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神の着物

メッセージ

2009年19日富里キリスト教会
         「神の着物
         (創世記3:20〜24)
                           
1.エバ(命)と名付けた

今朝は、先週の続きですが、「神の着物」という題で語らせていただきます。今日の聖書箇所を読んでみましょう。
「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(3:20〜24)

今まで、エバは名前がありませんでした。女という一般名詞で呼ばれていたのです。でも、彼女にアダムが「エバ」という名をつけました。これは、「命」という意味です。アダムの意味が、土とか地面というのに比べて、何とすばらしい名前でしょうか。罪を最初に犯し、夫にも罪を犯させ、自分が食べたのは蛇のせいだと言い張った女に、「命」と言う名がつけられたのです。男は、一生、額に汗して働き、土に帰るのに比べて、エバは命を生み出し、命を育む喜びを与えられました。

人間は罪の結果、すべて死んでしまうのですが、それでも結婚によって子供を産んで、次の世代に命を継承するという祝福も与えられました。女性にとって産みの苦しみは大変です。それこそ命がけの仕事ですが、子供を産んだ後の赤ちゃんの笑顔に比べたら、産みの苦しみなんか何ともないほどの喜びです。そして、生まれた子に名前をつける。聖書にありますとおり、これはどういう訳か家の主人である夫が命名します。それは人がはじめてこの世界に生まれ出ることの証明です。エバもアダムによって、単に助け手ではなく、女ではなく、「エバ」として互いに名前を呼び合い、向き合う存在として、妻本来の使命である夫の助け手となっていったのでした。

そして、その名をつけ、本来のエバを呼び起こしたのが夫アダムでした。夫の大切な役割です。妻を名前でしっかりと呼ぶことです。決して、支配の関係ではなく、名前を呼び合うことによってお互いを認め、尊敬しあう関係です。そこに、神のかたちが現れるのです。神様はそういう方です。主従関係も優劣もありません。父、子、御霊の中で神御自身が、お互いに違いを認めつつ、愛のうちに一つとなっているのです。その神のかたちを、言葉で呼び合う夫婦の関係の中に表わしたのが、神にかたどって創造された人間の姿です。

全国亭主関白協会(全亭協)という団体が、設立10周年を迎えるという記事が出ておりました。会長の天野さんは、かつては「風呂!めし!寝る!」の三語に象徴される典型的な旧来型の日本亭主関白だったそうです。ところが団塊世代の友人が立て続けに、奥さんから三行半をたたきつけられて、熟年離婚をしてしまったとのことでした。その話を何気なく奥さんにしたら、「今度はあなたの番よ」と言う言葉が返って来たそうです。ビクッとした天野さんは、それを機に、旧来型の亭主関白と別れを告げて、新しい亭主関白、すなわち妻を補佐する関白宣言をしたというのです。その会には「愛の三原則」というのがあるそうです。「愛の三原則」とは、「ありがとうをためらわずに言おう。ごめんなさいを恐れずに言おう。愛しているをてれずに言おう。」だそうです。なかなか、できそうでできないことですが、これが、妻の名を呼ぶ、一人の人格として向き合うということではないでしょうか。

2. 皮の衣(神の着物

この時まだ二人は、腰にいちじくの葉を付けていました。でも神様は、彼らにいちじくの葉の代わりに皮の衣を作って着せてくださいました。ここにも神様の大きな憐れみがあります。皮の衣と言う意味は二つあります。一つは、誰が作ったかということです。二つ目は、毛皮には動物の犠牲が伴っています。人間の裸の罪の体を覆うためには、犠牲の血が必要だということです。

まず第一に、人間が作った着物、それは腰の部分、すなわち相手との違いを隠すことにだけ焦点が絞られています。即ち、人間の着物は神様に対して着ているのではなく、人間に向けてきていると言うことです。別な言い方をしますと、すべてが人を意識しているということです。自分の欠点を隠し、良く見せようとするためだけのものだと言うことです。着る人が神を意識しているのではなく、人の眼を意識しているのです。でも、それがたとえ高価なものであっても、神様の目から見たら一枚の葉っぱに過ぎないものなのです。

