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神を畏れる コヘレト3:10~14

メッセージ

2014年1月5日富里キリスト教会

「神を畏れる」
(コヘレト3:10~14)

1.恐怖と畏敬の違い

さて、今朝は、今年最初の新年礼拝ということで、旧約聖書のコヘレトの中から「神を畏れる」という題で、語らせていただきたいと思います。「恐怖」の方の「恐」という字は、漢和辞典を調べてみますと、「危害を加える者を恐れて、身を隠す時」に用いる言葉です。例えば、今日は雨が降る恐れがあるので、傘を持って行って濡れないようにするとか、雪が降る恐れがあるので、チェーンを持って行くとか、何か、危険を回避するために用心して自分の身を守る時に使います。つまり自分の身を守る、自分を守るのがこの恐怖の方の「恐れる」です。ですから、悪霊やサタンが神に対して使う時には、この恐怖の恐れを使います。何故かと言いますと、自分が神に裁かれ、その人から追い出される危険性があるので、神を怖がります。

ヤコブ書2:19節に、次のような御言葉があります。「あなたがたは、『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じておののいています。」悪霊たちも、神様の存在を信じています。しかし、彼らは神を信じてはいますが、神に従おうとはしません。

でも、もう一方の「畏敬」の「畏れる」は、辞典を見てみましたら「神を畏れ敬って、自分の身を慎む、または自分を律する」という意味がありました。つまり、神の存在を認め、神の御言葉に従おうとする時に、人は神を畏れるという言葉を使います。これは神への畏敬を表し、神の前にひれ伏して、その権威に従おうとすることです。これが、本当の意味での「神を畏れる」ということです。英語でも、恐がる「恐れ」を「Fear」とか「Afraid」 といいますが、信仰を持って畏れるは「Reverence」とか「Awe」という言葉を使っています。

この神を畏れるという意味での「畏敬の畏れ」は、あまり新約聖書では多くは用いられていませんが、大事な言葉です。そして旧約聖書では、私たちの信仰の核心をなす言葉として重要視されています。

2.神を畏れることは人間の本質

この書は、すべてのことを究め尽くした伝道者が、最後に、人間にとって一番何が大切かということを語った書です。学問を究め、財産を究め、この世界のありとあらゆるものを究めて、自分のものにした賢者が言った最後の言葉は、
「空の空、空の空、いっさいは空である。」(コヘレト1:2)という言葉です。(新共同訳では「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」となっています。)自分が探究して手に入れてみたはいいが、持って見るとすべては空しいというのです。この空虚感と倦怠感が全編にみなぎっています。

じゃあ、いったい人間は何のために生きているのか。何を目標に生きたらいいのかという問いが出てきます。学問を究めてノーベル賞を取る、財産を蓄えて大邸宅を造り、大事業を成し遂げる。それもすべて、天が下で行われる人間の営みは、全て空しいというのです。所詮、人間は死んでしまえば、何もなくなるのだから。じゃあ、いったい人間の生きる意味は何か、何をすれば人生を充実して生きられるのかというところまで、とことん問い詰めています。

そして、最後に伝道者の得た結論が、3:12~14に書かれてあります。「わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人誰もが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」とあります。

つまり、人間にとって最も大切なことは、神が与えてくださった、普通の生活を喜び満足し、この世界と自分自身を造って下さった神を畏れ敬って生きること、これが人間の本分であるということです。そして、神は人間を本来そのように、神を畏れ敬うように定められているのだということです。さらに、伝道者の結論は、コヘレトの最期の12:13にも出ております。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」(コヘレト12:13)と。神様は最初から、神を敬い畏れるように人間を創造されたということです。神の前に立ち、神に相対して、神を畏れ敬って御前にひれ伏す、神を礼拝をする存在として人間が造られたのです。これが人間の本来あるべき姿なのです。

