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神の霊による啓示 (Ⅰコリント2:10~16)

メッセージ

2013年2月24日富里キリスト教会
「神の霊による啓示」
(コリント信徒への第一の手紙2:10~16)

1.神の霊による啓示

「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、
いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神からの恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉を語るのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」(Ⅰコリント2:10~13)

神を知るには、神の霊によらなければ誰も解りません。人間もそうだと言っています。人間は体と心と霊の三層からなっていると聖書に記されています。人間の心の一番奥には、その人の霊があります。そして、その人の本音はその人自身の霊でなければ解りません。よく、そんなつもりではなかったとか、誤解されたとかと言って人間関係で行き違いを起こすことがあります。その人の思っていること、本当のことを理解してあげられなかったりして誤解が生じます。人の心の中にある霊以外に、その人を真に理解することはできないかもしれません。

それと同じように、神様の本音は、神様の霊以外に知ることはできないというのです。ここが、いくら聖書を読んでも解らないと言うところです。神様の言葉であり、神様の本音が書いてある聖書ですが、誰でも読むことはできます。週刊誌か新聞を読むようには読めます。でも。そこに言われている神様の本音、本心はどうして知ることができるでしょうか。それは、神様の霊によらなければ知ることも、理解することもできないというのです。ですから、「霊によって明らかに示して下さった」(2:10)とあります。

そして人間は、この霊によって初めて神様のことを知ることができるのです。しかも、10節には「神の深みさえも究めます」とあります。神の深み、これは神様の深い御心、人間の考えでは到底思いもつかない神の奥義とでも言いましょうか、井戸のように深~い神様の思いということです。私たちはその神様の深みさえも究める神の霊を受けたのです。ですから、こうして神の霊によって神の思いを知り神の御心を理解し、神の御言葉に教えられ、神の御言葉を神の霊を持って解釈し説明しているのです。

2.聖霊を拒んではいけない

パウロは、この教会の争いの何が原因であるかということに気がついていました。それは彼らが、まだ、霊的に未熟であり、信仰が成長していない所から来る子供同士の争いのように見えたのです。つまり聖霊の働きに教会の働きを、また自分自身を委ねていない所から来る未熟さから来ると見破っていました。聖書は読んではいるが、まだ字面しか理解できない。聖書の深い意味、神様の深みまで達していなかったのです。そして、すぐ誰か他の信徒と比較競争してしまうのです。教会の中では争いが絶えません。

聖書は読んではいるが、身につかないのです。御言葉が自分自身と生活に根付いてこないのです。先週話しましたように、まるでユダヤ人のように、自分の目に見える外面的なことを誇りにかけるのです。ユダヤ人は、自分たちには割礼があると誇っていましたが、コリントのクリスチャンは、自分はパウロのバプテスマを受けた、いや自分はアポロ先生のバプテスマを受けた、いや自分はペテロ先生のバプテスマを受けたと言い合っていたのです。心に割礼を受けていないユダヤ人のように、心にバプテスマを受けていない肉のクリスチャンでした。

そして、それはどこから来ているかと言いますと、一重に聖霊についての認識が弱かったようです。目に見えること、表面的なことはわかりますが、霊的なこと、目に見えないことは良く解りません。聖霊とか、天使とか、復活というものを信じない、そういうものを軽視あるいは無視しているクリスチャンです。

これは日本の教会では、良く見受けられることです。聖霊について教会で語るのはご法度であれば、聖霊様はその教会に働くでしょうか。もし聖霊を無視し、聖霊の働きを禁じるのであれば、その教会はいつまでも聖書の奥義、神の深みを理解することができません。そして、聖書をまるでユダヤ人が読むように、律法的に読んでしまいます。その結果、人を裁く教会、あれをしちゃいけない、これをしちゃいけないの律法主義的な牢獄のような教会になってしまいます。

3.霊の人を目指して

では一体どうしたら、そのような霊的に欠乏した状態から、自分自身もまた教会も回復できるのでしょうか。四つの点が、大事ではないかと思います。

①聖霊についての正しい認識

聖霊様は神様です。中には聖霊に様をつけるのはどうかと、抵抗を感じる方もおられるかもしれません。聖霊様は、単なるエネルギーや物質ではありません。人格を持った神様です。呼べば応えられるお方です。無視すれば悲しみ、わたしたちに働きたくても働けません。イエス様は、「聖霊を求めなさい。」「聖霊を悲しませてはいけない。」とおっしゃいました。

聖霊様が喜ばれるように、祈る時にも御言葉を語る時にも常に、聖霊様の御臨在と導きを求めて祈る必要があります。聖霊という言葉を祈りの口に載せましょう。「聖霊様が働いて下さい。聖霊様、わたしの心に満ちてください。聖霊様が共にいてください。」と。スモールグループでも、集会の前の準備祈祷として、聖霊様がその集会の中に御臨在して下さり、参加者一人一人の心に働きて下さるようにと祈ります。

