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神の経綸 (ヨブ42:1~16)

メッセージ
2017年10月29日富里キリスト教会

「神の経綸」
(ヨブ42:1~16)

1.神の経綸

「だれが豪雨に水路を引き、稲妻に道を備え、まだ人のいなかった大地に、無人であった荒れ野に雨を降らせ、渇ききったところを潤し、青草の芽がもえ出るようにしたのか。雨に父親があるだろうか。誰が露の滴を生ませるのか。」(ヨブ38:25~28)とあります。あの降り続く雨も稲妻も、すべてを神御自身が創造し支配しておられると言うことです。人間はこの雨の一滴もどうすることもできないし、雨によって青草をはえさせることもできないのです。それなのに、なぜ神に向かって、不平不満を並び立たて打ち負かそうとするのか。何の知識も持ち合わせていないのに、神の計画、神の摂理、神の経綸を邪魔しようとするのかと、ヨブに答えました。

確かにそのとおりです。わたしたちは南の海で生まれて、北上してくるこの台風に対してさえ、何もできません。せいぜい家の窓カラスを補強するくらいです。ものすごいエネルギーです。人間の手によってどうしようもできない、神の創造世界に囲まれていながら、人間はまだ神を認めることさえできずにいるのです。この嵐が過ぎ去れば、何事も無かったかのように元の生活に戻ります。でも神様は、いたずらに台風を起こして日本に送っているのではありません。この大嵐を通して神様の御支配を知って、その前にひれ伏して神を礼拝することを願っているのではないでしょうか。

使徒言行録の17:24~28(P.248)の御言葉を読んでみましょう。この中でパウロはこう言っています。「(神が、天地万物を造られたのは)、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見い出すことができるようにと言うことなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのある詩人たちも『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である。』と言っている通りです。」(使徒言行録17:27~28)

つまり神の創造の世界であるこの世界は、わたしたちが神を見い出すためのものであると言うことです。神の中にわたしたちは生きているのです。誰でもこの自然を通して神を発見することができるのです。発見ですから、ぼんやりしていては見つかりません。ヨブのように朝も昼も、常に神のことを考え、一生懸命探し求めている者が見出すことのできる世界なのです。

普段はわたしたちはこの神の経綸に気がつきませんが、何かの時に、一瞬きらりと神の存在というものを感じるのです。花を植えたり、動物を飼っていてもそういう瞬間を垣間見ることがあります。ヨブ記の38:41にこうあります。「誰がカラスのために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき。」(38:41)と言う記事があります。あのカラスの子育ての中にも、神の経綸があるというのです。

前にもお話したかもしれませんが、わたしは牧師になる前は、青森県の養鶏試験場で農業技師をしておりました。私がそこで経験したのは、ある時、職場の方が山からヤマドリと言う野鳥の卵を12個見つけて来ました。そのときちょうどわたしは卵を孵化する係りでしたので、その山鳥の卵を大きな孵卵機に入れて孵化しました。すると約3週間経って、いっせいにワイルドカラーをしたヤマドリの雛が出て来ました。すばしこいのです。野生ですから敵から身を守るために、生まれつき茶色の羽毛なっていて、敵に見つからないようになっています。鶏の雛は、2~3日かけて卵からピヨピヨと出て来ます。黄色くかわいく、よちよちしています。こんな色で足が遅いとすぐに外敵に食べられてしまいますが、野生の鳥は全く違います。

ひよこのつもりで、1週間、育すう器と言う一定温度に保ち、水と餌を食べる装置の付いた小部屋に入れました。順調に育ってくれるものと思っていました。ところが1週間目に、「岡田さん、大変だ。ヤマドリが死んでいる。」というのです。急いで行ってみますと、12羽の内、半分が死んでいました。すぐに解剖してみますと、何と餌も水も食べていなかったのです。「そうだ、ヤマドリは野生の鳥だから鶏とは違うんだ。」と思いまして、はたと考えてしまいました。
「そうだ野生だから、きっとミミズのように動くものをやればいいんだ。」と思いまして、今度はミミズ掘って来て与えました。すると案の定、長くて動く餌に食いついてくれたのです。

