」というならば喜ばれるでしょう。しかし福音宣教者の仕事は、まず第一に信徒を「とがめる」ことです。第二に「戒める」ことです。そして三番目に「励ます」ことです。いかがでしょうか。牧師の説教がいつも自分の罪をとがめる説教でしたら、そして自分を戒める説教でしたら、皆さんどうされますか?「もう結構だ。聞きたくない。」と言って耳をふさぐかもしれません。たとえそういう人に出会っても、牧師は忍耐をもって十分にみ言葉をもって、教えることが求められます。

わたしも主の晩餐式の時に読む聖書の個所を、途中から共同訳聖書ではなく、リビング・バイブルに切り換えました。聞く会衆の耳に、このみ言葉の真の意味が届いているのだろうか。どこか御言葉が、形式的な言葉で馬耳東風のように聞こえているのではないだろうかと思いまして、途中から聖書をリビング・バイブルの言葉に切り換えたのです。そうすることによって、より具体的現実的な御言葉になって、会衆の耳に入り、心に問いかけるように奨励しました。それから皆さんが真剣に、主の晩餐を再臨のキリストの言葉として、真剣に受けとめ、御言葉に向き合い、悔い改めをもって受けるようになりました。

テモテへ第一の手紙4:13では、パウロはこう言っています。「わたしが行く時まで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いた時、預言によって与えられたものです。これらのことに務めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」(Ⅰテモテ4:13~15)と。

「聖書朗読」、「生活上の信仰的な勧め」、そして「聖書の教え」に専念しなさいと言っています。この働きは、按手によって長老の先輩の先生方から与えられたものですと言っています。こちらでは、聖書の朗読、勧め、と教えとなっています。この働きに集中しこれに励みなさい。そうすれば牧師も霊的に成長し、進歩してくるというのです。

3.反逆の時が来ても

わたしも長い間、教会に仕えてきましたが、どこに行っても共通していることがあります。それは、最初は新しい牧師を歓迎して歓喜しますが、そのうちに熱が冷めてきて、一部の信徒が反抗する時が参ります。最初は盛り上がって、やがて冷めてきて、牧師にとって苦闘の日々がやってきます。そしてこの時期を乗り越えるとまた、新しい祝福の時がやって来るような傾向があります。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(3:3~5)

どうでしょうか、就任して3年目でしょうか、あるいは5年目あたりでしょうか。やはり健全な聖書の教えを聞こうとしない人が出てくる時期がやって来るかもしれません。ある意味では、そこから本当の伝道牧会の働きが始まると言っても過言ではありません。結婚生活と同じです。最初はハネムーンの時代です。やがてお互いの欠点が見えて来た、どうも合わないということで夫婦の葛藤が始まります。

パウロは何度もそういうことを体験し、耳にして来ましたので、若いテモテに来るべき福音宣教者の苦闘について忠告したのでした。そういう時は必ずやってきます。そしてそういう人は、いつでもどこでもいるのです。そして福音宣教者の務めはそこが本当のスタートだと言っても過言ではありません。「時がよくても悪くても御言葉を宣べ伝えなさい。そういう人をとがめるのです。そういう人を戒めるのです。そういう人を励ますのです。」それが福音宣教者の仕事であり、務めなのです。最後に「励ます」という言葉が来ているということは、どんなにその人をとがめ、戒めても、その人を打ち砕くのではなく、最後は励ましてその人を正しい道に導くということを意味しています。

第二の手紙の2章24節で、パウロはテモテにこうも言っています。「主の僕たるものは争わず、全ての人に柔和に接し、教えることが出来、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かなければなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」真理の言葉を取り次ぐ者に対して、耳をふさぐだけではなく、背を向けるだけではなく、真理に対して反抗してくる、そして時には攻撃さえしてくる人もいます。そういう人に対して自分も反撃してはいけないというのです。

主の僕は、争わずに全ての人に対して柔和に接し、優しく教え導かなければなりません。またこの牧会のストレスの余り、自暴自棄になって、身を持ち崩してはいけない、どこまでも身を慎んで純潔を保ち、苦難を耐え忍び、福音宣教者の仕事を最後までやり遂げなさいと言っています。牧師の働きは、どんなに反抗されても、そういう人を最後まで優しく教え導くことです。いったい誰がこんな仕事に耐えられるでしょうか。でも最後にパウロはこうも言っています。「こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされて意のままになっていても、いつか目覚めてその縄から逃れるようになるでしょう。」(2:26)そしてそういうことが起こる時があります。

反抗する者を、愛をもって優しく教え導き、忍耐をもって十分に教え続けるのです。そういうストレスだらけの牧師の仕事ですが、この仕事を、牧師はどんな場合にも身を慎んで、最後まで耐え忍びんで頑張ってやってもらいたいと思います。そして教会員の皆さんには、牧師がこの宣教の働きを力強く推し進めることが出来るように、祈って下さい。教会を生かすも倒すもこの牧師の宣教にかかっています。そして牧師の宣教は、教会員の皆様の祈りにかかっていると言っても過言ではありません。

今週は受難週ですが、イエス様がわたしの罪のために十字架にかかって、今も贖い、執り成しの業をして下さっていることを覚えたいと思います。この十字架に架けられたキリストこそ、わたしたちの信仰の確信であり中心です。この十字架のキリストを一人一人の生活の基礎に据えることが、牧師の働きなのではないでしょうか。牧師は皆同じ願いを持っています。たとえ牧師がストレスを感じ、苦しみを覚える時がありましても、それはキリストの十字架の苦しみを担っているということです。イエス様は牧師も信徒一人一人も、御言葉と祈りによって、この十字架を背負って主に従ってくることを求めておられます。

4.世を去る時が来た

最後に、パウロ自身が自分の最後のことも書いておりますので、わたし自身と重ね合わせつつ読んで終わりたいと思います。
「わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けて下さるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」(3:6~8)

この手紙がパウロの晩年の手紙だということが分かりますね。間もなくパウロも地上での生涯に幕を閉じて、天に凱旋しようとしています。わたしもパウロのように、救いの確信をもって天に帰りたいと願っています。わたしの最高の喜びは、時がよくても悪くても、御言葉を宣べ伝えることです。牧師の時には、教会の講壇からみ言葉を宣べ伝えるでしょう。引退してからは、クリスチャンとして家庭でレストランで集会所で、どこででも御言葉を宣べ伝えることができます。これがわたしの人生の最高の喜びです。

牧師時代には、毎週の説教に生活全体が縛られます。正直言って説教以外のことはできないのが牧師の仕事です。でも今度は説教に縛られずに、自由にどこででも福音宣教ができます。4:2のみ言葉は、私にとっては「御言葉を宣べ伝えなさい。牧師であっても牧師でなくても」となります。ともかく聖書のみ言葉を語ることが恵みであり祝福なのです。

パウロは晩年、囚人としてローマに行きました。おそらく彼は、捕らわれの身でなければ、彼の願いであるローマを経て、イスパニアまで行くことが希望だったのではないでしょうか。(ローマ15:24)幸い、わたしは囚人ではありませんので、自分の願いであり夢である福音宣教の働きを、これからも続けてゆくことができます。そしてそのまま勢いをつけて、天国まで昇って行ければと祈っています。どうぞ私のためにもお祈り下されば感謝です。(岡田久)

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