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神の家 ベテル (創世記28:10~19)

メッセージ

2011年7月24日冨里キリスト教会
「神の家・べテル」
(創世記28:10~19)
1.孤独の果てに

創世記28:10以降に、「ヤコブはべエル・シェバを立ってハランヘ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」
(28:10~11)とあります。今までは大家族の中で、何の不自由もなく、神を敬う家族として過ごしてきたヤコブでした。次男とはいえ、イサク家の双子の御曹司として、幸福に暮らしてきました。神の祝福をめぐって、兄のエサウとは多少の対抗意識もありましたが、それでも40歳になるまで幸福な時を過ごしてきました。

それが、兄の反感をかって、家を出ざるを得なくなってしまったのです。あんなに苦心して父の祝福を奪い取ったのに、それを捨てて家を離れ、一人旅に出なければならなくなりました。叔父ラバンの家に着くまでは、何日もかかる旅路です。随行者もなく、たった一人の旅でした。父、母から離れ、家族や兄弟姉妹とも別れ、一人寂しく異国の地を旅しなければなりませんでした。たった一人で夜露をしのぐ屋根もなく、荒涼とした荒野に身を横たえなければなりません。いろんな思いがヤコブの脳裏をかすめたと思います。

おそらく、ヤコブは、神様からさえも見捨てられてしまったと感じたのではないでしょうか。聖書には「ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にした」とあります。いわば石の枕です。実はこの石枕と言いますのは、古来、死んだ人がする枕です。日本でもある地方では、遺体の枕元に海から取ってきた滑らかな石を置いて、埋葬の時にはそれに戒名を書いて墓の上に置き、仮の墓石代わりにするところもあるといわれています。つまり、ヤコブは、この荒野で家族に見捨てられ、神にも見捨てられて、孤独と絶望感の中で、一人寂しく死を願うところまで落ち込んでしまったのではないでしょうか。いわば死をも覚悟して横たわったといってもいいかもしれません。

旅に出るということは、こういうことを意味します。行く先が決まって、温かい布団、食事とお風呂が待っている旅なら心配はいりません。しかし、ヤコブの旅は行く先もわからず、何も持たずに、誰も一緒に行かず、もしかしたら、途中で死んでしまうことさえ覚悟しなければならない旅でした。寂寞とした荒野で、一人孤独の中で耐えなければなりませんでした。

しかし、考えてみれば、自分の祖父であるアブラハムも、行く先を知らずに旅に出ました。「レフ・レハー」(=己自身に向かって行きなさい。)、その先に何が待っているとも知らずに、信仰の祖父は旅だったのです。でも、この旅こそ、実は神との個人的な関係を築く上でなくてはならないものでした。人は旅に出て、初めて生ける神と出会うことができるといっても過言ではありません。

一人で神の前に立つ時に、初めて神様がそばにいて下さるという臨在感を覚えることがあります。それが「あなたの神」なのです。一人孤独になり、死さえ覚悟して行った時に、そこで生きた神様が出会って下さる。誰もいないと思われた場所に神がおられる、そこに神の家があり、天国への門が開けている、こういう信仰の体験、生ける神との出会いをさせるために、神はヤコブを孤独の旅に遣わしたのではないでしょうか。

2.ヤコブの階段(ヤコブに出会われた主)

すると、そこで神が出会って下さいました。死を覚悟して、いやすでに、石を枕にして死んでしまったようなヤコブに、神が初めて、出会ってくださったのです。神がいそうもないと思われた荒野の真ん中で、神はヤコブに出会われ、そこに天国の門、天への架け橋を見せてくださったのです。

「すると、彼は夢を見た。先端が天に達するまでの階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がってゆくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。ヤコブは眠りから覚めて、言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』そして、恐れおののいて言った。『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』」(28:12~17)

ヤコブが石を枕にして休んだ時、彼は一つの夢を見ました。それは一つの階段が天にまで届くほどに伸びていて、その上を御使いが上ったり下ったりしている夢でした。そして主御自身がヤコブの傍らに立って、七つの祝福を伝えました。それはアブラハム、イサクにも与えられた祝福です。実は、ヤコブは、この時初めて、主と出会ったのです。今まで、神様と面と向かって語ったことはありませんでした。この時、初めて主とお会いすることによって、主は「ヤコブの神」となったのです。

