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神の霊が注がれる (使徒言行録2:14~21)

メッセージ

2014年6月8日富里キリスト教会

「神の霊が注がれる」
(使徒言行録2:14~21)

1.神が動いた時

先週までNHKの教育テレビで「100分de名著」という番組をやっていまして、先週まで4回にわたって「旧約聖書」が名著として取り上げられていました。ここにテキストがありますが、買いに行きましたら売り切れということで取り寄せてもらいました。大分人気を呼んでいるみたいでしたが、テキストを読んでみるとけっこう専門的なことが書かれてあります。そして、このテキストの表紙に「NHKテレビテキスト・100分de名著・旧約聖書」著者千葉大学文学部教授、加藤隆とありました。

更にこの表紙にこういう言葉が出ていました。「神が動くのを待つ、そこに希望がある。」と。神様が動かなければ、人間は何をしても無駄であり、まず神様に動いてもらうことが第一で、その時を待つことが人間にとっての希望だというのです。「なるほどなあ。」と感心しました。

では一体、神様が動いたのはどんな時だったのだろうか、と思いました。まず、神様が第一に動いた一番大きな出来事は、子なる神であるキリストが、天から降って肉体を取ってこの世に生まれたことです。神が天から降って来られたあのクリスマスの出来事が、大きく神様が動いた時です。そして、この子なる神は、最後に十字架に架かけられ死なれ、三日目に復活されて、40日目に天に帰って行かれました。神様の愛と恵みの贖いの業を成し遂げられたのです。

そして次に神様が動いたのが、このペンテコステの日です。今度は聖霊なる神様が天から降って来られました。そして、弟子達の上に留まって力を与え、新しい言葉、宣教の言葉を授けてくださいました。これが二番目に神が動かれた時ではないでしょうか。人間が聖霊を引き寄せるのではありません。聖霊なる神様の方から突然動いて、私たちに臨まれたのです。そこで福音を宣べ伝えるという大切な神の働きが始まりました。そこから教会が誕生して行って今日に至っております。そして三番目は、御子イエス・キリストが、再び天から降って来られる再臨の時が来ると預言されています。これはまだ実現していませんが必ずやって来ます。私たちが動くのではなく、神が動くのを待つ、その待つという信仰に、今私たちは行かされています。

旧約の民、イスラエルは、この過越しの祭りや収穫の祭りといった先祖伝来の宗教行事をモーセ以来、メシアであるキリスト誕生まで千年以上も前から守り続けてきました。そしてキリスト誕生以降も、彼らはメシヤの来ることを待ち望んで今でも、同じ宗教行事を続けています。特に有名なのが、過越しの祭りとこの収穫の祭り、そして仮庵の祭りの三つが三大行事として守られています。ユダヤ人にとってはまさに、神が動かれるのを待つという信仰が求められていました。いまでも、彼らはイスラエルの嘆きの壁の前で、メシヤ=キリストの来るのを待ち望みながら祈り続けています。

旧約では、「神御自身が動かれるのを待つ」こと自体が、人間にとっての希望だというのです。この信仰は私たちも受け継いでいるような気がします。私たちクリスチャンは、すでにメシヤなるキリストが、あのナザレ人イエス、大工ヨハネの子としてこの世に来て下さったことを知っています。そして贖いの子羊として、十字架の上で全人類の罪を贖い取って下さいました。(過越しの祭りの成就)

さらに、五旬節を迎えて、聖霊がすべての人に注がれるというペンテコステの出来事も成就しました。ですから、私たちはこのイエスキリストの十字架の贖いと聖霊様の降臨によって、今は神と共に動くものとされております。神御自身が私たちの内に宿って下さり、力を与えて神の業を行うようにして下さったのです。そして今は、神と共に働いて、神の業を行いつつ、イエス・キリストが再びこの地上に立って下さる最後の審判の時、「主に大な輝かしい日」が来るのを待っているのです。神の救いの完成する時を待ち望みながら、神と共に働く、神と共に生きるのが今の私たちの時ではないでしょうか。それが、今の終わりの時、終末の時代に生きる私たちの生き方だと思います。

2.聖霊降臨はヨエルの預言の成就

「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では天に不思議な業を、下では地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼ぶ者は皆、救われる。」』」        (ヨエル書3:1~5)

これは預言者ヨエルが、400年も前から預言したことが今、成就したのだとペテロは語りました。弟子たちは酔っぱらっているように、雄弁に、大胆に語り始めたのです。その神の霊の働きの記録が、この使徒言行録であり、ある人は聖霊なる神の働きの記録だとさえ言います。聖書からは、これ以降イスラエルの神の民の歴史は消えて、弟子達の働き、とりわけ使徒パウロの宣教活動の記録が述べられています。民族や血筋によるのではなく、霊によるイスラエルの信仰の民の歴史がここから始まったのです。それは教会の働きと言ってもいいかも知れません。神が動き続けているので、私たちは、聖霊の赴くままに、聖霊の命じるままにしか動くことができないのです。聖霊が主役なのです。すべては聖霊様の導くままに、行われ進められてゆくのが宣教の働きであり、教会形成であるのです。

