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神のことばの実現である (ヨハネ19:17~30)

メッセージ
2020/04/05
富里キリスト教会礼拝説教
「神のことばの実現である十字架」
ヨハネ19:17−30
武井誠司

① ゴルゴダに向かうキリスト
イエス・キリストが十字架につけられた場所は、エルサレムの都の外であったと言われています。そこは、ゴルゴダの丘と呼ばれており、ゴルゴダとはされこうべ、いわゆるドクロの丘という意味になります。なにやら不気味な名前ですね。骨、特に頭部の骨、ドクロには死者の魂が宿るといった考えが昔からある一般的な日本人にとってはなおさら、気味の悪い響きかもしれません。しかし、その不気味な丘が、この世で最も残忍で、苦痛の伴う死刑の執行場所だとしたらどうでしょうか。これほどしっくりくる場所はないかもしれません。そのような場所にイエス様は、ご自分で十字架を背負いながら、向かいました。
そして、そのドクロの丘でイエス様は十字架につけられました。両側に他の2人の犯罪人も十字架につけられました。イエス様の右と左、その両側に犯罪人が十字架につけられたことは全ての福音書に書かれている、とても有名な事柄です。特に印象深いのはルカ福音書に書かれている、イエス様がその犯罪人に向かって「あなたは、今日わたしと一緒にパラダイスにいる。」と言った話でしょうか。罪も汚れもないイエス様が犯罪人と共に十字架にかかったことには、重要な意味があるように思います。
そして、ヨハネは特にここで「イエスを真ん中にして十字架につけた」と独特の表現をしています。真ん中につけた。世界の中心、全ての中心、全ての権威を持って私たちの真ん中で王として君臨するイエス様。しかし、その王としての姿は城や宮殿、神殿でもなく、罪人と罪人の間、真ん中に、ドクロの丘の真ん中に十字架にかけられる中で表されたのです。王冠や軍服を着て玉座に座る王ではなく、罪で苦しむ私たちのために自らを犠牲とされ、その間、私たち罪人の真ん中に立ち、血を流し苦しまれた。この十字架の苦難が私たちの王として君臨する姿なのです。

② ピラトとユダヤ人のやりとり
この事実を知ってか、知らずか。いや、何も知りはしなかったはずのピラトは奇しくも「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを書いて十字架の上にかけました。しかも、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語と3カ国語で。ピラトは、全ての人に読めるようにそのようにしたのかもしれません。しかし、このことの最も大きな意味は十字架につけられたイエス様の王としての権威、神の国の支配が全世界に及ぶことを明確に表しているということです。
まことにイエス・キリストというお方はユダヤ人の王であるだけではなく、世界の、私たちすべての人間にとっての救い主であり、王なのです。ドクロの丘で最も残忍な死刑法である十字架刑につけられ、血を流し、苦しみの極みにいたイエス様。その頭上には3ヶ国語で書かれた「ユダヤ人の王」という罪状。そこにいた誰もが気づいてはいなかったでしょうが、その痛々しい光景こそが神の国の到来を表していたのです。
他方で、そのような光景の下でピラトとユダヤ人たちは揉め始めます。ユダヤ人の王とは書くなと祭司長たちはピラトにクレームをつけるのです。彼らにとってはイエスがユダヤ人の王と罪状であれ書かれることは、我慢できないものでした。どこまでもイエス様を受け入れようとしないユダヤ人の頑なさ、高慢さが伺えます。しかも、彼らは15節でイエス様を十字架につけたい一心で「わたしたちには、皇帝の他に王はありません。」などと言っています。彼らは、本来はローマ帝国の圧政から解き放ってくれるメシア、王を待ち望んでいたはずです。しかし、イエス様への嫉妬、怒りに囚われていた故にそのような矛盾した発言と行動をとり続けました。
逆に、ピラトは、もともとイエス様に罪を見出せず、釈放しようと努めました。しかし、ユダヤ人に脅され、自己保身のゆえに彼はイエス様を十字架刑に処しました。そんなユダヤ人に対してのあてつけ、嫌がらせゆえの罪状だったと思われます。そして、腹立たしいユダヤ人の意見を突っぱねるわけです。
十字架という神の国の到来という光景の下では、悲しくもピラトや祭司長たちの浅ましい姿、この世を支配している人の罪が対比されるように表されています。そして、その浅ましい彼らの姿は私たちそのものといえるでしょう。しかし、そんな私たちすべての人間のために、罪の支配から解き放つためにイエス様は十字架にかかり、王として神の国の到来を苦しみの中、静かに表されていたのです。

③ 一つ目の実現―成就
十字架での出来事はすべての福音書に書かれていますが、それぞれに特色があります。すべての福音書に書かれているような事柄もあれば、一つの福音書にしか書かれていないこともあります。このヨハネ福音書における受難のシーンでの一つの強調点は、「聖書の言葉の実現」ということです。この言葉がここでは2回出てきます。

