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神の救いの奥義 (ローマ11:11~36)

メッセージ
2017年5月28日富里キリスト教会

「神の救いの奥義」
(ローマ11:11~36)

1.異邦人への警告

「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったと言うことなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果となりましたが、それは、それらにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らがみな救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中の命でなくてなんでしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」(ローマ11:11~16)

ユダヤ人がつまずいたのは、彼らが完全に駄目になってしまったのかと問うています。神の救いから見放されてしまったのかと言うことです。パウロはそうではないと言っています。彼らがつまずいたのは、神の救いを拒んだ彼らを、福音が離れて異邦人に及び、その結果、異邦人が救われたというのです。ローマ教会という素晴らしい教会が存在しました。でもそれは、あとでユダヤ人がキリスト教会を見て、妬み起こさせるための神の御計画だったというのです。異邦人教会の発展を見て、ユダヤ人の中には、やはりあのナザレのイエスはメシアだったのかと悔い改めるものが、一人でも起こされるためだったというのです。ユダヤ人のつまずきとか罪とか失敗も、実は神様の救いが異邦人に行くための手段だったと言っています。そしてユダヤ人がそのキリスト教の発展を見て、自分達も悔い改めて、ナザレのイエスを信じるようになることを神様は願っておられるのだとパウロは言っています。

ここにユダヤ人のマイナス面がいろいろと出ています。「つまづいた」「倒れた」「罪を持っていた」「そして失敗した」「神に捨てられた」そして最後には「妬みを持つ」と言った、マイナスの面がいっぱい上げられています。しかし、実はそれらのユダヤ人のマイナス面も、実は神様の救いの御計画の中に入っていたというのです。そのマイナスによって、異邦人であるあなたがた逆に救いに入れられたからです。彼らの失敗が、世の富となり、異邦人の富となり、世界の和解にもつながったというのです。ですから今日に至るまで、神の救いの御計画は途切れることなく脈々と続いているのです。

ですからユダヤ人が福音につまずいたと言うことは、決して彼らがもう救われないと言うことでないのです。神様があえてユダヤ人をかたくなにして、福音が異邦人へ行くようにされたのであり、そしてやがてそれを見たユダヤ人も奮起して福音に立ち帰るようになるためだと言っています。どんなマイナス面でも、伝道という視点から見る時に、そこには神様の深い救いの御計画があると言うことです。

ですから決して異邦人は、自分を誇ってはいけないし、ユダヤ人を軽蔑してはいけないというのです。20節で「思い上がってはなりません」といっています。また25節にもうぬぼれてはいけないと警告しています。「兄弟たち、自分を賢い者だとうぬぼれないように、次に秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われると言うことです。」
(11:25)

救いに定められている異邦人が、全て救われる時まで、ユダヤ人は拒み続けているというのです。異邦人全体に救いが行き渡った暁には、ユダヤ人も福音に立ち帰る時が来ると述べています。神様はすべての人々が救われるために、人間の妬みとか失敗とかつまずきと言ったものをも用いられると言うことです。ですから、多少の失敗やつまずきは決して悪いことではなく、長い目で見るならば全ての人々の救いのための神様の手段でもあったと言うことを知るのです。

2.神の慈しみと厳しさ

皆さんは接ぎ木の仕方を知っていると思います。園芸栽培ではよく、病気に強い台木に、病気には弱いけれども、実のいっぱいつく木を接ぎ木して、収穫を多くするという方法です。その台木をユダヤ人にたとえ、接ぎ木された枝を異邦人にたとえてパウロはこう言っています。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」(11:17~18)

わたしたちはユダヤ人がキリストを拒んだことによって、異邦人であるわたしたちが救いにあずかっているのです。ですから、つまずいて切り取られたユダヤ人に対して誇ってはならないし、思い上がってはなりませんと警告しています。皆さん覚えているでしょうか。あのイスラエルの最初の王、サウルの悲劇を。彼は、最初は民の中から初代イスラエルの立派な王として立てられました。しかし、段々疑心暗鬼になり、また高慢になって神を神としなかったために、その王位から退けられました。自分を神として越権行為をしたことで、神の怒りを買って王位を退けられました。彼は罪を犯し、失敗し、つまずきました。そして次に神様はダビデを王に立てました。彼は信仰によって勢力を増し、ついにイスラエルの王となりましたが、サウルから命を三度も狙われました。いくらでもサウルの命を取る機会はあったのですが、彼はサウルの命を取らないで、イスラエルの油注がれた王として、生涯反抗しませんでした。それだけ、サウルよりもダビデの方が、謙遜だったと言うことです。

