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神の時を生きる (創世記40:1~23)

メッセージ
2019年7月28日富里キリスト教会
「神の時を生きる」
(創世記40:1~23)
1. 神が解釈する

ヨセフが子供の時に見たわら束と星の夢を、彼はその通りに父や兄弟たちに伝えました。子供ですから、見たものを素直に話すしかできなかったのです。その夢の解釈はしませんでした。むしろ兄たちがそれを解釈して、逆に反感をかったと言われています。確かにそうです。誰でもその夢の内容を聞けば、おおよその解釈はできます。この時は、ヨセフよりも逆に兄や父親たちの方が夢の解釈をして、ヨセフに反感を持ったわけです。

しかし、今度は、夢の内容を聞くだけではなく、その夢の解釈をするという少し高度な霊的賜物が必要でした。夢にはそれぞれ意味があります。その夢の言わんとするところの意味を解釈することが必要なのです。「朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた。ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷に役人に尋ねた。『今日は、どうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか。』『我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない』と二人は答えた。ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうか私に話してみてください。』と言った。給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。」(40:6~9a)

夢と言いますのは、神様の言わんとすること、神様のご計画を映像をもって分かりやすく、伝える役目をするのではないでしょうか。言葉ですと、起きた時に忘れてしまうことがあるかもしれません。忘れないように印象深く伝えるために、神様は映画のような映像という手段を用いるのではないでしょうか。従いまして、見た映像を、誰かに解釈してもらわなければなりません。いろんな解釈があるかもしれませんが、神様の正しい解釈は唯一つです。そのためには神と同じ霊を持っていなければ解釈をすることはできません。

ヨセフが「解き明かしは神がなさることではありませんか。」と言っています。解釈は神の働きなのです。神しか解釈できないのです。ヨセフが夢の解釈をするのではありません。神様がしてくださるから話しなさいと言っています。そしてどんな夢にも必ず意味があるのです。夢の効力は、その夢を見て反省して選択を変えるか、それでも必ずそうなると言う運命みたいなものでしょうか。夢の警告を聞いて借りなければ楽だったのです。そういう警告の夢、避けがたい運命の夢、指示を与える夢などいろいろあると思います。この宮廷の二人の役人の場合には変えられない自分たちの運命の夢でした。でもこの後に出てきますファラオの夢は、まさに選択と判断の夢でした。いずれにしても夢は解釈が必要だと言うことです。そしてその意味を解釈して下さるのは、神様だと言うことです。

この説教も一つの意味の解釈です。ヨセフ物語をどう読むか、そしてどのように解釈するか、そしてどのように自分の人生を選択してゆくか、その聖書の御言葉の意味の解釈の作業をしているのが、この説教なのです。神様のメッセージが詰まった聖書の御言葉、あるいは夢というものを、その意味を解き明かし、それを言葉にして語る。そして皆さんに理解してもらい、自分の生き方や日々の行動原理に当てはめて生かしてゆく、これが説教の働きです。聖書の意味を解釈しなければなりません。そしてその意味を解釈するのは、牧師ではなく神様の仕事なのです。神様が解釈するのです。わたしたちの場合には、聖霊なる神様が意味を解き明かしてくださるのです。

そのためにわたしたちは、普段からヨセフのように神を第一とした生活をしなければなりません。祈ること、聖書を読むこと、主を礼拝すること、伝道し奉仕をすること、そういう御心に適った生活をすることです。神様が共にいて下さり、神の霊に守られ、神の霊によって知恵をいただいて正しく聖書を理解して、それを自分に当てはめて生きて行くことができるのです。神様は常にヨセフと共にいて下さいました。穴に投げ込まれても、奴隷に売られても、彼は絶えず主を第一としてきちんとした正しい生活、すなわち祈りとみ言葉の生活をしていたのです。だからポテファルの妻の誘惑にも打ち勝つことができたのです。

夢も聖書の御言葉も、神からのメッセージです。託宣であり命令です。そしてその中には意味が隠されています。この意味の解釈が大事なのです。意味の解釈は自分自身を解釈するのに似ています。静まって静かに静聴の時を持ちましょう。そして聖霊様の助けを借りで、自分の霊的な目を開いて下さるように祈りつつ、御言葉を真剣に読みましょう。考えましょう、黙想しましょう、実践しましょう。み言葉を自分に当てはめてみるのです。それが正しい聞き方です。聖書の正しい読み方です。そのことによって、夢の意味を解釈し、それを実践してゆくことができます。

Two high status officials were prisoned into the jail where Joseph was. Two man have dreamed at same night. Joseph asked them the reason of their disappointment. Then he said to them, “Do not interpretations belong to God? Tell me your dream.” It is the God that interprets the dreams. We cannot interpret the dreams and the Bible. We should pray and read the Bible every day, and we should be filled with the holy Spirit. we should ask to God to teach us the meaning of the dream and the Bible. As we will be filled with the holy Spirit, we will be able to interpret the dreams and the Bible. For the interpretations belong to the God. Anyone who want interpret the dream and the Bible should ask to the God to fill with the holy Spirit.

