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神に選ばれた兵士 (士師記7:1~8)

メッセージ
2017年9月17日富里キリスト教会

「神に選ばれた兵士」
(士師記7:1~8)

1.3万2千人から1万人へ

「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミデアンの陣営はその北側、平野にあるモレのふもとにあった。主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミデアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったというであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。』こうして民の中から2万2千人が帰り、1万人が残った。」
(7:1~3)

実はこの時、敵のミデアン人の連合軍は13万5千人の大軍でした。ですから、イスラエル軍が3万2千人ですから、人数からみたら多勢に無勢です。とても勝ち目はありません。それでもギデオンとその呼びかけに応えて戦おうとする民が、あちこちから集まってくれたのでした。そして、なんとか3万2千人のイスラエルの民が立ちあがったのです。ギデオンも、「確かに多勢に無勢で、勝ち目はないかもしれないが、それでも3万人以上も集まったのだから、何とか互角に戦ってみせる、もしかしたら勝利するかもしれない。」と考えていたのではないでしょうか。

ところが神様は、3万2千では多すぎるというのです。わたしは多くはないと思いますが、神様の目から見ますならば、多すぎるというのです。だから勝たせるわけにはいかないというのです。その理由は、この人数で勝たせると、自分たちの力で勝ち取ったのだと言って心がおごり高ぶるので、もっと人数を減らすというのです。ですから神様が「多い」と言ったのは、おそらくもっと人数を少なくして、誰が見ても奇跡に近いような勝利を与えることによって、この戦いは人間の力ではなく、神の力による以外にないということを教えるためだったのではないでしょうか。

そして人間に、どんな場合でも、どんな信仰の戦いでも、人間の力ではなく神の力による以外に勝利はないと言うことを教えるためだったのです。それはあの指導者ヨシュアに語られた、神の励ましの言葉にも出ています。「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われる。・・明日に備えて自分を聖別せよ。罪を除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない。」(ヨシュア1013)と。またモーセに対しても主はこう言われました。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14:14)

つまり、神が戦いの主人公であること、そして神が戦って勝利を与えられると言うことです。あなたがたの戦いではない、神の戦いなのです。むしろ私たちは自分が非力なこと、何もできないこと、力も予算も人数もないことを認めて、神に目を注いで神の力と救いと勝利を待ち望む以外にないということです。そのことを教えるために、主はヨシュアの虎の子の軍隊を、「まだ数が多すぎる」と言ったのではないでしょうか。戦われるのは主なのです。主が戦い、主が勝利を下さるのです。民の軍隊ではないのです。

ですから、軍隊の数や武器の数を見て恐れを感じている者を、主の戦いには参加させませんでした。「恐れおののいている者は皆帰れ、ギレアドの山を去れ。」と命じたのです。少しくらいは隊列から離れるかと思っておりましたら、何と2万2千人もの人が抜けたのです。約三分の二の人たちが、参加はしたけれども、恐怖心に震え心配と不安でいっぱいだったのです。おそらくギデオンもガッカリしたのではないでしょうか。今は猫の手も借りたいほど、人が必要な時です。しかし、本当に敵と戦うという信仰をもった者は、三分の一しかいなかったのです。

2.1万人から3百人へ

三分の二の人々が、戦う気力を無くして帰って行ってしまって、ギデオンも気落ちしたかもしれません。いやそれでも1万人いれば、何とか信仰を持って戦えると思っていたのではないでしょうか。しかし、この最後の1万人に対しても、神様は「まだ多すぎる」と言ったのです。

「主はギデオンに言われた。『民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと行くべきでないと告げる者は行かせてはならない。』彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。水を手にすくってすすった者の数は3百人であった。主はギデオンに言われた。『手から水をすすった3百人を持って、わたしはあなたたちを救い、ミデアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分のところに帰しなさい。』」(士師記7:4~7)

