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神の目にあなたは高価で貴い (イザヤ43:1~7)

メッセージ
2017年11月12日富里キリスト教会

「神の目にあなたは高価で貴い」
(イザヤ43:1~7)

1.神の七つの性質

この43章の1~7節までは、旧約聖書と新約聖書の全般にわたる神様の大きな愛の御性質が、七つ書かれています。神様はどんなお方であるかということです。しかもそれが、創世記の天地創造から始まって、罪の贖いと主の十字架の救いと神様の大きな愛、そして世界伝道と最後の救いの完成まで順番に述べられています。この分厚い聖書を、たった7節で全て述べていると言っても過言ではありません。

43:1では、「あなたを創造された主」「あなたを造られた主」と言っています。さらに、「あなたを贖う」「あなたはわたしのもの。」「あなたの名を呼ぶ」と、たったこの1節の中に、4つの大切なキー・ワードがあります。神様は私たちの「創造主=造って下さったお方」だとうことです。そして次に私たちの「罪を贖う方」だと言うことです。更にわたしたちは「神の所有物」だと言っていますから、神様はわたしたちの「主人」だと言うことです。そして名前を呼ぶと言うことは、「親子の関係」だと言うことです。次の2節では「共におられる方」だと言うことです。人生で経験する大水や大火事といった危ない試練の中に置かれても、いつもそばにて下さるお方です。水もわたしたちを押し流すことなく、火も燃えて火傷をすることもないというのです。

そして、3~4節は「わたしは主、あなたの神だ」と言っています。この言葉は、イザヤ書の中で何度も何度も繰り返して出て来る言葉です。「わたしこそ主である、わたしこそあなたの神なのだ。」と耳にタコができるくらい言っています。さらに、わたしたちを罪から救い出す方だと言うことです。しかも私たちの罪の代償として一国さえ身代金として支払うとさえ言っています。

以前、テレビであのイスラム国の人質の場面が流されました。この日本人の命が欲しかったら、3億円をよこせというとんでもない要求を突き付けて来ました。神様はその身代金として、わたしたちを救い出すためにはエジプトをさえ売り渡すと言っています。クシュとセバという国さえ売り渡しても、わたしたちを救い出すと言っているのです。わたしたちの罪の身代わりに、人をさえ差し出す覚悟があるし、一国を差し出してもかまわないと言っています。それほどにわたしたちの魂を愛しているというのです。

5~6節は、神の民を全世界のあらゆるところから、神様御自身が集めるというのです。いわば世界伝道の主役は主なる神様だと言うことです。今月の最後の週から世界伝道のための祈祷週間が会始まりますが、世界の四方八方から神の民、霊のイスラエルを呼び集めるのは神様の働きなのです。伝道の主体は神様ですから、わたしたちには祈りと証しが求められます。伝道と祈りは車の両輪なのです。

そして7節は神の国の完成です。すべての神の民が呼び集められて、神を礼拝し、神に栄光を帰して行く時、これが救いの完成である神の国の礼拝です。このようにして、天地創造の始まりから、神の国の完成の時までのことを、この短い1~7節の中で、預言しています。これでもまだ、人間は自殺したいと思うでしょうか。こんなに神様が、愛をもってわたしたちを造って下さり、いつも名前を呼んで下さり、どんな時でも共にいて下さるお方です。決してわたしたちは一人ではありません。孤独でもないのです。神に心から愛されている存在なのです。これに対するわたしたちの祈りと証しが求められています。

2.創造主なる神

もう一度、改めて今日の御言葉を読んでみましょう
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを創造された主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。日の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(43:1~2)

わたしたちも、この世界も宇宙もすべて神に造られたものです。先月もヨブ記で、神の創造のみ業について学びました。ところが人間は自分が神の被造物であるにもかかわらず、造り主なる神に向かって文句をいうことがあります。イザヤ45:9にこうあります。「災いだ、土の器のかけらに過ぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか。『何をしているのか、あなたの造ったものに取っ手がない』などと。災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い、なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は。」(45:9~10)造られた者が造った者に向かって文句を言うのです。ヨブがそうでした。わたしたちもそういうことはないでしょうか。神様に向かって、なぜ自分をこう造ったのか、「なぜ自分だけがこんな目に会わなければならいのか?神は不公平だ。」と。

神様は決して不公平に、えこひいきして造られたのではありません。欠点のある人、欠陥を持った人間に造ったのではないのです。みんな愛を持って真剣に造られたのです。そして神様のものだと言って下さいました。ですから決して自分の命を自分で処分してはいけないのです。自殺は神への大きな罪なのです。わたしたちは皆例外がなく、神の所有物なのです。自分で勝手に命を取ったり、身体を傷つけてはいけません。皆、神様の大きな目的のもとに造られたのです。
そして、わたしたち一人一人の名前を呼んで下さいました。今も呼び続けています。決して一人ではありません。

わたしたちは神の造られた世界に生きているのです。そして神様は、いつもわたしたちと共にいて下さるお方です。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(43:1)「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」(43:7)

3.贖い主なる主

そして創造と同時に、最も大切な主の御業は、「贖い主なるお方」であると言うことです。「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(43:3~4)