「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方は、神様がそれぞれに個人的に出会って下さったということです。神様と面と向かって出会う時に、初めて神様は、その人の神になるのです。皆さんはいかがでしょうか。神様と出会っておられるでしょうか。神と一対一で向き合うことができるのは、このように一人孤独になって、神なんかいないと思い、自分の力や努力に絶望して倒れ果てる時、そこに主がおられるということです。

そして主は、傍らに立って、ヤコブに七つの祝福を約束してくださいました。一つは、御自分を現してくださったことです。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、主である。」と。第二は、今、横になっているこの土地をヤコブとその子孫に与えるというものです。第三は、ヤコブとその子孫は多くなり、増え広がるということです。第四は、地上の部族もヤコブとその子孫によって神の祝福に入るということです。第五は、神はヤコブと共にいるということ。第六は、どこへ行っても必ず、ここへ連れ帰るということ。第七は、約束を果たすまで決して見捨てないということ。この七つの祝福をヤコブに与えました。

自分が死を覚悟したその所で、神様は自分に出会って下さり、神の祝福の言葉をヤコブに与えました。しかも、その場所から天まで大きな梯子がかかっていて、御使いが上り下りしているというのです。ヤコブは、この場所こそ、天国へ通じる門であり、神の住まわれる場所だと宣言しました。

自分が死を覚悟し、神から見捨てられ、孤独のうちに死のうとしていたその場所が天国への入口であり、神が共におられる神の家なのです。大事なのは、自分という自我がそこでいったん死ななければなりませんでした。そこに、初めて神との真の出会いが起こるのではないかと思います。「我こそは、なんとしても祝福を手に入れる。」そういうヤコブに決別しなければなりません。その孤独と絶望と死の只中で、神様の御臨在に触れること、これこそ何にも変えがたい神の祝福であり、受け継ぐべき神の財産なのではないでしょうか。

有名な讃美歌ですが、新生讃美歌の603番がこのヤコブの荒野での出来事を歌っています。また、これはあの映画「タイタニック」でも、沈んでゆく船の甲板で演奏者たちが最後の葬送曲のように楽器を弾いていたことでも有名です。
歌詞は「さすらう間に日は暮れ  石に枕するとも、
夢にもなお夢にもなお  主よみもとに近づかん。
       天よりとどくかけはし  われを招く御使い
       恵みうけて恵みうけて  主よみもとに近づかん。
          目覚めてのちべテルの  石を立てて捧ぐる
          祈りこそは祈りこそは  主よみもとに近づかん」

4.神の家(べテル)

最後ですが、ヤコブは、翌朝早く起きて、主が現れて下さったその場所を「べテル」(=神の家「ベイト=家+エル=神」)と名づけました。そして、自分が枕にしていた石をとって、それを記念碑として立てて、その上に油を注ぎました。そしてそこで礼拝をしたのです。そしてその日から、ヤコブは神を礼拝するものとなりました。ヤコブの本当の意味での信仰の旅が始まった、といっても過言ではありません。

ただし、彼はまだ、神に対して条件を付けています。20節にこう誓っています。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(28:20~22)と。

ここに至っても、ヤコブはまだ神様を完全に信じていないといいますか、本当に私の神になって下さるのなら、十分の一をささげますというのです。いわば、神様がわたしの神様となって、約束を実行してくれたなら、わたしは十分の一をささげますと言うのです。わたしの神様になって下さらなければ十分の一はささげませんというのです。

神と契約をしているのです。彼は常に、神を意識し、神様に相対して、神と真剣に向き合って、神との契約関係を結んで歩みました。何をしても赦されるという、子供のような幼稚な信仰ではなく、神と真剣に向き合って歩む人生、誠実で真面目な生き方、それを信仰と言ってもいいかもしれません。(「信仰」(=ピステス)は真実という意味もある。)神様は、そのような信仰を軽んじられるお方ではないと思います。一度限りの人生です。真剣に真実をもって、信仰を持って、神の前に生きる。このような生き方を、私たちも追い求めてゆきたいものです。                        (岡田 久)

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