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神の顔 ・ペヌエル (創世記32:23~33)

メッセージ

2011年7月31日冨里キリスト教会
「神の顔(ペヌエル)」
(創世記32:23~33)
1. ヤコブの恐れ

「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。ヤコブは祈った。・・・『どうか、兄エサウの手から救ってください。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。』」(32:8~9,12)

ヤコブは兄エサウの襲撃を恐れ、部隊を二組に分けて、片方が襲撃されても、一方が逃げることができるようにしました。さらにその夜、ヤコブは自分の財産を三つに分けて、順番に先に行かせ、エサウが来たら、この財産をヤコブが贈り物としてささげるつもりです、というように命じて先に行かせました。それは、「贈り物を先に行かせて兄をなだめ、そのあとで顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったからです。」(32:21)

神様に、助けを求めて祈っていながら、自分でいろんな策を講じて、なんとか兄の怒りを鎮めて、無事に故郷に入ることができるようにしようとしました。神様の力半分、自分の力半分の如何にもヤコブらしいやり方です。完全に神様を信頼して委ね切れない、彼の中途半端な信仰が見え隠れしています。それでもヤコブは、ヤボクの渡しの一番浅くて狭い川岸の前で躊躇しております。

兄と会う前に自分の信仰が試されたのです。兄弟仲直りしなければならないのは分かっている。しかし、自分のほうに不正がある。いくら母の入れ知恵だとは言え、兄を二度までも欺いて、神の祝福を奪ってしまったという後ろめたさ、罪の意識があります。それを兄は赦してくれるだろうか。門前払いするかもしれない、あるいは積年の恨みを晴らすために、ヤコブの一族郎党を手にかけてしまうかもしれない。そういう恐れや不安を拭い去ることはできませんでした。

ヤコブは、この解消できない恐れや不安を前にして、一人、川岸に残り、神との真剣な祈りの必要性を感じたのかもしれません。私たちも、長い人生の中で、自分と神様との関係において一つのことを決断するような場面に追い込まれることがあります。この神との一対一の格闘こそ、長い人生の中で誰でも経験させられることではないでしょうか。

3.神との格闘

25節から読んでみましょう。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまで離しません。』『お前の名は何というのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ。』『どうか、あなたのお名前を教えてください。』とヤコブが尋ねると、『どうして、わたしの名を訪ねるのか』と言ってヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている。』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(32:25~31)

ヤコブも、できれば兄と会いたくはないという思いがどこかにあったと思います。彼は、どうしてもこの狭くて浅い渡し場を、超えることができなかったのです。川の中に足を入れて、他のみんなのように喜んで川を渡りきる自信がありませんでした。兄の顔を思い浮かべると、思わず伸ばした足を引っ込めてしまいたいという衝動を抑えることはできませんでした。

このまま、また来た道を帰ってしまおうか・・。あるいは兄に黙って、この近くの土地に住んでしまおうか・・と思ったかもしれません。何もいやな兄と会わなくてもいいじゃないか、知らん顔をしていれば、やがて、時間が解決してくれるだろうとも思いました。しかし、それは信仰的な解決ではありませんでした。神様は、川を前にして迷っているヤコブの決心を試すために、あえて、神様のほうからヤコブに戦いを求めてきたのです。それがこの、ヤボクの渡しでの神との格闘でした。祈りにおいて、神と向き合い、神様の御心はどこにあるのか、自分はどうしたらいいのか、いやどうすべきか、その答えをまず彼は神からいただかなければなりません。

そして、この神との徹底的な対話である祈りにおいて、ヤコブはついに、自分の力、自我、というものを神様から打ち砕いてもらうことになります。それが、「腿の関節が外れた」ということです。この腿の関節は、いわば、体の中心部です。股関節が外れたら、何もできません。歩くことも不自由です。32節に「ヤコブは腿を痛めて、足を引きずっていた」とあります。こんな男が勝負に勝てるはずがありません。

私は、神様はヤコブに負けたふりをしたのではないかと思います。週報に、「神の八百長相撲」と書きましたが、神様が、私たちのためにいわば八百長相撲をしてくれたのではないかと思いました。しかし、この時、ヤコブは神から五つの祝福をいただきました。

第一は、「神との一対一の格闘である」ということです。ある人は病床で、ある人は事業の失敗で、ある人は夫婦や家族の問題に直面して、神様と一対一で向き合い、祈りながら苦しい眠れない夜を過ごすことがあると思います。でも、そのような時こそ、神がそばにおられ、神と一対一の取っ組み合いをしている時なのです。「患難をも喜ぶ信仰です。」(ローマ5:3)(神と顔と顔を合わせる)

第二は、「神から仕掛けられた相撲です。」これは、ヤコブと兄との兄弟同士のけんかです。会うか会うまいか迷っているヤコブに対して、神の方から先に勝負を申し込んできました。つまり、神自らが、この問題に介入されたということです。そして、解決へと導こうとしたということです。「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」とあります。主体は神なのです。(神の恵みの介入)