聖霊の働きなしには、何もできません。13節に「そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」ですから、常に意識して、聖霊様の御臨在と働きを口に出して祈りながら集まりましょう、

②御言葉に留まり続ける

次に、聖書が解らないからと言って、聖書を手放してしまわないようにしましょう。聖書を霊によって判断し、理解し、説明できるようになるまでには時間がかかります。他の人のように、理解が進まず、焦ったり、恥ずかしく思ったりすることがあります。それでも、御言葉に留まり続けることです。できれば聖書そのものを読んで、そこから自分の心に響いた言葉をくみ取るようにしたいものです。自分のデボーションの本を作るくらいのつもりで、読んでみてはいかがでしょうか。

若い時には、「五つのパンと二匹の魚」の箇所を説教するのが苦しかったです。どうして、たった五つのパンが五千人にも行き渡るのか、不思議でしょうがありませんでした。ですから説教していても、口がパクパク開いて自分で何を言っているのか解らない支離滅裂な説教になってしまっていました。それでも、教会員の方々が一生懸命、頭で相槌をしながら聞いていてくださるのです。本当に牧師に対する応援団、サポーターのようなものです。

私も話しながら、皆さんが何を言わんとしているのがよく解ります。「先生、そうではない。そこはこうではないでしょうか。もう少しだ、頑張れ!」そういう眼差しで見ているのが痛いほどわかるのです。最初の頃はそうです。ですから、あきらめないで、30代の時の聖書解釈、50代の時の理解、70代の時の理解とだんだんと変わって来ますし、経験を積んで霊の語ることが分かって来ます。諦めないで、途中で聖書を読むことを止めないで欲しいと思います。特に、一緒に集まって聖書を読み、語り合うことです。その語り合いの中に、聖霊様が御臨在して下さり、わたしたちの霊的な眼を開いて、今まで見えなかったことが見えるようになってきます。成人科の集まり、スモールグループの集まりを、主の再臨の時まで止めないで続けることです。

③祈り続けること

聖霊様の助けをいただくには、やはり祈ることが必要です。祈り自体が、やはり聖霊様の力と導きなしにはできないことです。祈れば祈るほど、聖霊様との交わりが強くなります。ある時、説教を終えた牧師が、いつものように玄関で信徒の方々と握手を交わしながら、見送っていました。そうしましたら、一人の御婦人が、「○○先生、今日の説教はとても聖霊様に満たされた説教でした。
先生は先週、かなり祈りに専念されましたね」と。その時、牧師はびっくりしました。確かに先週は祈りに祈って行かなければ説教できないことがあって、その姉妹の言う通りに、祈りに専念した週だったのです。

その姉妹のように、普段から祈っている人は、祈って準備した説教かどうかも全て判断することができるのだなあと思ったそうです。15節に「霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されません。」とありますように、祈りを通して聖霊の助けをいただき、すべての人々の心を見分けることができるようになります。

④兄弟姉妹の交わりを続けること

最後に、聖霊に満たされるためには、やはり教会の礼拝や集会に参加し続けることです。そこでは、共に集まって、賛美を捧げ、語り合ったり祈ったりする時、それはすべて霊の会話であり、わたしたちの内なる聖霊様の交わりなのです。これが教会の霊の交わりであり、この世の仲間の集まりとは全く異なるものです。成人科でも祈祷会でもスモールグループでも、そこでの会話はすべて霊による会話です。

そこでメッセージを聞き、賛美を捧げ、分団に分かれて他の教会の信徒とも分かち合いをし、語り合うことによって、皆が聖霊に満たされます。なぜかと言いますと、語り合うことによって、そこに聖霊様が注がれ、心がすすがれて清められるからです。とくに、聖書の御言葉について語り合う時、そこに聖霊様が御臨在され、メンバーの心を開き、罪を明らかにし悔い改めが起こります。

エフェソ5:18~19を読んでみましょう。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とあります。私たちが集まって、語り合い、賛美を捧げる時に、わたしたちは聖霊に満たされます。心が喜びと感謝で満たされます。こうして少しずつ霊的な成長を遂げて行くのです。私は、そういう集まりの中で牧師になろうと決心しました。それらはすべて、聖霊様の働きです。

ですから、この集会に集まることを止めないでいただきたいのです。主日礼拝でも教会学校でも、スモールグループでも、祈祷会でも、各会でも私たちが共に集まる時、そこに聖霊様が働いて、わたしたちを御言葉で養い喜びに満たして下さいます。それがキリストのからだである教会の姿であり、そのことを通して私たちも霊的に成長し、一つとなって行くことができるのではないかと思います。主の来られる時まで、集会を止めないで集まり続けましょう。祈り続けましょう。御言葉に留まり、読み続けましょう。      (岡田 久)

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