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神の真実 (Ⅰコリント1:4~9)

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2013年1月20日富里キリスト教会
神の真実
(コリントの信徒への第一の手紙 1:4~9)

1.問題の山積していたコリント教会

当時コリントの町は、アテネと並んでギリシャ地方の一大商業都市で約60万の人々が住んでいたと言われています。アテネが学術芸術の町ならば、コリントは商業の町でした。ちょうど日本の京都と大阪といった関係にあったと思われます。コリントの町の後方にはアクロ・コリントの山がそびえ、その頂には、女神アフロディーテの神殿が建ち、神殿娼婦と言われる女性が約千人いて神殿に仕えておりました。

このような経済的繁栄と宗教的な売春行為によって、町には多くの人々が集まって来ましたが、道徳的には極めて退廃した町でした。「コリント人のようだ」という言葉は、性的な不品行を行うということを意味したほどだと言われています。そのコリントに、パウロも伝道し、その後アポロやペテロも伝道して入り、大きな教会が建てられました。それがコリント教会でした。ところがこのコリント教会は、立地条件からして性的無秩序や偶像礼拝と言ったいろんな問題が山積する教会となっていたのです。

この手紙を読んでみますとお解りになると思いますが、まず、教会内の分裂と分派の問題がありました。伝道に来たパウロやアポロやペテロと言った伝道者を崇拝して、それぞれの先生方を崇拝して、教会内に分裂が起こっていたのです。「わたしはパウロ先生につく」「わたしはアポロ先生につく」「わたしはペテロ先生につく」と奉仕された伝道者の人間についてしまっていたのです。それから教会内の不倫と不品行の問題です。一例ですが、クリスチャンでありながら義理の母親と同棲している息子がいるとか、全く目を覆いたくなるようなことが道徳的な混乱が教会の中にありました。しかし、その当事者が役員の息子さんだったでしょうか、そのようなことを教会が大目に見ていたようです(Ⅰコリ5:1~2)。そういういろんな教会の問題に心を痛めて、パウロにこっそり知らせてくれる信徒もいました。

また、信者同士で裁判沙汰を起こしていました。土地の境界線問題だったか、財産問題だったか解りませんが、クリスチャン同士で、町の裁判所に訴訟を起こして争っていたのです。信仰に基づいて自分たちで解決することができませんでした(Ⅰコリ6:1~4)。また、異教のはびこる町ですから、偶像礼拝の問題がありました。女神アフロディーテの神殿に参拝するとか、そこでのお祭りの宴席に出るとか、その場合にそういう偶像に備えられた肉を食べた人がいて、それは信仰的に見てどうなのかとか、いろんな生活の隅々にわたって信仰上のつまずきや戦いがあったのです。(Ⅰコリ8章)

それから教会内部での、賜物の競い合いがありました。特に、異言という特別な賜物をめぐって、異言で祈れるかどうかで競争し合って、集会の秩序が乱れて、教会の中が分裂寸前になっていました(Ⅰコリ14:1~5)。また中には、復活などないという人まで出てくる始末です(15:12)。コリント教会は、このようにいろんな問題を抱えて、今にも沈没しそうな状態にあったわけです。パウロはそういう、嵐の中にあった教会に対して、牧者として何とか主にあって一つになり、主の栄光である神の教会を建てて欲しいという願いを込めて書いたのが、このコリント信徒への手紙でした。

2.パウロの感謝の祈りの訳(キリストの教会)

1:4にパウロはこう述べています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつも私の神に感謝しています。」と。そして、1:2では、「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」と。パウロは、今述べましたように、いろんな問題を抱えたコリント教会に対して、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と言っています。そして彼らが、神の恵みを受けている教会であるということの故に、神に感謝を捧げているのです。

あんなに問題を抱えて、教会とは名ばかりの恥ずかしいような教会に対して、「あなたがたは聖なる者、コリント教会は神の恵みを受けている」と言っています。教会の現実の姿とパウロの挨拶で述べたようなすばらしいことと、全く相反するようなことが教会には良くあります。教会ほど、この世にあってすばらしい共同体である時と、一歩間違うと地獄のような人間の愛憎に満ちた場になるということもあります。ベテランのクリスチャンは、おそらく何度もそのようなことを経験して来たことがあるのではないでしょうか。カルロ・カレットという牧師が、教会について次のような詩を書いていました。

「おお、教会よ、おまえは何と不可解なものだろう。
それなのに私はおまえを何と愛していることか。
おまえは私を何と苦しめてきたことだろう。
それなのに、私は何と多くをおまえに負っていることか。
私はこの世界でおまえほど、とらえどころがなく、
評判が悪く、虚偽を言うものを見たことがない。
それなのに、おまえほど、純粋で、寛容で美しいものに触れたことがない。
そう、私はおまえから自由になれなかった。
なぜなら、完全ではないにしても、私はおまえだからだ。
私は(おまえを離れて)どこへ行くべきか。」