第三に、「徹底的な戦いでした。」勝負がつくまで、夜明けまで神はヤコブと取り組みました。それだけヤコブの自我が強かったということでしょうか。なかなか降参しない、どこまでも人の足を引っ張って引きずりおろそうとする自我の強い人間でした。ヤコブが完全に神に降参し、自分を明け渡すまで長い時間がかかりました。しかし、神様はヤコブが降参をするまで、忍耐を持って対応してくださいました。(神の忍耐)

第四に、「生き方が変えられた戦いとなりました。」ヤコブの長い人生の中で、このヤボクの渡しの出来事を通して、彼の生き方は大きく変化しました。「ヤコブ」(=人のかかとを引っ張る)から「イスラエル」(=神が治める、神が支配する)という名前に変えられました。神の手がヤコブの「腿の関節」を打って、一瞬にして彼の関節が外れました。腿の関節は力の中心部を意味します。つまり、霊的な意味では「自我」を意味します。ヤコブは神の手によってはじめて、自分の自我を打ち砕いていただいたのです。この時から、彼の生き方は大きく変わりました。(神の国の支配)

第五は、「永遠の祝福をもたらす格闘であった。」神に自分の自我を砕いていただき、その罪を赦してもらったものの幸いと祝福は永遠に続きます。(永遠の祝福)

誰でも、長い人生の中で、神様と一対一で向き合わなければならない時が与えられます。いろんな試練や苦難を通して、自分は神を信じているのか、神の祝福を本当に求めているのか、そのことと向き合う時が必ずやってまいります。
そういう場面を通させられるのです。そのような、神との格闘を通して、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして岡田の神になってゆくのではないかと思います。

4.陽はまた昇る

ヤコブは、神と格闘した場所を「ペヌエル(=神の顔)」と名付けて、川をようやく渡ることができました。神と顔と顔を合わせたものは、死ななければならないと聖書にありますが、彼はなお生きて、川を渡り切ったのでした。死んだのは、古いヤコブ、自分中心のヤコブでした。新しくされたヤコブは、まるでバプテスマを受けて水から上がったもののように、新しい心で兄の前に進み出たのです。新生したヤコブ、いやイスラエルです。浸礼のバプテスマを受けて、新しくされたヤコブ、イスラエルです。

32節に「ヤコブがペヌエルを過ぎた時、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」とあります。私はこの1節が、まるで名画のように頭に浮かんでくるのです。川岸に一人の男が立って、その向こうの山から、朝の太陽が東雲の雲を赤く染めて昇ってくる。暗い夜が過ぎてゆきます。死んだも同然の男が、神の憐みによって生かされて、また新しい人生へと立ち上がってゆく姿です。

しかし、彼はその激しい戦いの中で、足にけがをして、びっこをひいて杖にすがって、川岸に立っています。もはや、自分の力では生きてゆくことができない、神の力によってしか進むことのできない人の姿です。これこそ新しく生まれ変わった真の人間の姿ではないでしょうか。(私はいつもこの場面が、まるで名画のように頭に浮かんできます。いつか、この場面を描いてみたいと願っています。)

5.敵の顔に神の顔を見る

最後になりますが、話はもう少し続きます。33章1節から読んでみます。「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」(33:1~4)

さあ、いよいよ兄弟の対面です。エサウは、400人の手勢を引き連れてやってきました。この400人という数からして、私はおそらく積年の恨みを晴らすために、親族仲間を引き連れて復讐にやってきたのではないかと思います。しかし、ヤコブのあの徹夜の祈りによって、神がヤコブの祈りを聞いてくださいました。復讐心に燃える兄の心が、途中で変えられました。恐る恐る近づいたヤコブに、エサウは走って来て、感極まって弟ヤコブを抱きかかえたのです。そして、兄弟同士泣きながら抱きしめあい、接吻をかわしました。奇跡が起こりました。神が戦ったのです。神が勝利したのです。兄弟同士の憎しみを、我が我がという自分中心の心が、完全に打ち砕かれて赦しと和解が起こりました。

そしてヤコブはこう言いました。10節ですが、「いいえ、もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。」と言っています。自分に良からぬ思い、さらには反感、敵がい心を持っている者に対しても、神の前に自分の罪を悔い改め、祈って出てゆくならば、神様があらかじめ働いてくださり、神が戦い、神が勝利してくださるのです。これが「イスラエル」という名の意味するところです。兄の顔の中に、神の顔が見えるようだとヤコブは言いました。それはある意味では、自分の心を相手の顔に映していたかもしれません。神が自分を支配してくださったように、敵対する相手にも神が働き、戦いに勝利してくださるということではないでしょうか。

人生のいろんな試練や苦難を通して、ヤコブは自分の力、自我というものを神様に打ち砕いていただきました。自分ではなかなか、自我を打ち砕くことも、自分というものに死に切ることもできません。それをなしてくださるのは、神様です。私たちも、真剣に神と格闘をするようなつもりで祈ってゆきましょう。祈りの中で、聖霊の働きによって、主の御手が私たちの自我である腿の関節に触れる時、私たちは新しく造りかえられて行きます。  (岡田 久)

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