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神のなさることは時にかなって美しい (コヘレト3:1~17)

メッセージ
2020/10/11
富里キリスト教会礼拝説教
「神のなさることは時にかなって美しい」
(コヘレトの言葉3:1〜17)

①人間の限界
コヘレトの言葉では人の儚さ、むなしさ、空の空というものがテーマとして語られています。人生はどれだけ栄華を誇ったとしても絶え間ない繰り返しによるむなしいものだ。コヘレトはそのように語ります。しかし、コヘレトはこの3章では、全人生の多くの場面に何らかの理由とふさわしさがあると考えているようです。対立して不適切な矛盾に見えるかもしれませんが、二者間のこの矛盾こそより大きな全体の一部となっています。コヘレトは自問自答しながら揺れ動いているのかもしれません。行ったり来たりしながら答えを求めているのでしょう。人生とはそのようなものなのかもしれません。
空の空。人は無力感を感じた時にこそ人の限界、空しさを覚えることでしょう。私たち人間は、この科学が発達した世の中では、なんでもできるような錯覚を覚えることもありますが、現実には人間の力ではどうしようもできないこと、コントロールできないことがたくさんあります。その中の一つに今日のテーマに当たる時間、時というものがあります。時間とは、ただただ流れていき、誰も掴むことも、止めることもできません。時をさかのぼることも未来に行くこともできません。「あの時、こうしていたら・・・」そういった後悔を覚え、過去に戻れるものなら戻って現在を変えたい。そういう願望が人間にはあるかもしれません。
その願望を具現化したものがタイムマシンでしょう。ドラえもんのひみつ道具やバックトューザフューチャーなどにでてきますがそれらの作品は大人気です。時間を超えたいというのはできないがゆえの人間の憧れなのでしょう。ドラえもんの話などはまさに人間の願望がすごく詰まっています。ドラえもんのひみつ道具は願いを叶える夢のアイテムです。そもそもドラえもんは、のび太の孫の孫のセワシ君が、のび太があまりにダメ人間で借金を作ったためお年玉が50円しかもらえないことに不満を覚え、過去に戻ってのび太の失敗だらけの人生を変えるために送り出した存在でした。お年玉を増やすためにタイムマシンを使って過去と未来を変えようとしたことがきっかけだったのです。よくよく考えるとすごい話ですね。だれもができるのならばこんなことしたいと思うかもしれません。
しかし、現実、人間にはそのようなことはできません。いくら科学が発達したとしても人が時間を超えることはできないでしょう。なぜなら全ての時というものは、神様のみが超越されており、御支配されているからです。神様は時間という概念を飛び越えた無限、永遠の中を過ごされているお方なのです。