ところが、人間は、その神を畏れ敬うことを忘れ、必死に自分の力、自分の能力に頼って、死に物狂いで相手を蹴落として競争、競争の世界に生きています。残念ながら、これが人間の現実の姿です。みんな神を忘れ、経済、お金、金メダル、優勝を目指して死に物狂いで生きているのです。その目標を目指して必死に頑張ることで、空しい人生に、何か別な生きがいを与えようとしているような気がしてなりません。神を忘れ、神の前からさ迷い出ている人間の姿です。

3.神を畏れる者は小さなことを大事にする

しかし、人間にとって最大の、そしてなくてならないことは、「神を畏れることに尽きる」のです。わたしは昨年12月の初めの頃、ふと、「自分は神様を畏れる生活しているだろうか。」という気持ちが湧いてきました。牧師なのに、心から神を目の前に置いて、いつも真剣に、そして敬虔に生きているのだろうかという思いが浮かんできました。「神を畏れる」という言葉は、あまり私の頭にも、また説教の中にも出てこなかったのではないでしょうか。

振り返ってみれば、断食して祈ろうとしても、途中で我慢ができなくなってつい食べ物に手が出てしまったりしました。「ようし、今日から、午後三時の祈りの時間を持つぞ。」とは意気込んでみたものの、つい雑事に追われて忙しくして、四時になったり、五時になったりしました。幸い、夜休む前の祈りの時間だけは何とか確保されていましたが、朝のデボーション、午後三時の祈りに至っては、つい安きに流れて、やったりやらなかったり、遅くなったり、そしてそれに言い訳をしてみたりしました。最期にはもう何とも思わなくなってしまって、自堕落な生活に流れてしまうことが多くありました。

たとえ短くても、この午後の三時の祈りがあるとないとでは、その後の夕方、夜の時間が違ってくるのを感じました。そして、祈りの時間帯だけではなく、教会の中の小さなことでも、後回しにしないで、てきぱきとできるようになってきたのです。神を畏れることによって、小さなことに忠実になれるようになったのです。

今までですと、説教があるとどうしても、他の仕事まで手も頭も回らなくなってしまうのです。もう説教の事がいっぱいで、他のとこができませんし、忘れてしまいます。仕事がどんどんたまって来ます。でも、神様を畏れるようになってから、メールが来た時にはすぐに返事を出したり、お手紙の返事を書いたり、庭の枯葉の掃除をしたり、ありとあらゆる教会の雑事と家事にも、きめ細かく対応することができるようになったような気がします。

神様は、すべてをご覧になっています。その神様の目が恐くて奉仕をするのではなく、どんな小さな奉仕も、神様から与えられた恵みの奉仕だということです。イエス様が十字架に架かってわたしたちの罪を贖い、神の子として下さり、教会を与え、その教会の中で、どんな小さな奉仕でも、どんな小さな賜物でも、それは神様がお一人お一人に下さった恵みの賜物なのです。

そして、自分自身の体も時間も、神に喜ばれる用い方をします。家庭でも、家事の隅々に至るまで、神を畏れる信仰を持ってするならば、主婦の働きが変わって来ますし、家庭が変わって来ます。学生の学びも、神様が与えてくださった勉強の貴重な時間です。神を畏れることから、私たちの心も体も、日常生活も教会の奉仕も、すべてが整えられてゆくのではないでしょうか。どんな小さなことでも、神様が与えてくださった賜物なのですから、感謝をもって、ていねいに真剣に取り組んで行くことができるのではないかと思います。

「愛する者たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント7:1)
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:21~22、25)
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手立てとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(Ⅰペテロ2:16~17)
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて行った。」(使徒言行録9:31)

このように、神を畏れることは、自分自身を清くし、夫婦の間にも働きます。そして社会生活においても大事です。そして何よりも教会の基礎が固まって、発展し、信者の数が増えてゆくことにもつながって行きます。新しい2014年、まず、私たちは神の御前に出て、主を畏れることを第一として歩んで行きましょう。                        (岡田 久)

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