ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

神の義 (ローマ3・21~26)

メッセージ

2009年8月30日
       「神の義」
        (ローマ人への手紙3:21〜26)

1. 律法の束縛
イスラエルの人々のことわざの中に「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」(エレミヤ31:30、エゼキエル18:1)という言葉があります。これは、自分が酸っぱい思いをするのは、親や先祖の罪と悪のせいだということわざです。私たちも、なぜ自分がこんな不幸のもとに生まれたのか、どうしてこういう人生の重荷を負わせられたのか、とその原因について考える時に、親のせい、先祖のせいではないかと思ったりします。この日本人の心情を利用して、先祖の供養をした方がいいですよ、といって高額の壺や印鑑を買わせられてしまったという、霊感商法の被害者が後をたちません。

この「親の因果が子に報いる」ということわざは、今日の日本の社会でもかなり根深く残っております。と言いますか、今でもこの言葉にがんじがらめに縛られているのが、日本人の心情だと言っても過言ではありません。親が、あるいは兄弟が、子供が不正をしたからという理由で、身内のものが責任を取って依願退職させられるというのは、今でもあるのではないでしょうか。あるいは、何か不幸があったりすると、すぐにその原因を誰かのせいにしてしまう、弱い私たちです。また、男は女を保護するものだ、適齢期になったら結婚する、そして子供を産む、生業をもって、親の世話をする。そうでなければ後ろ指を刺されるような世界に生きています。家族はこうあらねばならない、親の失敗を子供が背負う、また親の無念を子供があだ討ちする。そういう家、家族、血縁を最も大事にする不条理な世界、それを命かけて守ることが、美しいとされる国に私達は生きています。

2. 人は自分の罪の故に死ぬ
イスラエルの人々も同じように考えておりました。あの栄華を誇った神の国イスラエルが、外敵に滅ぼされ、人々は捕虜として外国に連行され、国は滅んでしまいました。「何故、どうして?」と考えた時に、彼らはその原因を、自分たちの祭司や王の罪、そして親や先祖が犯してきた罪の数々の故に、自分たちは今、憂き目を見ていると考えました。

そういう中で、預言者エレミヤは、「先祖の罪ではない、人は自分の罪の故に死ぬ。誰でも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」(エレミヤ31:30)と説きました。「先祖が、神様の戒めであるあの律法を破ったからこうなったのではなく、それぞれ、自分の犯した罪の故に死ぬのだ」と説きました。このエレミヤの「人は自分の罪の故に死ぬ」という言葉は、私たち一人一人が、自分の罪の責任を取ることを要求しています。きわめて新しい教えなのです。親でも社会でも先生でもない、あなたの罪はあなたの責任として自分が責任をとらなければならないのです。親は親、自分の罪で死に、子は子として自分の罪の故に死ぬのです。それと同時に、親だからといって、我が子の罪の責任を親はとる必要はありません。また、親は自分の罪の責任を子供に押し付けてはいけないし、どこにもその権利はないのです。親の責任を子にとらせるような一家心中と言うことは、本当に無責任な意味のない無駄な死なのです。

律法の真の目的は、人はそれを守ることができるということではなく、誰も律法を守れない、全ての人は律法の違反者であり、罪人なのだということを明らかにするためでした。それも恵みです。ローマ書3:20に「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」とあります。つまり、律法の働きは、人は自分で自分を救うことができないことを悟り、自分の罪を悔い改めて、一人一人がイエス・キリストの十字架の前に立つための案内人の働きなのです。(ガラテヤ3:24)

イスラエルの民は、悔い改めの信仰によって神を認めることをせず、律法の行いによって神に近づこうとしましたので、挫折し倒れてしまったのでした。あの「富める青年」はイスラエル民族を表わしています。でも、神様はいつの時代も預言者を送って、彼らがこの苦難を通して心から自分の罪を認め、悔い改め、真に神に立ち返ることを訴えました。そして、これらの預言者によって、預言され、証されて満を持して来られたのが、あの神の子イエス・キリストの十字架による救いでした。

3. 神の義
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人はみな罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:21〜23)

イスラエルの歴史をみてもわかるように、彼らの背きの罪は数え上げたらキリがありません。ある人が、「イスラエルの歴史は、『それでもなお』と『それにもかかわらず』の歴史だ」と言いました。神様が、彼らの罪にもかかわらず、「それでもなお」赦してあげた。そしてその神様の憐れみを受けていながら、「それにもかかわらず」罪を繰り返してしまう、どうしようもない背きの歴史であったわけです。しかし、そういう民に対して、最後の最後、堪忍袋の緒が切れて、神様の本音が爆発したのが、あのイエス・キリストの十字架の出来事だったのです。神様の最後の切り札として、私たちの目の前に突き出されたのが、あのイエス・キリストの十字架の死でした。それは一方的な無償の神様の自己犠牲的な愛の贈り物でした。