雛の餌付けと言うのは本当に大事です。このヨブ記でも、38章39章で動物の子育てが書かれています。「やれやれ、これで安心、後の6羽は命が助かりそうだ。」と一安心しました。でも、その日から毎日ミミズ掘りが始まりました。でも、この雛たちが成長するまで、毎日ミミズを取って来なければならないのかと思うと気が遠くなりました。続けることができません。ほとほと困っていましたら、ある方が、「岡田さん、そのヤマドリの群れの中に、同じ日齢の鶏の雛を放して置いたらどうですか。」とアドバイスしてくれました。そこで、同じ日齢の鶏の雛を数羽いっしょに入れました。そうしましたら、何と、その鶏の雛の水を飲む動作やえさを食べる様子を見て、ヤマドリも餌を食べてくれたのです。これでようやく、残りのヤマドリも死なせずに済みました。

今思いますと、これがわたしのヨブの体験ではないかと思います。自分に野鳥の何の知識もないのに、ヤマドリの雛なんか育ててみせると見くびっていたわたしです。でもその自分の自信や思い上がりによって、半分のヤマドリを死なせてしまいました。神の不思議な配剤と摂理の中に生きている野鳥に対して、何の知識もないのに自分にはできると信じていた愚かさに気づきました。自然とか野生とか本能に対して、人間はもっともっと謙虚にならなければならないと言うことを教えられました。

まさに「知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くする者は誰か。」と言う神様の言葉が聞こえて来るような気がします。それから、わたしの聖書の読み方も変わりました。聖書は神の言葉です。霊感で書かれた書物です。人間の知識や科学や文献では探究できないものです。もっと神の前に畏れをもって、信仰と祈りを持って読まなければならいと言うことを教えられました。そして聖書の御言葉も解ってきたような気がします。神の経綸、神の御計画というものを人間の浅はかな知識や科学で暗くしてはいけない、神の前に男らしく腰に帯をして立たなければと思いました。神の前で、問われているのは自分なのだと言うことです。

2.聞け、わたしが話す

嵐の中から御自身を啓示された神の言葉を聞いて、ヨブはもはや何の反論も問いかけもできませんでした。「なぜ自分はこのようなひどい目に会うのか、財産も家族も奪われ、重い病気を受けなければならいのか。」ヨブは、言いたいことはたくさんありました。でも、この神の経綸に触れた時、ヨブはそこで反論するどころか、ただただ、主の前にひれ伏して「あなたを仰ぎ見ます」と告白しました。自分の罪を悟り、初めて自分の罪を悔い改めたのです。「『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』あなたのことを、耳にしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5~6)と。

ヨブは「今まではあなたのことを耳にしておりました」と言っています。これは「頭では知っていましたが」(現代訳)とか「噂を耳で聞いていた」(新改訳)と訳されていますが、いわば知識として知っていたと言うことです。わたしがヤマドリは野生の鳥で、雄の方の羽がきれいで、雌は地味な色をしているとか、ヤマドリに関しての知識は知っていたと言うことです。聖書もそうです。聖書はイエス・キリストの十字架と復活について記されていて、弟子たちの証言をもとにして書かれたものであるとか。そういうキリストについての知識は知っている。これが「耳で聞いていましたが」と言うことではないでしょうか。

でも今回は、初めて「生ける神様を仰ぎ見ます」と告白しています。実際にヨブは、この主の言葉を聞いて、今も生きている真の神と出会ったのです。神を体験したのです。神の経綸に触れたのです。神を見たのです。そういう人間は、ただ神の前にひれ伏すしかないのではないでしょうか。説教では何度も聞いています。イエス様はわたしの罪のために十字架にかかり、三日目に復活されたと言うことを。でもその復活された主に、実際に出会ったとしたらどうでしょう。