(3:1)
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

全知全能の主なる神様のみが全ての時、タイミング、機会を定めておられます。これを神の摂理と言います。私たちは、その神の御支配、摂理から抗うことはできません。

②時に左右される人の儚さ
人間の人生にはどのような時、機会があったでしょうか。振り返ってみますと自分の意志だけではできないようなこともたくさんあり、自分で決断したと思うようなことでも不思議とそこに神の導きを感じるといったこともあったのではないでしょうか。人間の自由意志を神様は尊重されつつも、その意志も超えたところで神様が深い御思いによって御手で包み込むように私たちを守るように御支配されているのです。少し共に人生の時を振り返ってみましょう。
「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」人の生死というものは時間と同様、人間にできることはなにもありせん。神の定められた時の最たるものでしょう。命は神様によって与えられ、神様によって取り去られるものだからです。創世記には人は神が息を吹きかけて生きるものとなったとあります。他方、奇しくも日本語では死を表す言葉として息を引き取るという言葉があります。人間の命は神が息を吹けかけて起こされ、神がその息を引き取って取り去られるのです。
私は特別養護老人ホームで介護職員として働いていた経験がありますが、夜勤の際、一人であるクリスチャンの利用者さんの死に立ち会うことがありました。その際、なんといいますか不思議と死の瞬間というものがなんとなくわかったんですよね。ああ、今主がこの人の命を息を引き取られた。そういった感じです。不思議とその時私が感じたものは死というものの恐怖ではなく、命を取り去るという神のみわざの厳かさというものを感じました。命の誕生に立ち会うことの素晴らしさと同時に、死に立ち会うことの大切さも感じた経験でした。人の命には神のご計画があり、そこには何人も踏み込むことはできないのです。
また植えるのにも植えたものを抜く時にも時があります。農業には田植えの季節もあれば収穫の時期もあります。それは基本的には定まっており、人間の都合では変えられませんよね。野菜も旬の時期があります。四季折々それぞれのタイミングに人間が合わせていくしかありません。ビニールハウスを使うことぐらいはできますが、人の力で夏や冬をなくすことはできません。
自然を相手にする時、人は何もできません。無力です。天気も予報することぐらいしかできません。自然災害などにあった時、人はまことに人間の限界、弱さを痛感します。
また、泣くのにも笑うのにも時があります。人の感情という内面生活の上にも定まった時があるというのです。人は悲しみの淵にあるとき心から嘆き、泣きます。しかし、それがずっと続くわけではありません。逆に喜びの絶頂で笑う時もあります。しかし、それもまた永遠に続くわけではありません。
「嘆く時、踊る時」という言葉が4節にありますが、これは、嘆く時とは葬式の時を表し、踊る時とは結婚式の時を表していると言われます。人生において人との別れという悲しみから逃れることはできません。また、自分自身や大切な家族や友人の結婚という喜びも必ず人には与えられます。人生にはその悲しみ、喜びどちらの時も必ずあります。これは人の力によって選ぶことはできません。どちらも神様のみわざによってなされることです。
この他にも様々な時があるとコヘレトは語りますが、ようするに人生には良いと思えるようなことも、災いと思うようなこともあり、その人生のあらゆる出来事とタイミングは神さまがすべてお定めになっているということが語られています。
この言葉を受けてみなさんはどう思いますか。人生とはままならないものだ。どうせ自分の思い通りにならない。どうにでもなれ。やるだけ無駄だ。そう思う人もいるかもしれません。
しかし、コヘレトはその人間が抗うことのできない定められた時、神様の御支配、摂理によってなされるみわざは時にかなったものであり、それは美しいとまで言います。

③神のタイミングの美しさ
3:11
「神は全てを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでも、なお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」

新改訳では「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と訳されています。私はこちらの訳の方が好きですし、ふさわしいと思います。人生の中での一つ一つの事柄は全て神様が救いのご計画の中でなされていることですし、そのタイミングは美しいとまで言えます。この神様の時、タイミングとは早いと思う時もあれば遅いと思う時もあります。人にとっては戸惑う時もあるでしょう。
私が召命が与えられた時もそうでした。仕事もプライベートも教会生活も割と順風満帆。いろんなところにもいき、そろそろ香川で落ち着こう。両親には心配と迷惑をかけてきた。せめてそばにはいよう。そう思い、やっと自分自身の人生計画が決まり始めた時。そういったタイミングでの召しでした。私からすると「ええ?今?このタイミングで?」そういった気持ちでした。しかしその時が最善のタイミングだったのです。神様の深いご配慮の中で与えられるタイミングは最善であり、時にかなって美しいものなのです。
神のなされることは最善。それは分かっている。しかしなぜだ。人生には嬉しいこともありますが、災害など悲しいときもあります。悲しみを受け止めきれないときは、きっとそう思うこともあるでしょう。
しかし、人には神様のなされる業における深いみ思いの全てを知ることはできません。私たちには分かっていることよりもわからないことの方が圧倒的に多いのです。人の理性には限界があるのです。私たちはこの人としての限界を踏まえなければならないでしょう。
アダムとエヴァは全てのことを知りたい、神と同じ知識を手に入れたいという誘惑に負け、堕落しました。全てを知りたい。これは神の領域に踏む込むことであり、自分自身を神と同等にしたいというゆるされざる欲求なのです。
私たちにはわからないことだらけです。ただ確実に分かっていることは「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」ということです。そのことを信じることしか私たちにはできないのです。しかし、主は憐れみ深いおかたです。以前の説教でも語りましたが、その時はわからなくても主に信頼し、主の道を歩み続ければ振り返った時、ああ、あの時のことはこういう意味だったのか。そのような気づきをあたえてくださることもあります。
なにより主は私たちを、この世を愛しておられます。主はそのような私たちに石やヘビではなく必要なものをお与えになるお方です。私たちのことをこよなく愛しておられるからです。全てを私たちのためにささげて十字架上で血潮を流し続けられ、命がけで愛してくださっているお方です。そのようなお方は、私たちに良いものしかお与えになりません。信じるに足るお方なのです。
私たちの人生における嬉しいことも悲しいことも全て、神のご計画、摂理のうちにあるものです。この神の摂理に信頼を置いたとき、私たちの信仰はより堅固なものとなり、順境においても逆境においても平安の中、神様と共に歩むことができるようになっていきます。ハイデルベルク信仰問答ではこのように書かれています。

