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神の安息 (創世記2:1~3)

メッセージ
2017年7月9日富里キリスト教会

「神の安息」
(創世記2:1~3)

1.天地万物の完成

創世記1:31にはこうあります。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」と。六日かけて神は、天地万物を創造されました。そして御自分が造られた世界を御覧になって「極めて良かった。」と絶賛しております。英語では「It was very good」となっています。まさに最高の世界を神は完成されたのです。そしてこれが6日目でした。夕べがあり、朝がありました。

「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神は全ての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:1~3)とあります。六日間かけてすばらしい世界を造って、神様が満足されたという所で天地創造は終わっていません。七日目が残っていました。確かに六日間で最高のすばらしい世界が出来上がりました。でもその神の傑作を、最終的に完成して祝福することが残っていたのです。

ですから、この日にはもう「夕べがあり、朝があった。」という時間の経過はありません。目的を達成したのです。明るい朝だけなのです。成就したのです。作業をしなくてもいい日なのです。落成式の時には誰も、汚れた作業服を着てはいません。みんな晴れ着を着てお祝いします。この神様の安息、神様の喜びを共に祝うために、この世界が造られたと言って過言ではないのです。天地創造における神の最終目的はここにあるのです。共に喜ぶ、一緒にお祝いすると言うことです。

この天地創造のプロセスは、聖書の中に何度も形を変えて出て来ます。例えば、出エジプト記です。神様がモーセを通して、重労働に苦しむイスラエルの民を、その奴隷と暗闇の世界から導き出したのは何のためでしたか。それは荒野で神を礼拝させるためでした。そしてこの出エジプト記の最終目的は何だったでしょうか。それはあの荒野を通って、約束の地カナンに入ることでした。この乳と蜜の流れる約束の地カナンこそ、神がイスラエルの民を救い出した最終目的だったのです。この約束の地を、「憩いの地」「安息の地」といっています。(詩編95:11)

またモーセが、神からいただいた十戒に示された律法の目的は何だったでしょうか。それは、人間が自分の罪を悔い改めて、神の福音であるイエス・キリストを信じること、これがイスラエルに与えられた安息であるとパウロは言っています。この神の安息にあずかることが、イスラエルの最終的な目的だったのです。神はその日を第七日目として設定されました。完成された聖なる日です。成就された日、完成した日なのです。そこには「夕べがあり、朝があった」という、時間の経過はありません。完成した朝の光だけです。

2.仕事を離れる

この創世記2章2~3節に「神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」という言葉が、二回も繰り返されています。不思議な事ですが、神が仕事を離れたというのです。神様も仕事をするんだなあと思います。実は、他の宗教ではこの神の安息という概念がないのです。特に日本人は勤勉な民族だと言われています。この日本人の勤勉さはどこから来ているのかといいますと、山本七平氏曰く、儒教の影響ではないというのです。儒教の教えでは、働くことが神礼拝と結びついていますので、働かないでいる者は、神に対して礼拝をしていない不信仰、不謹慎なものだと言うことになります。ですから日本人は休まないのです。仕事を休むことは神に背くことになるからです。この辺が、七日目に仕事を離れて休まれた聖書の神とは違うところです。

ところが、中東の人々にとっては、仕事のための時間は、生きて行くための糧を得るために仕方のない労働の時間だそうです(ショグルの時間)。そして仕事を離れて休む時の時間でも、レジャーに使う時間は、子供のための時間であって、自分のための本当の意味での時間ではないというのです(ラアブの時間)。では何が一番大事な時間かいいますと、ラーハの時間といいまして、最も貴重かつ大切な時間だというのです。つまり、レジャーでもなく仕事でもなく、一日ぼんやり何もしないで過ごしたり、読書をしたり、旅に出たり、瞑想したり、祈ったり、眠ったりする時間だそうです。この時間をいかに多く持つかによって、その人の社会的な地位が決定されると言われています。

この天地万物を造られた神の目的は、この最後に仕事を完成して、休むことにあるのです。いつまでも完成しないキリのない重労働では、人は倒れて死にまで追い込まれてしまいます。すべては、仕事を離れて休みに入ることが目的なのです。それがこの第七の日なのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神は全ての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を祝福し、聖別された。」(2:2~3)の言葉の通りです。一週間の最後は、この神と共に安息に入ること、仕事を終えて、神と共に喜び祝うことのためにあるのです。