創造された神は、愛の神でもあります。どこまでもわたしたち一人一人を愛しているが故に、わたしたちを造られたのです。たとえ、造られた人間が、神に背を向けても、造り主を忘れても、神の愛は変わることはありません。この神様の大きな愛をいっぱいに受けて造られた人間が、いつの間にか、この神の愛を忘れてしまったのです。そうです。忘れてしまう、当たり前のように思って、何とも思わないのがわたしたち人間です。ですからこのイザヤ書で、3節の「わたしは主、あなたの神」という言葉が、イザヤ書の中に何回もでてきています。

しかしイスラエルの民は、神を重荷とし、神の名前を呼んで助けを求めることすら忘れていました。43:21にこうあります。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず、イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。」(43:21~22)と。神様の愛と祝福にあぐらをかいてしまったのでしょうか。そして、かえって神様がいることを重荷とさえしたのです。

幸福な生活が続くと、神様の恵みに慣れ、神を侮り、神の民ではなく、自分たちがあっての神だと傲慢になることがあります。自分たちのための神だと考えて、用のある時だけ神を呼び、用がなければ神を無視してしまうような生き方を送ってしまいがちです。神様が主ではなく、自分が主の信仰でした。このイスラエルの罪を主が贖うと決断して下さいました。罪を贖う神を預言したのが、このイザヤ書です。

あなたが神様の愛に答えているから、罪を赦してくださっているのではないのです。あなたが罪深い人だからこそ、イエス・キリスト様を十字架に立て、このお方の執り成しの故に、あなたの罪を思い出さないとおっしゃっておられます。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のために贖いの供え物として御子をお遣わしになったのです。これが神様の愛です。」(Ⅰヨハネ4:10・口語訳)人間の愛ではありません。神の愛なのです。このことをまだよく理解しない方がおられるかもしれません。

信仰生活を何とか自分の行いによって認めてもらおうとする限り、そのような信仰はやがて苦しくなって、止めてしまいます。神様はわたしたちのどんな信仰の行いも期待してはいません。所詮、人間は罪人であり、完全な義を行うことはできないのです。正しいのは神様だけです。ですから、このイザヤ書の神は、もはや人間の側に何の期待も持てなくなった今、神御自身が自分で決断して、自分で罪の贖いの業を成し遂げると宣言されたのです。

それが何度も出て来ます言葉、「わたし自身のために」という言葉です。神様は「わたしたちのために」罪を贖ったのではなく、ご自身のために、御独り子を贖いの供えとして献げて下さいました。そこに神の様の完全な、そして絶対的な愛を示して下さいました。それはわたしたち人間のためではありません。自分のためなのです。御自分の義のために、ご自身の栄光のために、わたしたちの罪を贖って下さったのです。ここにわたしたちの救いの根拠があります。

43章には7節に「彼らはわたしの栄光のために創造し、形づくり、完成したものである。」とあります。21節「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」とあります。25節には「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」と言っています。わたしたちが創造され、罪をぬぐっていただいたのは、わたしたちのためではなく、神様御自身のためだったのです。わたしたちがどうであろうと、神様のわたしたちに対する愛は絶対なのです。

ですからわたしたちが救われたのも、神様ご自身のためなのです。わたしたちがこうして教会に来ているのも、神様のためなのです。神様が呼び寄せているのです。ある方が、「じゃあ、人間は何もしなくていいのでしょうか?」と言われました。またある方は、「神様の愛に精いっぱい答えて行くのがわたしたちの使命ではないでしょうか?」と尋ねました。果たしてそうでしょうか。わたしはむしろすべてが神様のためであるならば、逆に確信を強く持つのではないでしょうか。わたしの行いいかんではなく、神様の側に判断の根拠があるのですから、わたしたちは安心して大胆に行動できるのではないでしょうか。

そして、たしたちができること、ただ一つもとめられていることは、主の前に自分の罪を悔い改めて、主に立ち帰ることです。問題解決の糸口や、脱出の方法や、奉仕の仕方を考えるのではなく、まず神との関係を正常に戻すことです。神との関係を回復することです。神と向き合うことです。自分の働きに熱中するのではなく、神様の思いにいつも心を集中することです。常に、主の前に立つこと。主を優先すること。主を第一とすること。自分を降参させて、主に自分を明け渡すことです。聖霊様の働きに委ねることです。ヨブのように「自分」を降ろすことです。

この43章に何回も、「わたしは主、わたしこそあなたの神である。」という言葉が出て来ました。イザヤ書のあちこちに出ています。わたしに求めなさいと言っています。自分の名前が呼ばれていることです。無条件に、どんな小さな者でも弱い人でもなにもできない人でも、主に名前を呼ばれているのです。何かをしたから、よく働いたから、伝道したから呼ばれているのではないのです。あるがままで、そのままであなたの名前が呼ばれているという所に、わたしたちの存在価値があるのです。それが「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と言うことなのです。

ですからわたしを求めなさいと言っているのです。すべては神様から来ますから。名前を呼ばれ、名前を呼ぶ関係です。それは祈りです。それがわたしたちの答えではないでしょうか。「秋の集い」然り、「バザー」然りでしょう。絶体絶命の中で、神様が全てを整えて、ちょうど良いようにして下さったではありませんか。まさに神の御経綸です。神に囲まれ、神の中に生き、神に愛され、神に赦され、神に育まれて、神と共に、神の栄光のうちにわたしたちは生きているのです。まさに神の大きな御経綸の中に生きているのです。ですから、神の子として、遠慮なく主を呼びましょう。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝をもって歩んで参りましょう。    

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