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神の子羊 (ヨハネ1:19~34)

メッセージ

2015年12月13日富里キリスト教会

「神の子羊」
(ヨハネ1:19~34)

1.光の言

先週は、イエス様の生まれる前はどういうお方だったのかと言うことで、先在のキリスト(=キリスト誕生の前のキリストのあり方と御性質)について学びました。イエス・キリストは天地万物の最初からおられ、父なる神と共におられ、ご自身も神であり、すべてのものを創造されたお方だと言うことを学びました。そしてこの言なるキリストの中には、命があり、すべての人々の心の中を照らす真実の光でもあったということを学びました。御子はみ言葉を持って人々の心を照らす世の光でもありました。しかし、残念ながら世の人は、この光のもとへとは来ようとしないということも事実です。

確かにこの時季、人々は美しい光を求めてあっちのモールこっちのモールへと行きますが、教会の光のもとへとはなかなか来ようとしません。なぜでしょうか。それは御子の光は、人間の心の中を照らす光だからです。ヨハネの3:19以下の御言葉をもう一度読んでみましょう。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行うものは光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
(ヨハネ3:19~21)

人々は光が来ているのに、光の方に来ようとはしないとあります。残念ながら、これに対してはアーメン、そうですと言わざるを得ません。子供でもそうです。子どもだったら全員来るかと思うと、そうでもありません。チラシを配っていますと、素直に取ってくれる子もいますが、「要りません。」ときっぱりと断る子もいます。そしてたとえ誰も来なくても、また少ししか来てくれなくても、このようにして世に向かって大胆に伝道ができること、これがクリスマスの恵みではないでしょうか。子供たちへのチラシ蒔きも、子供クリスマスをやることもある意味ではストレスかも知れませんが、嬉しいストレス、楽しい苦労ではないでしょうか。このプレッシャーがなければ、本当のクリスマスの喜びも湧かないのではないでしょうか。本当のクリスマスの意味を教えるのは、教会だけです。テレビも新聞もイエス様の誕生はあまり出て来ません。クリスマスセールとイルミネーションばかりです。

これほど世の中がクリスマス一色になっても、本当の光であるキリストのもとには、それでも来る人は少ないのが現実です。それは先ほどもありましたが、世の人々は、行いが悪いので光よりも闇の方を好み、暗闇の中へと逃げ込んで行くからです。光はすべてのものを照らします。どんなに隠していても、御言の光はすべてのものを光のもとに暴き出してしまいます。悪い行いをしている人は、その悪い行いが明るみに出されるのをいやがります。ですから、光に背を向けて逃げて行き、暗闇や人ごみに身を隠そうとします。自分の行いや自分の悪い思いが、明るみに出されるのが嫌だからです。

よく大きな石を両手にかけてひっくり返してみると、石の下にうごめいていたいろんな虫が素早く身を隠そうとして、四方八方に逃げて行きます。そして別な石の下に身を隠します。闇に生きているものは光が恐いのです。罪を犯してしまった人間も虫と同じです。身を守る本能のようなものです。自分の悪い行いを知られたくないのです。本当の姿を隠そうとします。アダムは罪を犯した後、裸の体をエデンの園の木の葉の陰に隠しました(創世記3:8)。ユダは主を裏切った後、夜の暗闇の中へと姿を消しました(ヨハネ13:30)。

じゃあどうしたら逃げないで、主の前に出ることができるでしょうか。それはやはり、まず自分の本当の姿、闇の部分、罪の汚れた部分を素直に認めることです。そこに光が当たるのですから。汚れを取ってからとか、もう少しきれいになってからと考える必要はありません。いや光を受けると言うことはもともと、罪の自分、自分の失敗、自分の誤ちをそのまま光にさらすことです。キリストの光にあるがままの自分をさらすことです。そのためには上を向くこと、立ち上がるだけでいいのです。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ、そうすればキリストはあなたを照らされる。』」(エフェソ5:13~14)立ち上がるだけでいいのです。

立ち上がったあなたを光が照らし出しますから。キリストの光が光として一番明るく輝くのは、どこですか?昼ですか、明るい電灯のもとですか。そうではありません。キリストの光が輝くのは暗闇の中なのです。明るい人には光は必要ないと同じように、聖い人にはキリストは必要ないのです。心の暗い人に、心の沈んでいる人に、心に悩みの中にある人の心だからこそ、キリストの光が輝き渡るのです。「光は暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1:5)ですから、あなたの闇をその汚れた体を光に向けるだけで、あなたは光に照らされ、あなた自身も光の子となるのです。(エフェソ5:8)(たとえ話=太陽と月の関係)

2.神の子羊(十字架の言)

どうしてわたし達は立ち上がって、キリストの光を受けるだけでいいのでしょうか。それはまず、あなたが自分自身の中に暗闇があることを認めているからです。自分の心配、恐れ、過ち、汚れ、悪を認めているから、だから、あなたは神の前に立ち上がるだけで、光に照らされ光の子となるのです。なぜなら、神の光は愛の光だからです。恵みの光だからです。神御自身が肉を取ってわたしたちのところに来て下さり、わたしたちと同じような肉体を持ち、御自分の肉の苦しみを持ってわたしたちの罪を贖い、赦し、聖めてくださったのです。

キリストの顔を向けるなら心配はなくなります。主に向き直るならば恐れは取り去られます。主の顔を向けるなら失敗は成功に変わります。主に顔を向けるなら汚れが聖められ、真っ白になります。主に顔を向けるなら悪を憎むようになります。このヨハネ伝に、聖書全体を代表しているような有名な御言葉がります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16~17)