3.聖霊を見ようとも知ろうともしない

ところが、今は聖霊様が働かれる時代であるにもかかわらず、この世の人々は聖霊なる神様について全くの無知な時代が続いていると、生前イエス様は嘆いておりました。ヨハネ14:15(新約P.197)を見てみましょう。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ14:15~17)

イエス様は、この世の人々は、この真理の霊である聖霊様を見ようとも知ろうともしないと言っています。だから、受け入れることができないのですと言っています。いかがですか、皆さんは聖霊なる神様を見ようとしていますか、あるいは知りたいと願っているでしょうか。残念ながら、日本の教会では、そしてクリスチャンでありましても、この聖霊なる神様を見たいとも思っていないし、知りたいとも思っていないということはないでしょうか。もし、この聖霊様に無関心であるならば、その人は聖霊様を受け入れることができないといっています。

私たちを救いに導き、信仰を授けて下さったのは聖霊様です。すでに聖霊に導かれ、助けられているのです。復活されたイエス様も「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)と言って、弟子たちに息を吹きかけられました。パウロ先生も「聖霊に満たされて、賛美し、語り合いなさい。」(エフェソ5:18~19)と言いました。そして何度も「聖霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16,25)と言っておられます。

もし皆さんが、聖霊の導きによってイエス・キリストを信じたのであれば、このお方を、もっと見たい、もっと知りたい、そして助け導いて欲しいと願ってもいいのではないでしょうか。確かに私たちが聖霊様を引き寄せることは出来ませんが、祈って待つことは出来ます。主を賛美し、御言葉を語り合う時に、聖霊様は必ず私たちの心の中に来て下さり満たして下さいます。特に自分の心の中に、人を赦せない心の棘とか苦い根が残っているようならば、それを告白して、赦しますと宣言の祈りをしてみてはいかがでしょうか。聖霊様が、その祈りを助け導いて下さり、心のつかえを取り除いて神様とパイプを通り良くして下さいます。

4.息子娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る

最後に、聖霊に満たされる時にどういうことが起こるかということを、ヨエルの預言から見てみたいと思います。今は、聖霊が注がれ働かれる時代なのです。もっと祈りの中で、聖霊様を求める祈りをしていただきたいと思います。どんな人にでも注がれる時なのです。まだ一人前ではない、自分の息子や娘でさえも預言をすることができるのです。預言というのは、この説教のように神の言葉を語るということです。また、息子や娘だけではなく、その家の僕、つまり奴隷や召使であっても、神の霊は区別なく注がれるのです。身分に関係なく、神の霊は働かれます。聖書には「老人は夢を見る」とあります。これは過去の夢ではなく、未来の夢、やがて実現する神様のビジョンを夢見ることではないでしょうか。

聖霊が降る時、私たちは上から力を受けて、たとえ80歳の老人でも、夢を見て神の御言葉を宣べ伝えることができるのです。神様は、老人であっても、また若者であっても、娘であっても、聖霊を注いで神の御用のために用いられるのです。それが今の時代です。人間の力や能力や才能ではなく、神の霊の働かれる時代、神の霊が動かれる時なのです。

また先週、今度インドネシアに行かれる宣教師一家の派遣礼拝に出席してきました。高校生の御嬢さんと三人の息子さん、下はまだ幼稚園でしょうか。四人のお子さんを連れて、インドネシアに遣わされます。その矢先に、五番目の子供さんができたというというのです。連盟では、やはり母体を考えて、妊婦は派遣しないということで、先生だけ先に8月に赴任し、奥さんと子供たちは後で五番目が生まれてから、12月ごろに行かれるということになりました。

確かに、熱い国です。そして何よりもイスラム教国ですから、伝道も難しいことがあります。そして、将来、この五人の子供たちが海外宣教という子供の視点での経験を通して、どんなビジョンを持って帰って来るかが楽しみになりました。イエス様はおっしゃいました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と。聖霊様はすでに降りました。そして今も私たちの上にあって、私たちの内にあって共に働いていて下さいます。聖霊なる神様が動くので、私たちも動くのです。

「息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」のです。これがペンテコステの出来事ではないでしょうか。私たちの教会からも、将来このように海外に宣教に出かける人が起こされるようにと願っています。働き人が起こされるよう祈って行きましょう。また、私たちも今日から始まる一週間、聖霊様の力と助けをいただいて、救いを求めている人々にイエス様の福音を大胆に証しして行きましょう。                    (岡田 久)

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