23、24節
「兵士たちは、イエスを十字架につけてからその服をとり、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで『これは裂かないで、誰のものになるか、くじ引きで決めよう』と話し合った。それは、『彼らは私の服を分け合い、私の衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。」

この衣服のくじ引きの出来事はすべての福音書に記載されています。それは、この十字架の出来事があらかじめ預言されていることであったことを言いたかったのでしょう。詩篇22篇をお開きください。「私の神よ、私の神よ。なぜ、わたしをお見捨てになるのか」という言葉から始まり、19節では「私の着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く」とあります。この詩はイエス様が生まれる、はるか昔のダビデの詩です。ダビデをとおしてすでに十字架の苦難が預言されていたのです。
そしてヨハネは、この十字架の苦難とは聖書が私たちに約束されている救いの実現、成就であるということを強く主張しているのです。ここでの「実現」という言葉はギリシャ語でプリーローという言葉です。この言葉はいっぱいになる、満ちる、時が満ちるというニュアンスがあります。ヨハネ17:1の「父よ、時がきました。」という言葉や逆にカナの婚礼のときのヨハネ2:4「私の時はまだ来ていません。」といったときのイエス様の言葉がこのプリーローです。
いよいよ、時が満ち、救いの完成が近づいてきたのです。アダムとエバが蛇の誘惑を受け神様との約束を破り、罪に陥ってしまったその時から即座に主は救いの計画を私たちのためにお立てになりました。蛇であるサタンに「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」と宣言したのです。これはイエス様の苦難と十字架の預言を表しています。そして、その約束は、旧約聖書におけるアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセ、ダビデと続き、このイエス・キリストの十字架の苦難によって約束が成就されようとしているのです。罪の世界に陥った私たち人間を再び神様ご自身の元へと取り戻し、救いだすという約束の成就です。全ては愛と憐れみに満ちた神様のご計画です。その聖書の言葉の実現こそがイエス・キリストの十字架なのです。

④ 女性たちとイエス、母との別れ
そんな十字架にかけられたイエス様のそばには、ある人たちがいました。それは多くの女性たちです。女性が側にいたことは全ての福音書で記載されています。多くの男性の弟子たちは怖さのあまり逃げ出してしまったのに対して彼女たちの信仰の強さをみます。男はだらしないものですね(笑)。まあ、単純に男だから、女だからというつもりはございません。しかし、この場面では女性たちであるからこその理由があったと思うのです。そこに、女性を1人の人格として認め、目を留め続け、ときに癒し、憐れみ、愛され続けられたイエス様が浮かぶのです。
当時、女性や子どもは数のうちに入っていませんでした。極端に言えば1人の純粋な人間とは見られていなかったということです。しかし、イエス様はどうでしょうか。マルタ、マリヤ、マグダラのマリヤ、サマリヤの女、長血の女、姦淫を犯した女、などなど。イエス様ご自身から女性に近づき1人の人間として見て、関わってくださりました。当時の社会状況においてイエス様の女性、さらには社会から忘れられていたような弱い存在に対する接し方は異例中の異例、ありえないことでした。そんな女性たちのイエス様との出会いはもしかしたら男性以上の言いようのない喜びがあったのかもしれません。それゆえの行動だったのではないでしょうか。
そして、その女性の中にはイエス様の母マリヤもいました。ここでイエスさまは、カナの婚礼の時のように母親に「婦人よ」と声をかけます。時はまだきていないと言った時と違い、今こそが時だといわんばかりです。そして、愛する弟子ヨハネにマリヤを託します。
このような状況で目の前に母親がいたら皆さんだったらなんと言うでしょうか?普通は「助けて、お母さん。」とか「苦しいよ。」とかではないでしょうか。少なくとも私であれば絶対そうです。しかし、イエス様はここでも「婦人よ。」と他人行儀です。母親に親子の情を見せません。
イエス様はご自分の使命を全うすることに全力を注いでいました。人としてこの世に来られましたが、それは家族との温かい団欒のような幸せを味わうために来たのではありません。私たち人間の全ての罪を全て背負い、受けきるため、十字架にかかり、苦しみの中、死ぬために来られたのです。これがみこころでした。私たちはこの事実を重く受け取らなければなりません。

⑤ 二つ目の実現―成就
28節
「この後、イエスは、全てのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」