2. 神の時

神様はヨセフをポテファルの妻の誘惑に会わせ、そして正しいことを行った彼に冤罪の罪を着せて牢獄に入れました。しかし、その牢獄での生活の中でも、ヨセフは常に主を覚え主と共に生活しました。その結果、侍従長ポテファルの好意を得て、王に仕える高官の身の回りの世話をする任を与えられました。40章の1節に「これらのことの後」という言葉があります。そして最後の23節に「ところが」という言葉があります。つまり、これらのことの後、妻の誘惑に打ち勝ったが、牢に入れられてしまった。そこで夢の解釈をして牢から出るチャンスが与えられた。それでも、状況は逆転して「ところが」で終わっています。

せっかくつかんだチャンスを見失ってしまったのです。これでうまくいく、光が見えて人生が開かれてくる。しかしところがそこにもまた、道が塞がれてしまったのです。道が閉ざされたのです。このようにヨセフの人生は、せっかく運が向いて来たのに、またそれがだめになってしまい、再び暗い生活に留められたままでいるのです。彼が再び日の目を見るまでには、それから2年間の年月が必要でした。

このように神の前に正しく生きてはいても、牢獄に放り込まれ、人々からは忘れられてしまい、光を失いかけるような人生を彼は何度もくぐらされたのです。何故か、神の前に正しく、神と共に生きていながら、なぜにまだ光を見ないのか、日の当たる場所に行けないのか、そういう希望を失いかけるような時が続きました。しかし、実はこのマイナスと見えるような出来事の中にも、この「ところが」という人生の中にも、実は神様の大きなご計画があったのです。

詩編105:16にヨセフに人生の意味について詠んだ詩があります。
「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておられた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にし、彼を王宮の頭に取り立て、財産をすべて管理させた。彼は大臣たちを思いのままに戒め、長老たちに知恵を授けた。イスラエルはエジプトに下り、ヤコブはハムの地に宿った。主はご自分の民を大いに増やし、敵よりも強くされた。」(詩編105:16~23)

この詩編の18~19節を見てください。「主は人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。」とあります。ヨセフが数々の苦難にあったのは、実は神様の訓練の時でもあったのです。彼の首に枷をはめ、足にも足枷をはめられて閉じ込められたのは、神様がヨセフを試練の炎で練り清め、いろんな不純物を取り除き、神の御言葉が、ヨセフを通して実現する時までだったというのです。そしてこの二人の高官が獄屋に入れられたのも、最終的には、神様がヨセフを暗闇から引き出すためだったのです。しかも主の御言葉が実現するまでには、さらにまた2年間待たなければなりませんでした。

神様の救いの御言葉が実現するときまで、ヨセフは試練を受けなければならなかったのです。神様からの祝福を夢み、祝福が約束されるということは、ある意味では試練を通されなければならないということです。皆さん、この40章までがヨセフの人生だとしたら、彼の人生はいったい何だったのでしょうか。苦しみに苦しみ、不条理に不条理の連続です。ここで自分の人生が終わってしまうのであれば、だれがこの空しい人生に耐えることができるでしょうか。何もない、空しい無駄な人生ではなかったでしょうか。いったい自分の人生って何だったのだろうかと思ってしまいます。

この40:23の「ところが」という言葉ですが、最後の望みもつい果てたような、道が閉ざされてしまったような終わり方です。でも神様の「ところが」には、その先があるのです。今度は王様の夢を解くと言う準備の期間でもあったのです。これでもかこれでもかと人生がどんどん閉ざされて、希望を失ってゆく中でも、神様の救いの御計画は着々と進んでいるのです。ですから、「ところが給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった。」という否定的な言葉の中にも、神様の救いの御計画が隠され進行していたのです。

まさしく神様の約束の御言葉が実現するときまで、ヨセフは試され訓練を受けていたのです。そして同じようにわたしたちも、長い信仰生活の中で、主の御言葉が実現するときまで、訓練されねり清められるのです。火の中を通されたり、暗い場所に投げ込まれたり、十字架を負わされたりするのではないでしょうか。

そして最終的には、これらの苦難を通して、苦難の意味を知ることができるようになるのです。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。・・・主よ、あなたの裁きが正しいことをわたしは知っています。わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえです。」(詩編119:71、75)生意気で傲慢なヨセフが砕かれ、ヨセフがへりくだって御言葉に立つまでの時だったのです。彼のあの自己愛にも似た、傲慢ぶり、相手のこと考えない自己中心の自分というものが最終的に砕かれるための、時間でもあったのです。自分が多くの苦しみを経験して、初めて彼は他人に共感するということを覚えたのではないでしょうか。そのための時だったのです。

Let us pay attention the last verb 23, in this verb “The chief cupbearer,
however, did not remember Joseph; he forgot him.” there is a word “however”, surely this word directed the wrong result that the official forgot Joseph. But the Joseph’s big chance will need some times to realize his success. It will need 2years. The patience of Joseph was nourished during this hard time. His self-centered self was broken. All hardship that he experienced has been come from the God for him. It was good for him to be afflicted so that he might learn God’s decrees.
Finally he made a reconciliation with that hated brothers. This is something that he can never experience without hardship.

そして、彼は自分を襲った人生の不幸と苦しみの数々が、実は神様から出たものであることを知ることができました。時が必要でした。苦しむことが必要だったのです。ですから、ヨセフは最後に、自分の運命を受け入れ、すべては神から出ていることだと知り、あの自分をひどい目に会わせた兄たちを赦し和解をすることができたのではないでしょうか。自分自身の罪をも悔い改めることによって、真に兄弟を愛するものへと変えられてゆきました。苦しむことなしには経験できないことでした。そして全てのことは、兄弟姉妹として愛し合うことへと、和解とやわらぎへと繋がって行くのです。わたしたちが神の民として一つになって行くことです。

憎しみが愛へと、悲しみが喜びへと、嘆きが感謝へと、争いが一致へと変えられてゆくところに神の世界の最終的な創造の目的があるのではないでしょうか。この神の時へと私たちは今向かっているのです。今しばらく試練と困難があるかもしれませんが、それはやがて実現されようとしている神様の救いの御計画の祝福に比べたら、大きなことではありません。神の約束の御言葉が実現するときまでのことです。この苦難の時を愛と忍耐と寛容をもって、祈りつつ主の救いを待ち望みましょう。(岡田 久)

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