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神の霊の降臨 (ヨエル3:1~5)

メッセージ

2012年11月25日富里キリスト教会
「神の霊の降臨」
(ヨエル書3:1~5)
1.女性による宣教の時代

ペテロが、ペンテコステの時に引用した旧約聖書の預言の言葉がこのヨエル書3章です。もう一度、ヨエル3:1~5を読んでみましょう。
「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地にしるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」

今は、このヨエルの預言が成就した時代です。聖霊の働かれる時代です。福音宣教の時代です。すべてのことが聖霊の働きによって行われる時なのです。そこには、旧約時代のように、宣教は男の仕事だ、女子供は黙って奥に引っ込んでいなさいという古い時代ではないのです。富里で奉仕された美代子スカゲンさんも女性です。今月のバプテスト誌を見ましたら、一人の女性宣教師の方の訃報が載っておりました。名前は、エヴリン・オーエン宣教師です。82歳で主のもとに帰られたという記事が出ておりました。わたしはどういう訳か、この宣教師の名前だけは記憶に残っていました。私が高校生の時に、青森教会の特伝で信仰決心した時の女性宣教師です。

2.地の果てとはどこか

このように社会の中で取るに足らない、数にも入らない小さな者が、神の器として尊く用いられる日が来る。それがこのペンテコステ、神の霊の降臨日以来、今日にまで続いているのです。今がその神の霊の働かれる時代であり、聖霊による伝道の時代なのです。そして用いられるのは、伝道の主役は、女性であり、年若い息子や娘たちであり、経験のない弱い小さな器のものが用いられる時代なのです。

「いやあ~、でも私たちは、シンガポールまではいけません。インドやタイまで行って伝道はできません。せめて日本に居てお祈りと捧げ物だけでも・・・」と遠慮してしまうことがあるかもしれません。でも果たしてそうでしょうか。イエス様はこうおっしゃいました。「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と。この地の果てとはどこでしょうか。インドでしょうか、アフリカの奥地でしょうか。

地の果てと申しますのは、決して距離的なことだけではなく、私たちが苦手だと思っている人のことではないかとある注解書に書いておりました。ちょっと苦手な人、うまが合わない人、好きではない人、そういう人のところへ一歩足を踏み出すことが、わたしにとっての地の果てですとおっしゃっておりました。
皆さんも知っている預言者のヨナにとって地の果てとは、自分が憎んでいたアッシリヤ人、ニネベの人々でした。彼は、そこに行って伝道するのが嫌で、自分から地の果てまで逃げて行きました。ニネベよりもタルシシの方が遠いです。

前に学んだネヘミヤ書の3:28のところで、人々はエルサレムの城壁の修理をしました。その時に人々がしたことは、まず自分の家の前の城壁を修復強化したとあります。(ネヘミヤ3:28~29)まず自分の家のそばの破れ目から手をかけたのです。ペテロ達もそうでした。聖霊が降った時に、まずエルサレムの町で大胆に証ししました。世界宣教はまず、自分の家の前から、道路の向かい側の家から、自分の団地から、自分のマンションから自分の町から始まります。

ヨエル書の有名な言葉に、「弱い者たちも、わたしは勇士だと言え。」(4:10)という言葉があります。聖霊が注がれる時、弱い者が勇士となり、貧しい者が力あるものになるのです。自分の家族、自分の団地、自分のマンション、自分の町の人々の救いのために祈って出かけて行きましょう。主が必ず、この人のところに行きなさいという指示を与えて下さいます。

3.いなごと聖霊

ヨエルは、迫りくる最後の審判を、このパレスチナ地方に時々襲ってくるいなごの大群にたとえて警告しました。1:4でこう述べています。「かみ食らういなごの残したものを、移住するいなごが食らい、移住するいなごの残したものを、若いいなごが食らい、若いいなごの残したものを、食い荒らすいなごが食らった。酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。」(ヨエル1:4~5)

これは神の裁きが、突然襲ってきて、次々と作物を食い荒らして行く様子をのべています。三種類の災いが、次々と襲ってきて、最終的には畑や山にも何も食べ物が残らないほどに、徹底的に神の裁きが降ることを預言しています。だから、罪を悔い改めて、断食して嘆きつつ主に立ち帰るようにと警告しています。そして、嘆きの表現として自分の来ている衣を裂くのではなく、自分の心を引き裂くことを求めています。これは、表面的な悔い改めではなく、真実の心からの悔い改めを求めています。

この「主の大いなる恐るべき日」と申しますのは、最後の審判の時のことです。その時には、あのイナゴの大群のように、神の裁きが全地を覆い、生ける者すべてを呑み尽くすような恐ろしいことが起こると預言しています。その最後の審判の前には、血と火と煙の柱が、天と地にしるしとして起こると言っています。血と言いますのは、イエス・キリストの十字架で流された贖いの血潮、火は聖霊による罪の清め、煙は神の御臨在を示すもので、柱は天と地をつなぐタテの線を表しているのではないだろうかとも考えました。

主の最後の日が来る前に、イエス・キリストの十字架の贖いの血によって人々の罪が赦され、聖霊様によって罪が清められて、神様と共に歩む人生、そしてやがては柱を通って天に帰って行く時が来る、そういう父、来、御霊様の三位一体の神様の救いの出来事が起こるということを示しているのではないかと思いました。そういうしるしが、この地上に現れるというのです。

そして主の大いなる恐るべき日がやって来る前に、「主の御名を呼び、イエス・キリストを信じた人は、皆救われるのです。」シオンの山、エルサレムが、その逃れの場所であると言っておりますが、それは、イエス・キリストが十字架にかかった場所のことを指しています。イエスの十字架のもとにこそ、逃れの場があり、そこに救われるものが皆集められるのです。(ヨエル3:5)

先週、私たちは杉本兄のバプテスマ式を行いました。人生のいろんな葛藤と苦しみの中で、最後の最後に、生きておられる神様に自分の心を明け渡して、イエス様を心の中心に受け入れた決心を証していただきました。一番最初に、シンガポールで剣道の加藤先生を通してキリスト教に出会ってから、約15年が経っております。また、先月の岩渕まことさんのコンサートでも伊藤姉が、イエス様を自分の救い主として個人的に受け入れる決心をしました。伊藤姉は、あの日以来、心が少し楽になることができたと話しておられます。今、バプテスマに向けての準備をしております。

今は、ヨエルが預言した聖霊の働かれる時です。今は救いの時です。また恵みの時です。誰でも自分の心を裂いて、罪を悔い改めて、主に立ち返るならば、この世から救われ、永遠の命をいただくことができるのです。そして、今この教会に注がれている聖霊様は、たとえ女性でも、少年少女でも、弱い者でも、自分のことを力のない者だと言ってはいけない。自分は神の勇士であり、福音の宣教者であり、主にあって強い者だと叫びなさいと言っています。(ヨエル4:10)これはすべて聖霊様のなせる業です。自分のことを勇士だと言って全世界に出て行って、福音を宣べ伝えましょう。地の果てまで、主の復活の証人として、一歩足を踏み出そうではありませんか。今週は祈りと証しと献身の思いを持って、主を宣べ伝えてまいりましょう。(岡田 久)

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