このことはわたしたちも、もっともっと謙遜になることを教えています。もしわたしたちが、自分を誇り、へりくだることを忘れるならば、神様は容赦せずに私たちに対しても怒りを発せられます。なぜならば、もともと私たちは異邦人の身分です。神の救いからもっともっともっとく離れた滅びの中にあった者なのです。そういうわたしたちを憐れんでくださって、神様は異邦人のために、パウロを通して福音を伝えたのです。そのためにユダヤ人はかたくなになったのです。彼らが罪を犯し、頑なになり、失敗しなかったならば私たちの救いはなかったのです。

そのようにして神様の恵みと憐れみによって救われたものですから、この神様の慈しみを忘れてはいけないというのです。もしわたしたちがその慈しみを忘れて、思い上がるならば、神様はわたしたちを切り取って、切り取った元の枝を再びつながせる力があるのです。ですから思い上がってはいけませんと警告しています。

3.神に向かって

最後にパウロは肉のイスラエルではなく、霊のイスラエルの回復と復興について述べています。パウロは肉的民族的なユダヤ人である肉のイスラエルの救いではなく、キリストを信じるところの霊のイスラエルの救いと神の国の完成についてこう述べています。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われると言うことです。」(11:25~26a)

つまり現在ユダヤ人が依然として頑なになって、キリストをメシアとして受け入れないでいるという現実があります。それは、異邦人全体が救いに達するまでであるというのです。やがて異邦人の救いが成就した暁には、肉のイスラエルにも救いが成し遂げられて、異邦人とユダヤ人から成る霊的な全イスラエルが実現するというのです。こうしてすべての人の救いが、成就完成すると言っています。もちろん、これは人類全体が救われるという意味ではなく、異邦人もユダヤ人も、最終的にはイエス・キリストを信じる者の救いが完全に成し遂げられるという意味です。

いずれにしても、ユダヤ人の救いは、異邦人の救いが成し遂げられる時までのことであり、やがて全イスラエルが救われるようになるとパウロは希望を持って語っています。そしてなぜ、現在、ユダヤ人がかたくなになってキリストを拒んでいるのかといいますと、彼らユダヤ人も異邦人と同じように心頑なな民になるためだと言っています。神は、異邦人もユダヤ人もどちらも「心頑なで罪深い人間だ」という自覚を持たせるために、あえて異邦人はもとより、ユダヤ人も心頑なな状態に追い込まれたというのです。

そしてすべての人が、キリストの十字架の前に自分の頑なな罪を告白して、悔い改めに至ることを願っているのです。それは、すべての人が神の憐みの中に置かれるためでした。「神は全ての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(11:32)とあります。
ですから神様は、あの人は神に対して不従順だ、罪を犯した、失敗者だという非難をさせないために、むしろすべての人をつまずかせ、すべての人を失敗させ、すべての人捨てられたのです。それは誰も誇ることがないためです。全ての人が神の前に出て、自分の失敗、罪、つまずきを心から告白してひれ伏すようになるためなのです。そして誰一人自分を誇ることなく、神の憐れみと慈しみの前に立たせるためでした。

このような神に救いの御計画の深さ、その奥義を誰も知ることはできないし、助言をすることもできません。神御自身の御計画だからです。人間の頭では理解できないことなのです。「いったい誰が主の心を知っていたであろうか。誰が主の相談相手であっただろうか。誰がまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神にありますように、アーメン。」(11:34~36)と最後は神への賛美で筆を終えています。パウロはここまで書いて来て、神の救いの大きな御計画の故に叫ばずにはいられなかったのでしょう。

万物は神から出て、神によって今保たれており、そして神に向かっているのです。人間の罪を飲み込み、どこまでも愛を持って赦され、御自分の義を貫いておられる神の救いの御計画の前に、すべての人がひれ伏して御名を崇め、賛美を捧げて行きたいものです。最後は神に向かっているのだという、わたしたちの人生の目標をしっかりと見定めてまいりましょう。   

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