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神の言葉は永遠に立つ (イザヤ40:1~8)

メッセージ
2017年11月5日富里キリスト教会

「神の言葉は永遠に立つ」
(イザヤ書40:1~8)

1.第5の福音書としての第2イザヤ

週報にも少し書きましたが、このイザヤ書は、大きく三つに分けられると言われています。1~39章までが第1イザヤと言いまして、エルサレムにいて預言活動をしたアモツの子であり祭司でもあったイザヤ自身の書いたものです。そして今日の40章からは、イザヤの弟子である預言者が、捕囚の地バビロンに行って、そこで捕囚の民の中で来たるべき神の救いを預言したと言われています。

ある人は39章までが、旧約聖書にたとえるならば、40章からは神様の救いが実現した新約聖書に当るとさえ言っています。そしてこの40章以下を、第5の福音書だという人もいます。自分達の不信仰と罪によってバビロンの地に捕えられて行った人々に、ようやく救いの光が射し込んだのです。キリストの誕生と十字架の救い、復活、聖霊降臨と霊的な礼拝について述べられています。新しい時代の神の救いが、宣べ伝えられています。

新約聖書の福音書の冒頭に出て来ますバプテスマのヨハネの第一声、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。」(マタイ3:3、マルコ1:3、ルカ3:4~5、ヨハネ1:23)という有名な言葉が、このイザヤ書40:3に載っております。ですからイザヤ書はこの40章から、人々の救いのメッセージが始まるといっても過言ではありません。一緒にバビロンに連れて行かれた預言者イザヤの一人の弟子が、捕囚の民と一緒になって、その只中でやがて成就する良き知らせ、民の解放を預言しました。それはまた全世界の人々にとりましても、キリストの誕生から十字架の救い、復活と聖霊降臨という預言として、全世界に伝えられたのです

2.苦役の時は満ちた

イザヤ書40章の言葉を読んでみましょう。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イザヤ40:1~2)

もし、イザヤ書40章が福音書に当るというのであれば、イザヤ書の第1章は何でしょうか。福音書は新約聖書です。そして新約聖書の前にあるのは、旧約聖書です。そして旧約聖書の冒頭の言葉は何でしょうか。それは「初めに神は天と地を造られた。」(創世記1:1)という有名な言葉です。この創世記1:1の御言葉を頭において、イザヤ書の冒頭の言葉を見てみましょう。「天よ聞け、地よ耳を傾けよ。」(1:2)という有名な言葉です。これが実はあの創世期の1:1に当てはまる言葉なのです。「初めに神は天と地を造られた」それがイザヤ書では「天よ聞け、地よ耳を傾けよ。」という言葉になっています。

ですから、イザヤ書の1~39章までは旧約聖書の言葉、すなわち、罪を犯したアダムの子孫に対する神の徹底的な裁きの言葉と見ていいのではないでしょうか。ですから39章まではイスラエルの罪だけではなく、バビロンをはじめとするその周辺の民に対する神の裁きについて述べられています。ですから1~39章までが旧約聖書を表し、40章からは神の救いの御計画が始まる福音書と言うことになっています。そして、このイザヤ書40章以下が、いちばん新約聖書のメッセージを預言している箇所とも言われていますし、旧約からの引用が一番多いのもイザヤ書となっています。

さてもう一度、40章に戻って見ますと、40章からは、裁きの言葉ではなく、慰めの言葉になっています。今まで罪の故に多くの苦役を負わせられてきた民に対する慰めと励ましの言葉から始まっています。どんな慰めかと言いますと、2節に「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。」という慰めの言葉です。つまり人間の罪に対する神の裁き、神の懲らしめの時は過ぎ去ったと言っています。人間がとことん自分の限界と無力さ、罪深さを神の前に悔い改めて、完全に自分を降参して明け渡すまで、民の苦しみは続いていたのです。そこまで完全に自分を捨て切るまでに、40年以上の歳月が必要だったのです。