第二に、神様が造ってくださった着物は、皮の材料です。何の動物が記されてはいませんが、この皮の衣を作るためには、動物が犠牲になったことは間違いありません。そして、この着物は神様から見て、そのときの最高の着物だったのです。単に材料が皮だからということではなく、動物の犠牲、動物の血が流されていたのでした。新約聖書のヘブライ書9:22に「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」という言葉があります。この皮の衣には、犠牲の動物の血が流され、その流された血によって罪の赦しが宣告されるのです。つまりこの皮の衣は、神の子羊なるイエス・キリストの贖いの血潮が流されているという意味が、隠されているのです。

「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:27)「あなた方は、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲に心を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13:14口語訳)神様は、罪を犯し、エデンの園から追放されるアダムとエバに対して、やがて、あなたがたの罪を覆い、赦して下さる、贖い主にして救い主なるキリストを与えるというメッセージをこめて、皮の衣を着せて下さったのです。皆さんは、どちらを選びますか。いちじくの葉ですか、皮の衣ですか。自分を隠すための人間の力、知識、地位、見栄と比較と競争の見せかけの着物ですか、それとも自分の罪を真に隠してくれるイエス・キリストの贖いの着物ですか。キリストという神の備えて下さった神の着物を着るならば、もはや人目を気にしたり、比較競争する見せかけの葉っぱの着物は必要ありません。二人は、いちじくの葉をそこに脱ぎ捨て、皮の衣を着て、エデンの東の地に出て行きました。

3. 命の木に至る道

人間は善悪の判断はできますが、区別はしても悪の方を選んでしまう弱さがあります。このエデンの園の二つの木についても、人間は「命の木」よりは「善悪を知る知識の木」の方を選びました。正しいほうを選び取れない罪です。命よりは知識を選んでしまいます。今日の知識、学力偏重の世界を見てみるとわかります。命である御言葉よりも、自分を高める、神の如くになろうとする知識の方を選び取ってしまいます。もし人間が、永遠に生きることになったら、神をもしのぐほどの力と権力を目指すに違いありません。今日でもすでに、クローン動物の実験によって、動物だけではなく人間の命を、簡単に、コピーのように作り出さないとも限りません。すでに神のようになろうとしている人間です。そういう人間に限界を与えるために、命に至る木への道を塞がれました。ケルビムは神の臨在を示す天使のようなものです。炎は神の裁きです。この道を勝手に入ってくる者があれば容赦なく、滅ぼすと警告しています。

しかし、それでも神様は罪の人間に対して、自分からエデンの園に入ってくる道ではなく、神様が備えて下さった唯一の道を備えて下さいました。それがイエス・キリストという道です。神様が罪を贖うために備えて下さった道です。ヨハネ14:6に「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とあります。私たちは皆、神の前に罪人です。私も一皮むけば、罪の塊です。自分は正しい、間違っていないと言い張ったり、いつも他人に責任を転嫁してしまうようなずるいものです。でも、どんなに罪が大きくでも、どんなに汚れていても、神様は私たちに皮の着物であるイエス・キリスト様を与えて下さいました。このお方をしっかりと身につけて、肌身離さず歩んでゆきたいと思います。最初は、どんな服でも着慣れないものです。違和感があります。ごわごわしています。

あの全亭協の天野さんも、「ありがとう」の言葉が出てくるまで、何度も言葉が詰まったと言っています。でも、新しい神の着物を着るならば、やがて、「ありがとう、ごめんなさい」の言葉が口から出てくるのではないでしょうか。キリストを離さず、脱ぎ捨てることなく着てゆくならば、やがて手放すことができない服になってゆくのではないでしょうか。パウロは、神様の着物であるイエス・キリストを着なさいとおっしゃいました。今日、私もこの神様の着物を着て、これからの人生を歩んでゆきたいとおっしゃる方はおりませんか?
                   
                                   (岡田 久)

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