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福音の力 (ローマ1:1~17)

メッセージ
2017年4月23日富里キリスト教会

「福音の力」(2017)
(ローマ書1:1~17)

1.パウロの召命感

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(1:1)、そして次の2~6節を飛び越えて、7節に行きます。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:7)と。そしてこの真ん中の2~6節までが、「―」で挟まれていますが、イエス・キリストの紹介となっています。

自分を紹介するよりも、つい筆が走ってイエス・キリストの紹介の方が大きくなっています。それだけ、パウロにとってはキリストが大事だったと言うことです。キリストが自分の主人で、自分はキリストの僕にすぎないと考えていました。それが1:1の自己紹介です。パウロの自己紹介の三つの言葉に注目してみたいと思います。

1)キリスト・イエスの僕

人間は誰の支配のもとに置かれるかによって、その人の人生が変わって来ます。お金が主人ならば、「金の奴隷」です。権力が主人ならば、その人は「権力の僕、権力の奴隷」です。パウロはキリストの僕、キリストの奴隷であると言いました。パウロはかつてクリスチャンを迫害していて、その迫害の最中に「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒言行録9:4)と言う主の声を聞いて、回心しました。

そして本来ならば、神に撃たれてもいいはずの自分が、その罪が赦され、生かされたのです。そして、神の宣教の器として用いられるようになった故に、キリストに完全に服従する生き方に変えられたのです。このキリストの完全な愛と慈しみの中に置かれているという意味での、奴隷なのです。ある意味では自由にされた奴隷です。主人から、心底愛されているという意味での奴隷なのです。神の愛の鎖にがっしりと縛られているのです。どこまでも愛され、赦されている奴隷なのです。これが、「キリスト・イエスの僕」と言う意味ではないでしょうか。

2)神の福音のために選び出された人

次にパウロは、自分は福音のために選び出された者であると言っています。
福音のために、福音を宣べ伝えるために選ばれたのです。しかもその選びはいつ決められたのかと言いますと、ガラテヤ書1:15では「わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神」と言っています。お母さんのお腹にいる時からすでに、パウロは福音のために選ばれていたのです。またエフェソ書1:4では「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」と言っています。つまり、天地創造の前からも、神様はパウロを聖なる者にしようとして選ばれたのです。

いったい誰がこの神様の恵みの選びに、異を唱えることができるでしょうか。神様がわたしたちを選ばれたのです。神の福音のために選ばれたのです。「福音のために」と言うことは、福音に生きると言うことです。そして福音を伝えると言うことです。その目的のために、わたしたちは選ばれたのです。彼を神の福音のために用いるという、神の強い意志です。神様御自身の自由意志なのです。人間は、この神の御意志に従うしかないのです。神の奴隷なのです。わたしたちも全員、そのような者として選ばれ召されたのです。これもこのローマ書の大きなテーマです。神様の側の決断、神様の側の義しさなのです。

教会から離れていても、信仰を失いかけていても、人生の失敗者であったとして、障害や欠点を持っていたとしても神の選びは揺るがないのです。そんなわたしたちをも、神の御決断をもって福音のためにお選び下さっているのです。クリスチャンになって幸せな人生を送るためだけではありません。神の目的のために、赦され、救われ、生かされているのです。神の福音のためにです。福音に生き、福音を宣べ伝える者としてあらかじめ選ばれているのです。そのことを肝に銘じたいものです。

3)召されて使徒となった人

パウロは残念ながら、生前のイエス様にはお会いしていませんでした。12使徒だけが、生前の主イエス・キリストの正しい後継者として、福音宣教の働きを担いました。いわばパウロは異端児でした。ですから、彼は教会の中でも白い目で見られたり、ユダヤ人からは裏切り者として命をも狙われもしました。非常に微妙な立場だったのです。でもパウロは自分を使徒として召して下さった、主の声を聞いて、それに従ったのです。つまり、パウロが召されたのは主御自身からの召命以外に、彼の使徒としての身分を保証するものはありませんでした。

もし、生前のイエス様を知っている人だけが使徒だとしたら、おそらく12使徒が死んだ後は、誰も正統な後継者が出なかったでしょう。でもパウロはその後に続くキリストの教会の正当な使徒たちの先陣を切ったのです。つまりたとえ、生前のイエスを知らなくても、復活の主と出会ったという信仰をいただく者は、誰でも使徒としての働きに召されているということです。自分を主から遣わされた正しいキリストの使徒として証明して下さるのは、神以外に存在しないのです。そこに自分の使徒としての根拠があると言うことです。わたしたちも皆、聖なる者になるようにと神の召された者なのです。1:7に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマ(富里教会)の人たち一同へ。」と書いてあります。

2.福音とは何か

このようにして神様が全てを決められ、選んでくださるのであれば、わたしたち人間の働きは何もないのではないかと言う感じがします。しかし、そうではありません。神は、わたしたちを福音のために選ばれたのですから、わたしたちは、この福音を伝えるという目的のために存在しているといっても過言ではありません。ではその福音とは何かと言いますと、1章2~6節までのことが、福音の中味なのです。「この福音は、神がすでに聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(1:2~4)

パウロの働きは、このお方、すなわちイエス・キリストの御名を告げ広めて、ユダヤ人以外の異邦人を信仰へと導き、キリストの御言葉に対する従順な信仰へと導くことであると述べています。そして一人一人が、イエス・キリストに属するものとなるように伝道することが、自分の使命であると考えていました。ローマの信徒の皆さんも、異邦人ではありますがイエス・キリストに愛され、キリストに属する者として召されているのですと励ましています。