イスラエルの民が開放されて、エルサレムに帰還するまで、約40年間捕囚という苦役の時を過ごさなければなりませんでした。そしてこのイザヤの預言から約400年後に、あのイザヤが預言した救い主イエス・キリストの誕生を見ます。ですから、人間が完全に自分を捨て切るまでには時間がかかると言うことです。ヨブのように言いますならば「自分を退けて、悔い改めるまで」(ヨブ42:6)時間が必要だったのです。その苦役、その苦しみ、その苦難、その試練の時が40年必要でもあったわけです。

イスラエルの犯した数々の罪が、今や神様御自身の御決断によって償ったと宣言されたのです。すべては神の御手の中にあるのです。バビロンの軍隊を送ってエルサレムを滅ぼしたのも、民の多くを捕囚として連れて行ったのも、すべては神様の御計画の中にあったのです。そしてその歴史の支配者である主なる神様が、彼女、すなわちイスラエルの民、エルサレムの人々の罪を償われたと宣言したのです。彼らが捕囚の中で味わった苦役の時が、今やっと終わったというのです。

それが「苦難の時は今や満ち、彼女の罪は償われた。」と言う言葉です。皆さん、この言葉を見て何か思い出しませんか?そうです。あのマルコによる福音書のイエス様の冒頭の第一声の言葉です。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコ1:14)あの、「時は満ちた」という有名な言葉が、このイザヤ40:2の「今や時は満ちた。」という言葉です。

3.荒れ野に道を備えよ

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現われるのを、肉なる者は共に見る。」(40:3~5)

これは捕囚の民が帰ってくるための道を築きなさいというのではなく、主のための道です。主が通って行くことができるように、道を整えなさいというのです。バビロンからエルサレムに帰還してくるためには、どうしても荒野を通らなければなりません。何もない道です。荒涼としたでこぼこ道を神様が通るために整えなさいというのです。

「谷は身を起こしなさい」と言うことは、今まで人生の谷底、どん底にいた人々は、目を上げて立ちあがりなさいと言うことです。いつまでも暗い谷の中に引きこもっていてはいけない。立ちあがって目を上げて主を見なさいと言うことです。そして「山と丘は身を低くせよ」と言うことは、今まで高い所にいて、自分を高く評価して高慢になっていたものは、逆にへりくだって腰を低くしなさいと言うことです。

このように身分の低い者が高められる時代が来るというのです。そして逆に身分の高い者が低くなる時代が来る。このようにして山と谷が埋められて、でこぼこがなくなると言うことは、貧富の差がなくなり、高貴な人も卑しい人も、皆同じ扱いを受ける時代がやって来たのだと言うことです。男も女もなく、神の民も異邦の民もない、来たるべき神の前には全ての人が罪人であり、全ての人が信仰によって義しい人とされ、そこを主が通って行かれるのです。誰でも「自分」というものを降ろして、救い主を中心にし、このお方を先頭にして帰って来る道なのです。

またこれはある意味では、新しい時代の礼拝を意味しています。どんな人でもどこにいても、主の前に罪を悔い改めてへりくだって来る者の群れを意味しています。それは新しい時代の礼拝の始まりでもあるわけです。わたしたちは今日、こうして主の前に出てまいりました。周りを見ればいろんな目を奪う楽しい者や気を引くものがあります。これが現代の荒野です。主の道を妨げる者です。でもそういう人々の目を引くもの、気を引くものに心を奪われることなく、へりくだって主の目に進み出ること、それが現代の礼拝です。

4.神の言葉は永遠に立つ

そしてイザヤは神に何と言って、人々に呼びかけたらいいのかを尋ねました。つまり、主を礼拝するために集まってきた会衆に向かって、どんな説教をすればいいのですかと尋ねています。「呼びかけよと声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:6~8)

イザヤが神に対して、どんなメッセージをしたらよいのかと尋ねると、「肉なる者は野の草に等しい」と語りなさいと主は言いました。人間はどんなに長生きしても、野の草のようにやがては枯れてしまうと言うことです。また砂漠から熱風が吹いてくると、一瞬にして枯れてしまう草のようにはかない存在であると言うことをまず悟りなさいと言うことです。人間はまず、自分のはかなさ、空しさを知るところから始まります。自分の限界を知ることです。

