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神の義 (ローマ3:21~31)

メッセージ
2017年4月30日富里キリスト教会

「神の義」(2017)
(ローマ3:21~31)

1.人間は弁解の余地がない

聖書は、戦争と人間の殺し合いの原因が何であるかをはっきりと述べています。今日のローマ書の3:13~18までも人間の罪について書いていますので見てみましょう。「彼らの喉は開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道に破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」(ローマ3:13~18)

今まさに人間の本性である罪がむき出しになって、二つの国が互いに敵意と非難を浴びせかけ、彼らの軍隊をもって互いに誇示し合っています。軍隊の行進する軍靴が鳴り響き、航空母艦と空軍と潜水艦がお互いを破壊しようと海の上と水中を進んでいます。陸上では、演習を装って激しい砲撃の実弾が飛び交っています。人間が互いに人を殺し合うことの原因は何かと言いますと、聖書ははっきりと罪だと言っています。そして彼らは、神を畏れることもなく、平和を求めようとはしません。

聖書には「世界を造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と新生は被造物に現われており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地はありません。」(ローマ1:20)とあります。たとえ聖書を読んだことがなくても、人間には誰でも良心があって善悪の判断はできるのだとあります。(2:1)ですから、人間は神を知らなかったと、弁解をする余地はないと聖書は言っています。

このように神の律法を守っている、神に選ばれている神の民だと信じているユダヤ人でさえ、神の前には義とされない、正しい者とはされないとパウロは言っています。むしろ、律法を神からいただき、律法に生きていると誇っているユダヤ人も異邦人と同様に、神の前に自分の罪の故に悔い改めなければならないと言っています。律法の目的は、自分を正しいとすることではなく、自分こそ神の前に罪深い人間だと、気付かせるための働きであるとパウロは言っています。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(3:20)とあります。

律法によっては、罪の自覚しか生じないと聖書ははっきりと述べています。人間の行いによっては、結局は罪の自覚を生じるしかないと言うことです。そしてわたしたち人間は、今この律法の世界に生きていると言うことです。ユダヤ人だけではありません。この世界の秩序はこの律法、簡単にして逆に言いますと、法律の世界に生きているのです。法的には正しいが、神様の目から見た霊的な意味では、心よりも外見を大事にします。(ローマ2:28~29)すべての人はこの律法の呪いの中に置かれているのです。(3:20)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(3:23)

2.神の義

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の中の極悪人カンダタが「おいこら、お前たちは降りろ!」と叫んだとたんに、目の前の蜘蛛の糸が切れて、再びまっさかさまに地獄に落ちて行く場面でお話は終わっています。しかし、実は聖書はその最後の場面から始まっているのです。まっさかさまに地獄の炎の中に落ちて行く人間、死と暗闇と熱さの中でもがきながら苦しんでいる人間の現実の姿から始まっているのが、聖書であり、このローマ書の3:21の「ところが今や」という言葉なのです。人間は救われない、どうしようもない罪人なのだという所から聖書は始まっているのです。つまり人間の物語はそこで終わっているのですが、神の物語はまだあるのです。いやむしろ終わったと思ったことから、神の救いの物語が始まっているのです。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何らの差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:21~25)

善行を行って上からいただいた、たった一本の細い蜘蛛の糸に依りすがって、必死によじ登って行くという救いの道ではないのです。そういう律法のような救いではないが、律法の意味している自分の罪というものに気がついて、神様の側からの一方的な恵みの救いの道があることを教えています。それがイエス・キリストの十字架によって示された神の義であり、この神の義であるイエス・キリストの十字架を信じる信仰によって、誰でも無償で救われる道なのです。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(3:25)神は「キリストを立てた」とあります。これはイエス・キリストを十字架の上に、贖いの犠牲の小羊として立てられたと言うことです。そして、このイエス・キリストの十字架の血潮によって、わたしたちの罪を償って下さったと言うことです。

ヘブライ人への手紙9:11にこういう言葉があります。「けれども、キリストは、すでに実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9:11~12)「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(ヘブライ9:22)

誰かがわたしたちの罪の身代わりになって、神の怒りと裁きを受けて下さらなければ、わたしたちの罪は償われなかったのです。それを神様ご自身が、ご自分の御独り子イエス・キリストの死によって、わたしたちの罪の贖いを成し遂げて下さいました。ここに神の義が啓示されました。そしてここに神の愛と赦しが同時に啓示されたのです。キリストはわたしたちのような罪人ではありませんでしたが、肉を取ってこの世に来て下さり、御自身の肉の苦しみを持って、私たちの罪の身代わり責めと罰を受けて下さり、わたしたちを罪の呪いと裁きと死から救ってくださいました。

誰かがわたしたちの罪のために苦しんでくださらなければ、誰かがわたしたちの罪のために身代わりになって血を流して執り成してくださらなければ、わたしたちの罪の呪いから救われませんでした。神様の怒りと裁きから逃れることができなかったのです。それがこの十字架です。わたしたちの「我」という罪を、覆い隠して下さる「子羊の血潮」なのです。これが「神の義」なのです。

ですからこれは無償で与えられるものです。神様からのプレゼントです。恵みの恩寵です。ただ、大事なことは、自分が「我」だということを自覚している人でなければなりません。「我」です。自己中心、自分は正しいとして自分を主張して来た人、自分の罪の大きさに悩み苦しんでいる人こそ、この神の義の大切さ有難さが解るのです。しかも永遠に、過去現在未来に渡って今も、わたしたちの罪を贖い続けて下さっているのです。これが「永遠の贖い」なのです。

3.信仰による義

ではどうしたら、この神の義であるイエス・キリストの救いというプレゼントを受け取って神の前に「義」、即ち罪なき者とされるのでしょうか。病気になって初めていやして欲しいと思う世になると同じように、自分の罪と言うことを知り、その罪を自覚する時に、初めて私たちは救いを必要とするのではないでしょうか。そこから来るいろんな不安や恐れというものを覚える時、この神様から啓示された神の義であるイエス・キリストの十字架のもとに行きたいと思うのではないでしょうか。これが信仰なのです。イエスのもとに行ってその御言葉を信じて受け入れることです。

「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(3:26)今まで神様は忍耐を持って、この十字架の救いの時を差し控えておられました。それは人々の心の中に、ある思い、即ち自分の罪の自覚、「わたしは本当に罪人です。神の救いとイエスキリストの贖いが必要です。」という思いが起こるまで、待っておられたのではないでしょうか。今まで神に造られていながら、神を神として認めてこなかった罪深い人間ですという思いが、人々の心に満ちるまで長い間忍耐して待って来られたのです。

信仰とは、神の義であるイエス・キリストと共に歩むことです。いやイエス様がいつもそばにいて下さることを感謝しつつ、喜びをもって歩むことです。いつも十字架の主の愛が、わたしたちを包んでいて下さる、罪人の私たちの罪を覆っていて下さることを信じ、喜びと感謝を持って生きることです。ただ信じて心に主を見上げる時、あなたの罪が赦され清められ、新しくされます。十字架の主を見上げるのです。これが信仰による義です。「信仰による義人は生きる」(1:17)とある通りです。クリスチャンであろうがなかろうが、神の義は今もあなたの信仰の応答を待っておられます。

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