つまり福音の中味は、イエス・キリストです。更に詳しく申しますならば、イエス・キリストの十字架と復活がその中心です。先週、わたしたちはイースターのお祝いをしました。イースターはイエス・キリストの復活を喜ぶ日です。キリストはわたしたちの罪のために十字架にかかって下さり、すべての人の罪をその十字架の上で赦してくださいました。そして、三日目に墓から復活されて、ご自分がまさにメシア、キリスト、救い主であることを証明されました。

肉のイスラエルの歴史の水平の線と、神と人間をつなぐ垂直の霊の線の交わる交点が、イエス・キリストなのです。1:3~4までがそのことを説明しています。これが福音であり、イエス・キリストであり、ここに神の力が力強く働くのです。パウロは、この福音にこそ人々を救う力があるのだと語ります。「わたしは福音を恥とはしない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(1:16~17)

福音は神の力だというのです。なぜか、それは福音の中に神の義が啓示されているからだとパウロは言います。この「神の義」が、人々を罪から救う力の源だというのです。神の義とは何でしょう。それは一言に行って、イエス・キリストの十字架に示された神の義しさということになります。そしてこの「神の義」が、この手紙の主題ともなっております。

皆さん、この「義」と言う漢字をご覧ください。じつに日本語の漢字は、その一つの字の中に一つのメッセージが隠されています。「我」と言う字の上に「羊」と言う字が乗っています。つまり「神の義」と言いますのは、我という自分中心の考え、即ち罪を、神の子羊であるイエス・キリストが、十字架の上でわたしたちの罪をその血を持って赦し、洗い流して下さるという意味が込められています。神の子羊であるキリストが、わたしたちの罪の上に覆いかぶさって、罪を隠していて下さるという意味が込められています。

この神の子羊であるイエス・キリストに、罪の自分を隠してもらっているというのが、神の前に義しい人なのです。これが信仰なのです。(ヤコブが腕に山羊の毛皮を巻いて、父イサクをだまして祝福を奪った話・創世記27章)自分がガラッと変わるのではなく、ただ、ただ、神の子羊であるキリストの覆いの覆いに守られている人、これが信仰による義人なのです。ですから、一皮むくと皆、我と言う罪が顔を出します。ですからこの覆いであるキリストを手放してはいけないのです。これが「信仰による義人」という意味なのです。そういう人が生き延びるのです。

3.神の義の啓示

ローマ書1:17に「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(1:17)もう一度申しますと、神の義と言いますのは、それがこの漢字が示しているとおり、羊であるキリストのもとに、へりくだって「我」を置くこと、これが信仰であり、そのような人が真に生きる人となるということです。

そしてこの神の義は、福音の中に啓示されているというのです。ここにまた「啓示」というキリスト教信仰の最も大切な言葉が出て来ています。訓読みしますと、「啓(ひら)き示(しめ)す」と言うことです。この啓示という考えが、ローマ書のみならず、聖書全体の中心テーマになっています。つまり、神の義を知るためには、人間の側から行く道はないというのです。神様の側から道を啓(ひら)いて下さらなければ行けない道なのです。

啓示のことを英語でRevelationと言います。つまり、Reは「取り除く」とう意味です。velationというのは、veil(ベール)から来ています。つまりベール(覆い)を取り除くと言うことです。神様のほうから、ベールを取り除いてくださらないと解らないと言うことです。ちょうど、結婚式で、新郎が新婦の顔にかかった覆いを取り除いてあげるようなしぐさのことを言います。つまり、花婿であるキリストが、花嫁であるわたしたちの顔の覆いを取り除いて初めて、キリストの顔が解るという行為です。

これが啓示です。キリストがその覆いを取って下さることによって、神様のことが良く理解できるようになること、つまり悟るようになることです。それまでは、まだ顔に覆いがかかっていて、よく見えない状態です。しかし、啓示の霊によって、一瞬のうちに目の前が開かれて、神様の顔とその御心を悟ることができるのです。

それをパウロは別の箇所で「啓示の霊」と言っています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。」(エフェソ1:17)啓示によって、心の目が開かれると言うことです。つまり、神からの啓示の霊によって、わたしたちはこの神の義を初めて知ることができるのです。そのようにして下さるのは、聖霊なる神様なのです。復活された主が弟子たちに対して、「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)と言われました。

ですから、大事なことはこの神の霊である聖霊様を求めることです。声に出して、祈りの中で真剣にです。もっともっと神を深く知ることができるようにと祈ることです。聖書は啓示の書ですから、この啓示の霊がなければ分かりません。わたしたちはすでに、イエス・キリストの僕です。神の福音のために、神に選ばれて召されたものです。この召しは変わることはありません。後は聖霊に働きによって、聖書の御言葉を通して、子供の信仰から大人の信仰へ、自分中心の信仰から神中心の信仰へと変えられてゆくのです。これが「初めから終わりまで信仰によって実現される」と言うことです。前の口語訳聖書では、「信仰に始まり信仰に至らせる。」と訳していました。

そして、神の子羊であるイエス・キリストの十字架のもとに、自分の罪を認めて絶えず繰り返して悔い改めてへりくだるならば、そこに神の義すなわちイエス・キリストの十字架の赦しが、聖霊様を通して心の内に啓示されてゆきます。信仰は生き物です。日々に成長し変わって行きます。そしてやがて、永遠の命に至る実を結ばせて下さいます。そのような者として、神様がわたしたちをキリストの僕、神の福音伝道者として、パウロと同じようにあらかじめ選び出し、こうして召し出して下さったことを覚えたいものです。 

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