あるところに一人の小学生の男の子がいました。姉と両親の4人家族でした。ある時、学校から電話がかかってきました。「○○さん、お宅のお子さんがまたスーパーの万引きで捕まりました、学校にきてください」という呼び出しの電話です。たまたま、その日はお父さんが家にいたので、父親が引き取りに行きました。そして、家に着くや否や、雷が落ちるような怒りの声が家中に響き渡りました。お母さんもお姉さんも、お父さんのあまりの剣幕に、これは尋常な怒り方ではないと察したのか、間に入ってお父さんをなだめました。お父さんは「何回叱られたら、止めるんだ!今度と言う今度は、お前でも赦さない。」と言いました。

人は自分の罪の故に誰でも、裁きを受けなければなりません。しかしお父さんの怒りは収まりません。昔ですから火ばしがいろりにさしてありました。父は、その火ばしを取ったかと思うと、それを高く振り上げて、我が子の頭に振り下ろしました。子供は、思わず、目をつぶってしまいました。バシッ、バシッと鈍い嫌な音がしました。てっきり自分の頭に鉄の棒が落ちたと思ったのですが、痛みがありません。恐る恐る目を開けてみましたら、何と、打たれているのは自分ではなく、お父さんの左手だったのです。火ばしが空を切るたびに、お父さんの手の甲が赤くなり青くなり、とうとう赤い血が噴出して来ました。それでも父親はたたくのを止めません。その子はとうとう声をあげて泣き出しました。「お父さん、お父さん、もう止めて。悪いのは僕だから。もう二度と万引きはしないら!」

「人は自分の罪の故に死ぬ」。そのとおりです。でも、神様はその罪の代償としての罰と死を、私たちの頭の上に下したのではなく、御自分の御一人子、イエス・キリストの上に下されたのです。あのお父さんの血にまみれた左手のように、イエス・キリストは、私たちの身代わりになって血を流され、神様の罰を、その肉体に受けて下さいました。

4.人は自分の信仰の故に生きる
最後に、十字架に示された神様の義が、第一であること、そしてその次にこのお方を信ずる者が義とされることを、お話して終りたいと思います。ローマ書の後半の部分を読んでみましょう。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じるものを義となさるためです。」(ローマ3:25〜26)

「義」という漢字を見て下さい。本当に漢字は聖書から取っているということがよく解ります。「我」という字の上に「羊」が乗っている形をとっています。これは、「我が、我が」という自己中心の自分を神の子羊であるイエス・キリストが覆っていると言う字からできていると読むことができます。字の形が意味するとおり、義とは「神の子羊なるイエス・キリストの贖いの血潮が、我という罪を多い隠す」と言う意味です。簡単に申しますと、「罪赦されること」を「義とされる」といいます。

この罪人の罪を赦す神の義が、まず最初に表わされました。口語訳聖書では、この26節を「こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」と訳しています。つまり、神様が最後の切り札として、神のファイナル・アンサー、神にファイナル・デスィジョンとして御子を十字架につけられたのです。そして御自分の本心と真実をはっきりと人類の前に差し出しました。これが「神自らが義となられた」ということです。神様御自身が、自分が義であることを証明されたのです。誰もこの神の義について、異論を差し挟む余地がなくなりました。また、人間の弁解も通用しないのです。

私は長い間、この神の義が解りませんでした。「神がいるなら、何故この世に戦争や争いがなくならないのか!」という考えが、神を信じることを長い間妨げてきました。でも神様は、まず最初に御自身の義を確立し、その後で、この神の義であるイエス・キリストの十字架の贖いを信じる私たちを義とされるのです。十字架に示された神の義は、人間の反論、あるいは弁解と言うものを超えているのです。戦争があるから、人間が信じないから神が存在しないと言うお方ではないのです。たとえ人間が罪を犯しても、この世に戦争が絶えなくても、神は神であり、神として存在し続けるのです。それが、「神自らが義となった」ということであり、それを信じる者が、「次に」神の恵みによって義とされるのです。

この新しい契約による新しい世界が到来したのです。それは、律法やいろんな預言者に証されて現されました。それは福音の中に啓示された神の義を信じる信仰によって生きる世界です。人はすべて自分の罪の故に死ななければなりませんが、神の義(十字架)を信じる信仰によって生きる世界です。神様はこの御自身の義を、あの十字架の上に恵みとして、無償の贈り物として私達に与えて下さいました。このイエス・キリストを通して示された、神様の義と愛を感謝し、罪を悔い改めて、神の義なるキリストの十字架を信じ、新しい人生に生きる決心をして見ませんか。
                                          (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional