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神の力は福音の中に (ローマ1:14~17)

メッセージ

2013年1月13日富里キリスト教会
「神の力は福音の中に」
(ローマの信徒への手紙1:14~17)

1.福音のために選ばれた

この一番最初の挨拶のところで、パウロは自分のことを、神の福音のために選び出されたと紹介しています。ここで、パウロは、自分が選ばれたのは、「神の福音のためである」と言っています。そのとおりです。私たちがクリスチャンとなったのも神様の選びにあずかったからですが、それはただ単に、神の子とされ、天国に入るために選ばれたのではありません。神様が私たちを選ばれたのは、神様の目的があったからです。それは、福音のために、福音が前進するために選ばれたのです。

では福音とは何でしょうか。福音の中味は、1:3節以降に述べられていますイエス・キリスト様です(1:3~4)。このお方は、預言者によって約束され、ダビデの子孫として生まれ、わたしたちの罪の贖いのために肉を取ってこの世に来られ、そして十字架の上でご自身を罪の贖いの供え物として捧げられ、死んで三日目に復活されました。そして今は御父のもとに帰っておられ、そこから私たちに聖霊様を下さって救いを与え、私たちを神に属する者とし、更に神の国の福音宣教のために私たちを用いておられるのです。肉の面と霊の面を持っておられるお方です。神学的に申しますならば、「イエス・キリストは真の神にして真の人である。」ということになります。

福音とはこのお方に関するメッセージです。その福音のために私たちは選ばれ、召されたのです。自分の意志ではありません。ですから、パウロは自分がこうして今、福音を宣べ伝えているのは、神に選ばれたからであり、宣べ伝えずにはおれないのだと言っております。神の選びには目的があるのです。1:14~16でこう言っています。「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:14~16)

パウロは神に選ばれたが故に、自分には福音宣教の果たすべき責任があると言っています。福音を恥とはしないと言っています。皆さんはいかがでしょうか。福音を恥じていることはないでしょうか。自分がクリスチャンだということを引け目に思って隠していることはないでしょうか。自分の罪のためにイエス様が身代わりに十字架にかかってくれたとか、このお方は死んだけれども三日目に復活したとか、死んだら天国に行けるとか言ったら、世間の人は「お前は馬鹿じゃないか」と言われかねない内容になっています。あるいは、「お前はそれでもクリスチャンか。」と言われることを恐れたりします。そう考えると、つい福音を語ることを恥ずかしいと思うのではないでしょうか。

でも福音は、この恥ずかしい方法によってしか伝わりません。第一コリント1:21にこういう御言葉があります。「世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」宣教というのは、かっこういいことではなく、むしろ愚かな手段だと言っています。

人間の弱さや愚かさを通して、神の福音は人に伝わるのです。神の力は、そういう弱いところ、愚かなところ、欠けたところ、不十分なところから出てくるのです。ですから、教会では弱さを誇ろう、自分の愚かさを誇ろうと言います。自分をよく見せようとしたり、背伸びをしたりする必要はありません。それが十字架の言葉は、賢い者には愚かなことですが、救いにあずかる私たちには神の力です。

2.神の力は福音の中に

さて皆さん、ではこの神様の力はどこにあると思いますか。どこから来ると思いますか。もう一度、16節からを読んでみましょう。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16~17)

神の力は、まず第一に罪人に救いを与えることができるということです。その人の罪を贖い、赦し清めてくださる力が神にはあるというのです。これが神の力です。そしてその力を福音は持っているのです。福音はどこにあるのか。それは端的に申しますと、聖書です。目の前にあります。わたしは聖書だと言ってもいいと思います。ここに、この聖書の中に福音が書かれてあり、神の力が隠されてあるのです。

ですから、私たちはこの聖書の中から、私たちに救いをもたらす神の力を見つけ出さなければなりません。

パウロは、この福音の内容は何度も申しますが、イエス・キリストだと言っています。17節では言葉を変えてこう言っています。「福音には、神の義が啓示されています。」と。実はこの神の義という言葉が、このローマ書のテーマだと言っていいのではないかと思います。この神の義と申しますのは、週報にも少し書きましたが、一言で申しますと、「神自らが、イエス・キリストを十字架につけて、罪人の私たちを一方的に愛して下さった。そのことによって、神様の義しさ、真実というものを全人類に示されたということです。それがあの十字架のキリストだったのです。こうしてまず、第一に神の義が示され、その次に、この神の義である十字架の主を信じる者を義とする、すなわち信仰を通して罪を赦されるという救済方法を私たちに提示して下さったのです。」

