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神を信じなさい (マルコ11:20~25)

メッセージ

2015年2月15日富里キリスト教会

「神を信じなさい」
(マルコ11:20~25)

1.呪われたいちじくの木

「翌日、一行がベタニヤを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から実を食べる物がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」(マルコ11:12~14)

これは一体何を意味しているのかと言いますと、「いちじく」というのは、イスラエルのことを言います。しかも葉っぱが勢いよく茂っていたいちじくです。これはイスラエルの神殿を意味しています。豪華絢爛たるエルサレムの神殿は、世界中から巡礼者を集めて賑わっていました。みんな聖地エルサレムを目指し、神殿の豪華な姿を見てお参りに来ていたのです。目に見える建物や豪華さが、まるで信仰の聖地のように誤解されていました。

しかも、肝心の実がついていないのです。いくら探しても実がついていなかったのです。つまり、大きな立派な神殿のどこを探しても、神への従順、信仰の祈りを献げる人は一人も見つからなかったということです。逆に商売人のマーケットとなって、商いが盛んに行われていました。神殿に仕える祭司たちでさえ、お金と経済の亡者に成り下がっていたのです。イエス様の目から見たら、まるでそれは強盗の巣とも言ってもいいほどでした。彼らは、神に仕えていると言いながら、その神御自身であるイエス・キリストが、神殿にお入りになったにも関わらず、誰も気が付かないほど無関心だったのです。

いちじくの葉というのは、皆さんもご存じの通り、エデンの園でアダムとエバが、裸であることを知って、いちじくの葉っぱを蒔いて腰を隠した時にも出て来ました。(創世記3:7)つまり、私たちの欠点や恥を隠す時に使うものです。また、あのエリコの町でイエス様を待ち受けた取税人ザアカイも、いちじくの木に登って、自分の真の姿を隠しました。(ルカ19:4)本当の自分、罪と恥の中にある自分を覆い隠す時に使うものです。そして目に見える別のもので、自分を良く見せようとする時に使うのがいちじくの葉です。

ある人を学歴や生まれで自分を良く見せようとしたりします。ある人は、自分の信仰経験を誇ったり、教会を誇ったり、牧師を誇ったりします。これもいちじくの葉っぱです。私の罪や恥や失敗や汚れのためにイエス様が来て下さったということを見落としているクリスチャン、そういう教会がこのいちじくの木のような教会であり、クリスチャンだったのです。

案の定、翌日同じ道を通りかかると、呪われたいちじくの木が根元からすっかり枯れていました。「根元から」という言葉に、厳しい神様の裁きを見る思いです。「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、イエスは思い出してイエスに言った。『先生ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。』」(11:20~21)

2.今は神を信じる時

この枯れたいちじくの木を目の前にして、そこでイエス様は弟子たちにこう言いました。「そこで、イエスは言われた。『神を信じなさい。はっきり言っておく。誰でもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦して下さる。』」(11:22~25)

クリスチャンにとって「神を信じなさい」というのは、当たり前のことですが、その中身が三つ述べられています。一つは信仰です。「山に向かって海に飛び込めというならば、必ずそのとおりになる」と信じる信仰です。そして二番目は、祈りです。しかも「祈り求めたものは、既にすべて手に入った、実現した」と信じる祈りです。そして三番目は、「恨みを持っている人があれば、その人をも赦す」祈りです。この三つのことが「神を信じる」という信仰の内容です。

この「信仰」「祈り」「赦し」という三つの要素は、三位一体のように、どれも切り離すことができません。神を信じる者は、人を赦すものであり、祈る者でもあります。祈る人は信仰を持って祈り、恨みを持っている人をも赦す人です。そして人を赦す人こそ、信仰のある人であり、祈りの人でもあるのです。逆に、このどれを欠いても、真に神を信じる者とは言えないというのです。

A 疑わずに信じる

まず、最初に信仰についてみてみましょう。「はっきり言っておく」ということは確かな事であり、大事なことだということです。山に向かって「立ち上がって海にこびこめ」と言い、少しも疑わずに自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになるというのです。そういう神を疑わない信仰を持つことです。

何年か前に旧社会党のクリスチャン代議士の土井たか子さんが、自民党政権が倒れる時に、「山が動いた」と言いました。戦後初めて、自民党政権が変わった時のことです。これがあり得ないことが起こったという代名詞に使われました。その時は他にも、東西ドイツの統一という歴史的な出来事もありました。また旧ソ連が崩壊し、ロシアが民主的な政治体制になりました。人間の頭では起こりそうもないことが起こる時に、「山が動いた」という言葉を使います。

今私たちの教会は30名礼拝という目標を掲げています。一番少なかったときには10名ちょっとでした。もしこれが信仰を持って、30名に到達し、50名へと奇跡的な成長を遂げて行ったとしても、そこに祈りと愛がなければ、あっという間にもとの10数名になってしまいます。ですから、信仰というのは、普段からの絶えざる祈りと愛からくる赦し合いの結果として、30名礼拝というものが実現するのではないでしょうか。

山が動き出して海の中に入るということです。こんなことあり得ません。でも、信仰の目で見るならば、不可能なことはないのです。不可能を可能ならしめるのが信仰の力ではないでしょうか。主イエスは、「少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、そのとおりになる。」と言っています。また「見ないで信じる者は幸いである。」(ヨハネ20:29)と言われました。パウロも「信仰とは、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」(ローマ10:17)と言っています。「信仰とは見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)ことであると言っています。