この一人の複雑な心境は、クリスチャンになり教会に仕える者にならなければ解らないような気もします。私も同じような気持ちを、何度も経験してまいりました。パウロも、そして私も思うのですが、この地上の教会は、多くの欠けや欠点やスキャンダルを持ちながらも、この世においてはなお、神の御業を行っているキリストの聖なるからだではないだろうかと思います。おそらくパウロも、コリント教会のいろんな問題やスキャンダルや欠点を聞かされるたびに心を痛めたことでしょう。でも、一人一人はイエス・キリストによって召された神の聖なる信徒であるという信仰の確信を持って、この手紙を書いたのではないでしょうか。

この手紙の挨拶の部分で気がついたことですが、1:1~9節までの短い挨拶文のなかで、イエス・キリストという言葉が実に頻繁に出て来ております。例えば、1節「キリスト・イエスの使徒となったパウロ」、2節「主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」、「イエス・キリストは主です。」3節「イエス・キリストからの恵みと平和」、4節「キリスト・イエスによって神の恵みを受けた」、5節「キリストに結ばれている」、6節「キリストについての証し」、7節「主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」、8節「主も最後まで支えてくれる」、「主イエス・キリストの日に」、10節「主イエス・キリストとの交わりに招く」とあります。数えただけでも12回イエス・キリストという名が出て来ています。

今朝は特に、最後の「この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス。キリストとの交わりに招き入れられたのです。」という言葉に注目したいと思います。つまり、私たちが最初に主との交わりに招き入れられた時から、一貫して主の再臨の時まで、イエス・キリスト様が離れないでいつも一緒にいてくださるということを言っているのではないかと思います。このイエス・キリストの恵みのゆえに、たとえ今はまだ不完全であっても、いろんな問題を抱えていても、必ず神は、イエス・キリストを通して私たちを最後まで助け、支え、養っていて下さるということ。そして、最後にはイエス・キリストの故に、完全な非のうちどころのないものにしてくださるということではないかと思います。

どんなに欠点があり内に問題を抱えていても、主が再臨される時までには、神様はこの教会を非のうちどころのないものにしてくださると言っています。完全な、キリストの花嫁のように聖い教会に育ててくださるということをパウロは確信しているのです。これは、教会だけではなく、その教会の手足である私たち一人一人も、完全なものにしてくださるというのです。パウロはそう信じているし、そう呼びかけているのです。ですから、パウロは、あなたがたは神の恵みを受けていると言って、「いつも」神に感謝しているのです。

3.神の真実

最後に、神の真実ということについて述べてみたいと思います。真実ということは嘘偽りがないということです。最後の9節を、もう一度読んでみましょう。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」とあります。神の真実とは、このイエス・キリストの交わりに、私たちを招き入れてくださったということです。

自分のようなものが、果たして非のうちどころのない者になれるだろうかと心配される方がおられるかもしれません。この「非のうちどころとないものにしてくださる」という言葉は、完全なものにしてくださるということです。こんな自分でも、聖なる者にしてくださり、イエス様のような生き方で教会生活を送れるようになるということではないかと思います。

真実な神様によって、私たちは主イエス・キリスト様との交わりに招かれたのです。招いてくださったのは神様ですから、神様が責任を持って最後までわたしたちの面倒を見るということです。たとえ、現状が、欠点だらけの不十分なものでありましても、神様が完全にしてくださるというのです。なぜなら、神様は真実な方であり、偽ることも気を変えることもない方です。ですから、最初に招いて下さったその招きにふさわしいものにしてくださるというのです。

ここで大事なのは、「主イエス・キリストとの交わり」ではないでしょうか。イエス様との交わりは、主の御言葉と祈りを持って、聖霊様の助けをいただいてなされます。そして具体的には、兄弟姉妹の私たちの信徒の交わりの中にも、神様の真実を体験して行くことができるのではないでしょうか。神様は、私たちを孤独な戦士として招いたわけではありません。お互いに兄弟姉妹として、互いに交わるようにと招いてくださったのです。神様が、父、子、御霊の三位一体の交わりの神であるように、私たちも一人ではなく、兄弟姉妹の交わりを通して神の恵みを体験して行くことができます。

たとえ、今、いろんな悩みや問題を抱えておりましても、私たちを、この主イエス・キリスト様との交わりに招いてくださった方は、真実なお方です。ですから、やがて交わりを通して、私たちを非のうちどころのない者、聖なる者に造り変えて下さることを信じます。そのことは、真実なる神様御自身が、イエス・キリスト様を通して私たちに約束して下さっているからです。この御言葉の約束を信じ、パウロのように私たちも、このすばらしい主との交わりに招かれたことを感謝を持って、世の終わりまで主に仕えて行きましょう。(岡田 久)

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