神様は、御自分の御経綸を、このわたしたちが住んでいる神の世界の中で、あらゆる方法であらゆる場面で知らせて下さっています。その神の経綸に触れた者は、聖書を読む時にも、今までとは違った気持ちで読むのではないでしょうか。主に祈りつつ、聖霊様の助けを求めつつ、聖書を読みます。「神様、どうか私の目を開いて下さい。あなたの御経綸を見させてください。わたしたちはただ、あなたの中に生きているにすぎません。どうか、あなたの御計画と御心を教えて下さい。」と。

そこで初めて、私たちの聖書の読み方が変わって来ます。「自分」というものを下ろして、空しくなって、心を空にして神の教えをひたすら求める者となるのではないでしょうか。「自分」を下ろした読み方、「自分」を退けた読み方ができて来ます。さらに「自分」を退けた祈りができるようになるのではないでしょうか。そうしますと、ますます神の御経綸と神の御計画、神の御心が手に取るようにわかって来るような気がします。

3.自分を退ける

ヨブは初めて、ここで自分の罪は何かと言うことに気がつきました。ヨブの罪とは、そこにありますように「自分」だったのです。宗教的に、そして信仰的に熱心のあまり、彼は「自分は罪を犯したことはない、決してない。もしあるならば、どんな責めを受けても良い。」と31章で豪語しました。クリスチャンが、自分の完璧を目指し、潔癖を目指せば目指すほど、「自分」と言う罪が見えなくなってしまいます。この「自分」と言う罪に気がつくまでに、時間がかかります。それだけ私たちは自分のことに気がつかないのです。他人の欠点や罪ばかりが目につきます。この世の悪や醜さ、不条理ばかりが目につくのです。

「自分を退ける」と言うことは自分の罪に気がつき、自分の限界を思い知ると言うことではないでしょうか。その時に初めて人間は、目を神に向けることができるのではないでしょうか。それは、自分の非を悟り、自分の罪を認めて、神のみ前に出て、ひれ伏し神を仰ぎ見ると言うことです。神を見上げ、神を礼拝するということです。悔い改めるとは、人生の180度の転換です。視点が全く変わることです。自分から見た視点ではなく、神様からの視点が与えられることです。神様の救いの御計画と御心が分かって来ると言うことです。

自分の罪に気がついたパウロはこう言っています。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)と言って、と。今まで神に向かって、自分の義を主張してきたパウロでしたが、自分の内にある「自分」と言う罪に初めて気がついたのです。そして、この自分の罪を贖って下さるお方へと目を注いだのです。そして十字架に示された、神様の義を知りました。同時に自分の罪を贖い、信仰によって義として下さる神様の愛も知りました。

自分を退け、自分の罪を悔い改めたヨブの新しい生き方が42:7以降に記されています。自分を非難し、自分を裁き続けた友人のために、執り成しの祈りをささげました。自分や家族だけではなく、自分の敵をも愛し、執り成しの祈りをする者へと変えられました。ヨブは、神様の恵みによって、今まで疎遠になっていた兄弟姉妹や知人たちとの関係も回復され、親しくなりました。そして財産も、以前の二倍に回復していただきました。

そして子供も再び授けられました。7人の息子と3人の娘です。子供をもうけたと言うことは、あのひどい言葉を放った妻とも仲直りしたと言うことです。(ヨブ2:9)神様が、そのように夫婦の関係も親子の関係も回復させて下さったのです。これらの家族関係もすべて、神様から来るのです。子供の命を取ることも、与えることも、妻と仲たがいすることも、妻と仲直りすることも、すべて神から来るものです。長寿も神様からの賜物です。

聖書には、三人の娘の名前とその美しさがあえて記されています。本来でしたら、7人の息子の名前が出てしかるべきだと思います。でも息子ではなく、あえて娘の名前が残され、兄弟たちと同じように父親の財産を受け継いだのです。ということは、ヨブの家族に対する対応が変化したことを表しています。家の中で、立場の弱い者、低い者を大切にするようになったと言うことです。それは妻に対しても表れて来ています。こうしてヨブの生き方が、自分中心ではなく、弱い者や立場の低い者を大切にする者へと180度変えられたということを、ヨブ記の最後が示しております。  

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