十字架に架けられ、イエス様が苦しみを受け続けられるなか、ここでまた「聖書の言葉の実現」というフレーズが出てきました。渇ききり、死の中に打ち捨てられる、渇いたときに酢を飲ませたなどの表現がこれまたダビデの詩篇22編や69編の中に描かれています。ここにも預言の実現、成就がありました。しかし、注目したい点があります。実は、ここでの聖書の言葉の実現というフレーズの中の「実現」と言う言葉は先ほど挙げた、一つ目の実現、プリーローとは違う言葉が使われているのです。ここではテレイオーという別の言葉が使われています。この言葉は、先ほどの時が満ちると言った意味ではなく、完了した、成し遂げた、全うされた、完成された、そういったニュアンスの意味です。一体、イエス様は何を成し遂げられたのでしょうか、何が完了したのでしょうか。それは、十字架の苦しみを受け切ったということです。ご自身が血を流し続け、渇ききるまで苦しまれ、耐え抜きました。それは、私たちへの愛を注ぎ尽くしたといっても良いでしょう。
全知全能の神でありながらも人という弱い器となり、私たちの感じる痛みを全て余すところなく受け切ってくださったのです。ずっと高みにいて、見下ろししているのではなく、人となり苦痛を伴われたのです。人としての辛さ、痛み、苦しみ、悲しみを体験されたがゆえに、私たちの思いを全て理解し共感してくださる。私たちの信じている神様はそのようなお方なのです。

ヘブライ人への手紙2:18
「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

と、ある通りです。
十字架は私たちを救うための神様のご計画の実現であります。そして、そのご計画のために、人となられた御子イエス・キリストご自身が苦難のしもべとして、そのみこころを従順に全て受け切った、まさに成し遂げた苦しみの実現でもあったのです。
そして、最後にイエス様はぶどう酒を飲み「成し遂げられた」と語られ、息を引き取られました。この言葉も先ほどの「実現」テレイオーとほぼほぼ同じ言葉です。成し遂げられた、完了した、完成された。そういう意味です。そうです、完成されたのです。全ての罪を背負い、その苦しみを受け切った。それは救いが、今、完成したということです。このテレイオーという動詞が名詞となった言葉をテロスと言います。終わり、目的、目標、ゴールという意味です。十字架につけられ、痛み、苦しみ、私たちの救いを完成させることこそがイエス様の目的であり、最終目標だったのでした。

⑥ 神の怒りと神の愛
なぜ、ここまでされなくてはならなかったのでしょうか。イエス様はここまで苦しむ必要はあったのでしょうか…。ひどい、残虐だ。そう思う人もいるかもしれません。しかし、ここで私たちは自分の罪の問題の深さと向き合わなければなりません。私たちは罪人です。誰1人例外はいません。全ての人が罪によって自分も人も傷つけてしまうのです。これは、戦争が途切れない世界の歴史を見ても明らかですし、自分の心と向き合った時、罪に縛られている自分の心がそこにあるという現実から逃れられる人はいません。
自分の心と向き合ってみてください。自己中心で、高慢で、あの人をどうしても許せない、憎んでしまう。神様や人の言葉に対しても頑なになってしまう。そもそも神様への信頼ではなく自分の力で生きていこうとする。そういった心はありませんか。少なくとも私はあります。程度の問題ではありません。人と比べることでもありません。そういった思いがあるかどうかです。罪から逃れられる人などいないのです。
そして、聖書は罪の報酬は死であると語っています(ローマ6:23)。私たちはそのさばきから逃れられることはできないのです。本来、私たちが十字架にかかっていななければならないのです。そして、神様は、罪をさばかなければならない聖であり義なるお方です。神さまはさばく側であり私たちはさばかれる側なのです。
厳しい罪の現実です。しかし、神様はその罪の問題の解決を信じられないような愛によってなされました。それは、神様ご自身が人となってさばかれるということでした。
例えて言いますと、ある正しい裁判官がいたとします。そして、その子供が罪を犯してしまい法廷にたち、裁判を受けることになりました。判決を下すのはその父親である、正しい裁判官です。父親は、その子へのかわいさあまり、そのまま無罪にするということはできませんでした。それは、正しさを曲げることになり、健全な子供への愛ではないからでした。でも父親は子どものことを心から愛しており、どうしてもさばかれずにすむようにしたいと思い、とんでもないことをして解決したのです。そう、罪を見逃すことができない正しい裁判官はその子供への愛ゆえに、自分がそのさばきを受けるという手段をとったのです。
めちゃくちゃです。こんなことルール違反も甚だしいですよね。でも、そんなこと関係ないんです。なりふり構わず、その信じられないような深い愛で何が何でも私たちを救い出したい。そう思い、自らが人となってその罪を背負い、苦しみ、身代わりとなって死なれ贖った。それが神様のみこころであり、イエス・キリストの十字架の恵みなのです。
私のせいで、私のせいでイエス様は十字架に架けられ、苦しみ、死なれました。私たちの罪のゆえに。しかし、また一方で私のために、あなたのためにイエス様は十字架にかけられ、苦しみ、死なれました。神の愛ゆえに。
私たち自身の罪の深さを知れば知るほど、十字架に表された神様の愛の深さを知ることになります。どうか、この一週間はその両面を噛みしめる時といたしましょう。

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