問28
「神の創造と摂理を知ることによってわたしたちはどのような益を受けますか。」


「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実なる父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちから引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。」

④人間の本分
神の摂理、その御手の中で生きていく。これが人の人生です。しかし、人は自分で何もできないのでしょうか。じゃあ、一体人は何を楽しみにして、生きていけばいいのでしょうか。コヘレトはこのように言います。

3:12−13
「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人誰もが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。」

神様が御支配されている「時」には囚われず、全て委ねてお任せする。過去を振り返って後悔せず、見えない未来に不安を覚えず、目の前にある今をしっかりと見る。するとそこには恵みが溢れていることに気づくのではないでしょうか。コヘレトはその目の前にある神の恵みを両の手で受け取り、喜び、楽しみ感謝することが人間にとって最も幸福だと言います。
生きていくための労苦、仕事が神によって与えられ、それによって食べ物、飲み物も与えられる。その日々の糧を喜び、楽しむ。これは決して享楽的な願望ではありません。神様から与えられた賜物として、喜んで受け取って生きていくといくことです。ささやかでもいい。日常の幸せを噛みしめるということです。
また、神の賜物とはここには書かれていませんが、何も食べ物や飲み物だけではないでしょう。神様が私たちに与えられたこの身体。この身体を用いて人はスポーツを楽しむことができるでしょう。また豊かな自然も神様が私たちに与えてくださったものです。ハイキングやアスレチック、キャンプ、釣り、山登り、ガーデニングなど自然を通して私たちは人生を楽しむことができます。また、私たちは神様に似たものとして造られました。その神様の創造性、クリエーティブな一面が与えられ、人は何かを生み出す、作り出すということに喜びを感じます。その一つの表れが芸術と言えるでしょう。私たちは人間が創り出す音楽や絵画、また映画や文学などの芸術を喜び楽しむことができるでしょう。神様は私たちに本当に豊かな恵み、賜物を与えてくださっているのです。その与えられた恵みの中で喜び、楽しむ。これが人間の本分なのです。

◎結
最後にコヘレトは、この世の一番の矛盾について言及します。それは、この世はなぜ不正なものが栄えて権力を握り、正しいものが虐げられるという理不尽な世界となっているのかということでした。ここでコヘレトは再び神様に目を向けて慰めを見出します。私たちもここにこそ最も委ねるべき事柄があるでしょう。
その慰めは、神の裁きのときは必ず来るということです。その時がまだ来ていないというだけです。全ての人が神のみ前で裁かれます。そのさばきは厳正にして公正であります。どんなにこの世で栄えていても最後には必ず報いが待っています。
ですが、ここでもう一方で覚えたいこともあります。それは、実は私自身こそがこの悪人で本来裁かれる者であったということです。しかし、私たちは裁かれません。なぜならすでに主イエスが十字架の贖いによって全ての罪を背負って私たちの代わりに裁かれたからです。その愛のみわざによって、主は私たちを永遠の裁きではなく永遠のいのちを与えてくださったのです。
私たちは限りある時間の中を生きる有限な人間ですが、神様は時を超え、時を支配される無限、永遠の中を生きておられるお方です。そして、神であるイエス・キリストは永遠そのものであります。3:10節で神は人に永遠を思う心を人に与えられたとありますが、それ以上に永遠そのものであるイエス・キリストを神様は私たちに与えてくださりました。この主イエス・キリストを信じた私たちは、死後に永遠のいのちが与えられるだけではなく、もはや今、すでにその主の永遠の中で生きているのです。
この世での人間の人生の時間とは限られており定められたものですが、私たちが神と共に生きるとき、その神の時の御支配の中にありながらも、時を超えた神の永遠の中で生きていくこととなるのです。時間やタイミング、出来事にとらわれなくなっていきます。人生の一つ一つの出来事に一喜一憂せず、神の摂理に信頼を委ね、主の永遠の中を生き、目の前にある賜物を感謝して喜び、楽しんで生きていきましょう。

武井誠司

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