人間を見る限り、本当に小さな存在です。でも神様は、そういう小さくてはなない人間に目を止められて、御言葉を語って下さいました。この神様の語る御言葉だけが、永遠に生き続けるのです。御言葉は決して色あせることもなく消えてしまうこともなくいつまでも存在し、その御心を成し遂げる力のあるものです。それは命の御言葉です。神の言葉です。この御言葉が永遠に立つのです。永遠に続く、存続するのです。

わたしたちは皆、年をとり衰え、やがて死んで行きます。皆、塵と灰に帰ります。土に戻ります。でも、この神のみ言葉だけは永遠に生き続けるのです。と言うことはみ言葉はいつまでも変わらないと言うことであり、この御言葉に繋がっている限りにおいてわたしたちも生きることが出来るのです。皆さんいかがですか?先月はヨブ記を学びました。ヨブ記のすばらしい御言葉の数々に出会いました。そして御言葉の力強さに圧倒されました。

そして今月からイザヤ書が始まります。しかも第2イザヤという、旧約聖書の中の宝石とも言える箇所を学んでいます。この旧約聖書を読むのが楽しくなりませんか。年を取るに従って、今までは気がつかなかった御言葉の力と約束がますます現実味を帯びて来ます。そしてこの信仰による希望がいっそう心に迫って来ることはないでしょうか。本当に信仰をもっていて感謝だなと思うことがあります。もし信仰がなかったならば、希望がなかったならば、もうお先真っ暗です。生きる希望も意欲もなくなって、生ける屍みたいな晩年を送るのではないでしょうか。認知症が進みます。記憶も気力も体力もなくなり、ぼんやり死を待つだけの人生になってしまうのではないでしょうか。

でもクリスチャンはそうではありません。年をとればとるほど、ますます御言葉への信頼と希望が大きくなって来ます。聖書を読むのが楽しくなってきます。確かに、わたしたちの体力は衰え、記憶力もなくなって来ます。地上での残された人生も短くなって行きます。でも、神のみ言葉は永遠に続くのです。8節の神のみ言葉の前に「わたしたちの」という言葉がついています。わたしもこの言葉を書きながら、そうだこの神のみ言葉は、他の誰でもないわたしたちに与えられた御言葉なのだという思いが強くなりました。皆さん方一人一人に与えられた御言葉なのです。そして信仰というのは、この神の永遠の御言葉に希望をもっている人のことです。そういう人は逆にますます勢いを増して天まで舞い上がると言っています。

5.鷲のように舞い上がる

最後に、40章30節に有名な御言葉がありますので、その御言葉を読んで終わりたいと思います。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(40:30~31)

神は力の神です。疲れている者に、勢いと力を与えて下さいます。この力の源である主の御言葉に希望を置く人は、決して疲れることはないとあります。そういう人は若者や勇士よりも、新しい力が与えられて鷲のように天を目指して舞い上がるというのです。どうしてでしょうか。それはみ言葉に希望を置いているからです。ここに本当の希望があります。

希望の党のように、党首が人気があるから希望があるのではないのです。そんな人間はいません。人は皆草に等しいのです。やがて枯れてしまいます。はかない草のような人間に希望を置いてはいけません。わたしたちの希望は主なる神にあるのです。そして、真の希望というのは聖霊から来るところの希望です。この「希望は、決して失望に終わることはありません。」(ローマ5:5)御言葉を信じて歩む者に与えられているものです。

そういう人は走っても弱らない、歩いても疲れないとあります。そしてあの鷲のように、ますます勢いを得て空高く舞い上がるというのです。鷲は、何であんなにも空高く舞い上がることができるのでしょうか。それは風を捕えているからです。風は聖霊です。主の御言葉に希望を置く人は、聖霊によって力が与えられてますます勢いを増して高く上ります。自分の力ではありません。神の力によって飛んでいるのです。聖霊を受けて、聖霊の力によって空高く飛び上がることができるのです。わたしたちも、この永遠の命のみ言葉に希望を置いて、鷲のように勢いをもって舞い上がる人生を送る者でありたいと願っています。    

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