これが神の義の啓示という言葉です。啓示という言葉は文字通り、訓読みをしますと「啓き示す」という漢字です。つまり、人間の側から行く救いの道ではなく、神様の側からの一方通行の救いの道です。この神の義の啓示には、もはやだれも反論も反発もすることはできません。神がこの世を愛し、あなたを選んだのですから。全ての人がこの神の義であるキリストの十字架の前に、己の罪を悔い改めて主を信じ受け入れるしか残された道はないのです。そこには、もはや何の弁解も言い訳も通用しません。この神の大きな恵みに、十字架に御子をつけるほど愛しておられる神の愛にどう答えるかだけです。これが神の義です。

この主を信じる信仰者のみが生き残ると言っています。それが、「正しい者は信仰によって生きる」という言葉です。パウロはこの言葉を、旧約聖書のハバクク書2:4(P.1465)の短い一句の中から見つけ出しました。見てみましょう。「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」と書いています。正しい人と言いますのは、何か善行を行ったから正しいと言っているのではなく、自分の罪を認め悔い改めて、主に従う人生を選び取った人のことです。それが信仰によって義とされた人です。そういう人だけが、真に意味のある生き方、神対して生きる生き方を送ることができるというのです。(以前の口語訳聖書では、「信仰により義人は生きる。」すっきりと訳してありましたが、この共同訳では、少し神の義を信じる信仰の鋭さが薄らいでいるのが残念です。)

3.福音に生きる

信仰によって生きるということは一体どういうことでしょうか。信仰によって生きるとは、福音によって生きることだと言い換えてもいいのではないでしょうか。ではどんなことが福音を宣べ伝える生き方なのでしょうか。三つあります。ひとつは「感謝の祈り」、二つ目は「分かち合いと励まし」、三つ目は「実りを得る」ということです。

A)神に感謝します

パウロの信仰の生き方が1:8以下に述べられています。まず、最初にパウロは、1:8で「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します。」と書いています。彼はローマに行ったことがないにもかかわらず、ローマ教会のことを知って神様に感謝を捧げていました。おそらくパウロがあちこちで伝道している間に、パウロによって救われた人たちがローマに移り住んで、ローマの教会の様子をパウロにも知らせていたのではないかと思います。

ですから、彼はローマ教会の伝道のすばらしさを知って、感謝を捧げておりました。まず福音に生きるということは、まず祈りを捧げる者であるということです。しかも、感謝の祈りです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)祈ることなしには、福音宣教にあたることはできません。そして、喜びと感謝を持って絶えず祈ることです。

B)分かち合いと励まし

二番目に、福音に生きるということは何かと言いますと、「分かち合いと励まし」です。1:11に「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたと私が互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」と言っています。つまり、福音に生きるということ、クリスチャン同士で互いの賜物を分かち合い、互いの信仰によって励まし合うことでもあるのです。

例えば、教会学校の成人科やSGの分かち合い、祈祷会の分かち合いなどが入るのではないでしょうか。しばらく教会から離れていた方が、こうおっしゃっておられました。「礼拝にはまだ行けないけど、家庭で集まって、こうして親しくいろんなことを話して、祈られたり励まされたりすることがとても楽しみです。」と。成人科でもそうです。短い時間ですが、お互いに御言葉を通して励まし合うことができます。

C)実りを得る

最後に、三番目ですが、そのような祈りと分かち合いと励ましがあるところでは、何が起こるでしょうか。そこでは、新しい魂が悔い改めて福音を信じるようになります。早く信仰決心して欲しいと焦る必要はまったくなりません。集まっているメンバーが、しっかりと福音に生きている姿に触れ、その霊的な交わりにあずかっているならば、黙っていてもやがて信じるようになります。なぜか、それは、その神の愛と御言葉の交わりの中に、現に神様が御臨在され、一人一人が信仰を持って生きている姿を見、その生き方に触れるからです。そして、本当にここに神様がおられるという確信を持つようになるからです。これが実を得るということです。救われる魂が起こされるということです。

ですから、パウロは1:13でこう言っています。「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。他の異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。」異邦の地で、多くの異邦人が回心してキリストの福音を信じるようになったと同じように、ローマ教会でもそういう救われる魂が起こされて霊的な実を得ることを願っていました。

またもう一つ、実を得るということは、クリスチャンが霊的に成長するということです。そして、教会が神の愛と恵みと一致のうちに、大きく成長してゆくことです。私たちはそのために、神に選ばれて召された者です。そして果たすべき務め、すなわち福音を宣べ伝えるという責任を負わせられている者です。そして、パウロはこうも言いました。「わたしは福音のためならば、どんなことでもします。それは、私も福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント9:23)と。福音のために何でもする、どんな労苦もいとわない、誠意をこめて全力を尽くしてどんなことでもしますと言っています。それはパウロ自身が、真に福音にあずかる者となって行くためでした。これが「福音のために選ばれたパウロです。」というこの手紙の最初の言葉だったのです。2013年の新しい年も、私たちもパウロのように、更に福音伝道に励んでまいりましょう。(岡田 久)

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