B 信仰による祈り

そう言われても、なかなか信じることのできない、信仰の弱い私たちです。よく「わたしは信仰がない。信仰がない。」と言われるクリスチャンがいますが、そういう人ほど祈らなければなりません。なぜ信仰がないのか、その答えは簡単明瞭です。祈っていないからです。なぜ信仰がないのか、聖書を読んでいないからです。祈って、聖書を読んでいる人で、信仰がありませんという人を私は見たことがありません。

ですから信仰のない人は、一生懸命聖書を読み、真剣に祈るべきです。それをしないで信仰がないと言っている人は、プールに行って泳がないで「私は泳げません。泳げません。」と言っている人のようです。水に入らないで、どうして泳げるようになりますか。祈らないでどうして信じることができるようになりますか。聖書を読まないでどうして信じることができるようになりますか。今、教会を離れている人、何年も休んで他行会員になっている人は皆そうです。

水に入って泳いでいないのです。プールのそばを歩きながら、水に入らないで「わたしは泳げない。泳げない。」と言っているにすぎません。飛び込んでください。祈りの輪に、聖書研究の輪に。それが教会学校であり、スモールグループです。礼拝です。祈祷会です。祈祷会やスモールグループが一番いい場所です。聖書を熱心に学び、心を合わせて共に祈り合いますから。二、三年でいいですから、それに出席し参加したうえで、「わたしには信仰がない。」と言ったら、その人は正真正銘の「信仰のない人、只の人」です。

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」と主はおっしゃいました。大事な言葉が二つあります。「すべて」と「既に」です。すべてと言いますのは英語では、オールということです。何でも、どんなことでもかなえられたということです。北朝鮮との国交回復も、南北朝鮮の統一も、そして家族の救いも、明日のテストの成績も、どんなことでもです。ですから、是非ご主人の救いのために祈ってください。「うちの主人はだめです。」と言わずに。そこで皆さんの信仰が試されているのです。「すべて、既に」の祈りです。

C 愛の赦し

最後に、神を信じるということの中に、相手を赦すということが含まれています。「また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(11:25)つまり、神様を信じることは、祈ることであり、また同時に人をも赦すことでもあるというのです。信じることと赦すことは同じことです。ですから、もしまだ誰かに対して恨みがあったり、赦せなかったりしているならば、その人まだ神様から赦されていないということになります。

もしわたしたちが、誰かを赦さなかったり、今も恨みに思っているようなことがあれば、それは苦い根となって、神様とわたしたちのパイプを詰まらせていることになります。神様から愛と赦しをいただいて、目に見える兄弟姉妹を愛さない、赦さないとしたら、天の神様は私たちの過ちをも赦してくださいません。人と人とのヨコのパイプが詰まっているということは、天の神様とのタテのパイプも詰まっているということです。もし、恨みに思っている人を赦すことができたならば、天のお父様もわたしたちの過ちを赦してくださると言っています。

とはいえ、人を赦すことのできない私たちです。ですからこそ、祈りなさいと主は言っているのではないでしょうか。赦すことができないからこそ、祈るのです。人を赦せない私さえも、赦してくださっているお方がいるのです。主を信じるのです。そうすることによって、少しずつイエス様の十字架の愛と赦しが、見えてくるのではないでしょうか。人を愛し、人を赦すことができるように祈ることも信仰の働きです。絶対、自分はあの人だけは赦せない。あんな人が天国へ行くなら、わたしは地獄でもいいと考えるほど、私たちの心はかたくなです。

でも、そういうできないこと、全く不可能なことをも可能にして下さるのが、神様であり、それを信じるのが私たちの信仰ではないでしょうか。実際の山を動かすことよりも、人間の心を動かすことの方が難しいと言われます。それだけ私たちの心はかたくなで、頑固で、罪に満ちています。でも神は私たちの心をも砕いて下さり、赦す柔らかな心を与えてくださることのできる方です。本人と顔を合わせることができなくても、祈りの中でその人のことを祈ることができたら、既にそれはかなえられているのです。恨みの感情から祝福を祈る祈りへと変わったらすばらしいです。聖霊様が、信仰を強め、呻きつつも正しい御心に適った祈りへと導いて下さいます。

この「信仰」と「祈り」と「赦し」が「神を信じること」です。自分はクリスチャンとして何かをしている、こういうことをしたとか、そういう結果や成果ではありません。それはエルサレムの豪華な神殿です。主は心を見られます。まず、主の前に出て自分の罪を悔い改めることです。そして、何か恨みのある人を赦すことです。この信仰の実をイエス様は探し求めておられるのです。主の晩餐にあずかるとき、また私たちが一人で部屋に入って祈るとき、私たちの心の葉っぱをかき分けて、この信仰の実がついているかどうかご覧になられます。その実を食べたいと願っておられるのです。

これが、イエス様が食べたいと求めている信仰の実であり、悔い改めの実です。これがイエス様の時なのです。それは悔い改めの時です。このマルコの福音書の一番、最初にイエス様がおっしゃった言葉です。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)見せかけの信仰ではなく、真実の「信仰と祈りと愛の赦し」に生きる者となりましょう。

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