神様が御子を世に遣わされたのは、キリストの命と光によって、世を裁くためではなく、世を救うためであると言っています。どうして御子は、わたしたちを救うことができるのでしょうか。どのようにしてキリストの光は人を救うまことの光となるのでしょうか。それは、1:29にありますように、「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て行った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。』」と。イエス・キリストは世の罪を取り除く子羊として来られたからです。イエス・キリストは世の罪の贖いの供え物として献げられるために来られた神の子羊だったのです。

それはご自身が神の一匹の子羊として、ご自身に罪がないにもかかわらず、この世の罪と汚れと闇のすべてを、ご自分の肉体の上に負って下さり、わたしたちの罪を贖って下さったからです。御子は、十字架の上で、わたしたちの身代わりに神の怒りと裁きをその身に負って下さいました。そして、最終的にはご自身の死を持って一切の罪を、十字架の上で罰して下さったのです。(ローマ8:3)これが神の子羊の役割であり使命でした。こうして、神の子羊であるイエス・キリストの十字架を通して世の罪が取り除かれたのです。

これがキリストの真の光なのです。十字架の光なのです。それは私たちの罪を暴き出して、わたしたちの罪を責め、その罰を負わせるのではなく、むしろ十字架において神は世と和解し、全人類の罪を御子の上で処罰され、御自分の真実の思いを私たちに示されました。それは神がこの世を愛して下さったからです。私たち一人一人をどこまでも愛して下さったからです。そしてこの十字架の御子を信じる者を、罪赦された者として無罪放免にして下さり、罪を帳消しにして下さったのです。そしてわたしたちに神の子としての身分を与え、永遠の命をくださったのです。この十字架の言(キリスト)が、世を照らす真の光なのです。

あの大きな石を取り除けた時に、石の下にうごめくいろんな虫がいます。でも神の子羊であるキリストは、自分自身、あの虫けらの一匹にまでご自分を低くされて、私たちのところに来て下さったのです。それが神の子羊です。イエス様があの十字架の上で最後に言った言葉を覚えていますか?「わたしは虫けらだ、とても人とは思えない。わたしは人間の屑、民の恥だ。わたしを見る人はみな、わたしを嘲笑い、唇を突きだして、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい』と。」(詩篇22:7)

主はあの石の下まで降りて来て下さり、御自分も闇にうごめく虫けらの一人になってくださったのです。しかもそのきたない虫たちの汚れを全て御自分の身に負われ、最後に神様からその怒りと裁きを、わたしたちの代わりに受けて死んでくださったのです。それがあの十字架の贖いの死です。たとえ私たちが別の闇に逃げて行こうとしても、そこにも主は既に来て下さっているのです。主の目とその声は、わたしたちがどこに隠れても呼びかけます。もはや観念してその呼びかけに答えるしかありません。逃げおおせることはできないのです。いや、逃げる必要はないのです。「あなたは赦された。無罪放免だ。わたしはあなたを愛している。」と言っているのですから。

ですからわたし達は、唯ただ主の前に自分のあるがままの姿で、立つだけでいいのです。「罪も汚れも闇もある自分です」と認めたうえで、立ち上がるのが信仰です。いつまでも自分を責めたり、世の中を責めたりするのではなく、また誰か他人のせいにすることも、言い訳する必要もありません。ただ「悪いのは私です。罪を犯しました。違反をしました。」と主に自分を明け渡して立ち上がるのです。その時キリストの光が、立ち上がったすべての人を、照らして下さいます。そして光に照らされた者は、みな光の子になるのです。

3.聖霊のバプテスマ

もはや光を避けて、逃げる必要も身を隠す必要もありません。イエス・キリストの命の言葉の光が、その人を照らしたのです。これが新しく生まれ変わるということです。この神の子羊イエスを見上げる人は、新しく生まれ変わった人です。これが聖霊のバプテスマです。バプテスマのヨハネが指し示したナザレのイエス、世の罪を取り除く神の子羊である方の前に立ち上がる人は、新しく生まれ変わった人です。聖霊のバプテスマを受けた人です。

水がなければ生まれ変われないというものではありません。今は水ではなく、神の霊と水によって新しく生まれ変わる時代なのです。神の霊は聖霊様のことです。目に見えませんが風のようにその人に吹いて来ます。水はこの御言葉です。聖書の言葉、説教の言葉によって人はそれを聞いて生まれ変わることができます。子羊イエスの血がわたしたちの罪を一瞬にして洗い流して下さいます。新しく生まれ変わることができます。その新しい人生の出発を証するのが、この水に入って受ける浸礼のバプテスマです。キリストに従う者となったことを、この浸礼のバプテスマを受けることによって世に向かって表明するのです。

主イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられた時、聖霊が天から下って来てイエスの頭上に留まりました。それを見たヨハネはこう言っています。「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によってバプテスマを授ける人である。」と(1:33)。ですからこの神の子羊である主イエスを信じる者は、聖霊のバプテスマを受けたものです。

イエス・キリストの命の御言葉の光は、今もなお人々の心の中を照らし続けて下さっています。この恵みの光であり救いの光でもある御子イエス・キリストの前に立ち上がりましょう。あるがままで主に委ねて、一歩先に足を踏み出して立ち上がりたいものです。すでに信じている人も、まだ信じていない人も、心の中を主に隠したりはできません。主はすべてをご存じであり見ておられます。キリストは恵みの光として、今もこの世を照らし続けておられます。この主の御声に応えて、主の前にいつも立ち上がるものでありたいと願っています。

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