3.キリストこそ安息の主

そして天地万物を創造して、神が最後に安息に入られたように、既に天地創造の時からこの安息の日が備えられてあるのです。出エジプト記でも、イスラエルの民は、約束の地カナンを目指して荒野を旅しました。あの乳と蜜の流れる約束の地に入って、最後に神と共に安息を得ることを目指して旅しました。

そして第二の天地創造であるイエス・キリストの十字架の救いが、わたしたちにも知らされました。わたしたちはイスラエルの民ではありませんが、神はこの世を愛されて御子イエスキリストを十字架につけ、律法のなしえなかったことを十字架の救いを通して成し遂げて下さいました。そしてイエス・キリストを信じる者はだれも、無条件で天国へと神の永遠の安息へと入れて下さると約束されました。そしてわたしたちは今その神の約束である永遠の命を信じて旅を続けています。

このイエス・キリストにある救いこそ、神が備えたもう第二の天地創造なのです。あの旧約聖書の律法も、イスラエルの民の歴史も、預言者の言葉も全ては、この第二の安息であるイエス・キリストの十字架と復活によって与えられた、神の永遠の救いという安息を目的としていたのです。旧約聖書は、この神の安息であるイエス・キリストを目指して、書かれています。旧約の目的は、最終的な神の救いであり安息であるイエス・キリストの十字架と復活を目指していました。

そしてキリストは、十字架上でその救いの業をご自身の「成し遂げられた。」という言葉をもって宣言されました。そして新約聖書は、その成し遂げられた神の安息であるイエス・キリストの福音から始まっているのです。ですから、ユダヤ教の一週間の最終日である七日目の安息日が、キリスト教では、一週間の最初の日になったのです。成し遂げられた神の安息、平安から一週間が始まるのです。

このイエス・キリストこそ、神の最終的な創造の目的であり、すべての人をキリストの安息へと招き入れることでした。ですから今は、神の安息の時代なのです。イエス・キリストの日なのです。「人の子(イエス・キリスト)は、安息日の主である。」(まるこ2:28)と言い、「疲れた者、重荷負っている者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なん者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28~29)と言われたのイエス・キリストです。イエス・キリストのもとにこそ、真の安らぎと平安、安息があります。

4.主の安息に入ろう

もしわたし達が、この主との安息の時間を怠るならば、すぐに神に対する不平不満の言葉が出て来ます。神様が休むように備えて下さった礼拝も、「日曜日に教会に行かなければならないのですか?」と疑いが出て来ます。喜びの奉仕も、義務になってしまいます。感謝の献金も「こんなに取られてしまうのですか?」と不満になります。伝道も大変だとなります。デボーションも忙しい、そんな時間が取れないとなります。教会学校も、「早く起きれない」となります。SGも「大変だ」となります。

この安息の時間、それは、安息の主であるイエス・キリストと交わることです。主と共にいる時間を取ることです。神の永遠の安息であるキリストはすでに来られました。わたしたちの罪を完全に取り去って、神の前に罪のない者として憩わせて下さったのです。ですから、主イエス・キリストを信じる者は、すでにこの安息に入れられているのです。この神の安息にあずかるように最大限の努力をしましょう。(ヘブライ4:11)それは常に安息の主であるイエス・キリストの御言葉を聞くことです。そして主の御心を喜んで行うことが真のイスラエルです。

あなたの置かれている場所が天国なのです。神との憩いの場所、安息の地なのです。どんな場所でも、どんな状況でも、そこは神が造られた世界です。今は第七の日、キリストの日なのです。あなたがそこで、神に呼び求めるならば、必ず神は答えて下さいます。そして、神様が天地万物を造られた目的は、わたしたちと共に安息に入りたかったからなのです。わたしたちと共に天地創造の世界のすばらしさを分かち合い、喜びを共にしたかったからなのです。既にすばらしい世界、神様の安息は成就したのです。

神の安息は今も続いています。誰でもその安息に与かることができます。わたし達が耳を傾けるならば、目を上げるならば、神の恵みと祝福の御言葉が入って来ます。神様はわたしたちに、呪いではなく祝福を与えようとしているのです。悲しみではなく喜びを与えようとしています。たとえ、深い谷を歩かされる時がありまして、高い山に登らされることがありまして、それも主の創造物です。人生どんな場面でも、そこは神の造られた世界です。

最後に詩篇96:6~7までを読んで終わりたいと思います。
「わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手のうちにある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」
(詩編95:6~7)

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