この水を飲ませることによって選抜した第二のテストで、残った者はたった3百人でした。後の9千7百人は、みな水を飲む際に、膝と手をついて、まるで犬が水を飲むようにして直接口にしたのでした。おそらくよっぽどのどが渇いていたのでしょう。がぶがぶと飲んだようです。ところがそのうち、ごくわずかの3百人だけが、慎重に水を手ですくって口につけたのでした。

私は、これはどういう意味があるのだろうかとしばし考えてみました。前回の第一回目のテストで、神様は人間の心の中に潜む恐れや恐怖心をあぶり出しました。表面的には勇敢な顔をして武装しているかもしれませんが、心の中は分かりません。案の定、怖い者は帰って良いと言いましたら、三分の二が帰って行ってしまいました。さて、今度は一体何をテストされたのでしょうか。

つまり神様は、表面的には戦う恰好をしている人、勇敢に見えます。でも人間の本質は、思いがけない時に露呈してしまうことがあります。普段の何気ない動作の中に、その人の本性が見えるのです。そこで神様は、何か疲れるようなことをした後で、水を飲ませました。そして実はもう既に戦いは始まっていました。兵を招集した時点から戦闘は開始されていたのです。その戦闘の最中にもかかわらず、93%の人が両手両膝をついてひたすら水を飲んだのです。皆さんいかがですか。これで勝てるでしょうか。

つまりこのテストは何かと言いますと、既に戦いは始まっている。そういう心構えで、気を配って慎重にあたりを見ながら、水を飲んでいるかどうかを試したのではないかと思います。つまり、敵の襲来に対して慎重に、常に戦闘モードでいるかどうかです。実際、片膝をついて、水を手ですくって飲むとどうなるでしょうか。実際にやってみました。左手には剣を持っています。そしてそれを持ったままで、右手で水を救います。目は水を飲みながらも、周囲に行っています。逆に両手両膝をついて水を飲むと、手が地面をつかんで塞がってしまいます。でも膝を立てて飲むと、手は使えます。つまり、飲む前に手を使って神に祈ることもできます。御言葉の剣を持ったままで飲むこともできます。

逆に、かがんで水を飲むと言うことは、両手が地面をつかんでいますので、神に対して祈るということを忘れて、自分の必要を第一とする人のことです。早く渇いた喉に水を持って行きたい。早く空腹を満たしたい。自分の必要を第一としています。主はそのことを試されたのではないかと思います。そういう人は神の兵士にふさわしくないと考えました。片方の手で御言葉の剣をしっかりと持つことです。もう一つの手で、神に対して祈ることです。何事もまず神を第一にする兵士を主は求めました。

3.神の兵士の覚悟

主イエスが、御自分の弟子を召される時にも同じようなことがありました。主イエスが「わたしに従って来なさい。」と言いました。そうしましたら一人の弟子が、「まず、父の葬儀が終わってから従わせて下さい。」と言いました。するとイエス様が「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは出て行って神の国を宣べ伝えなさい。」と言いました。また別の弟子が、「従って行きますが、まず家族にお別れを言わせて下さい。」と言いました。するとイエス様が、「手をすきにかけてから、後ろを見る者は神の国にふさわしくない。」と言われました。(ルカ9:59~62)

つまりこの水飲みのテストと言いますのは、まず神の国を第一とするか、自分を第一とするかというテストだったのです。そういうその人の心の中のいちばん深い霊の部分を探るためには、一瞬の生活の態度や言葉で瞬時に判断されるのです。神様はそこを見ました。両手をついて口で水を飲もうが、片膝をついて水を手のひらですくって飲もうが、大きな違いは無いように思いますが、その小さな行為の中に神への忠実な信仰が現われていたのです。そしてそのようにして従った者は、全体のたった3パーセントしかありませんでした。

ですから人数ではないような気がします。人数が多ければ伝道が前進するというとそうでもありません。多くても少なくても、まず神を第一として、絶えず祈りに専念することです。戦って下さるのは、神様です。わたしたちはその神様の奇蹟的な救いの業を見るだけなのです。出エジプト記のモーセに語られた主の言葉の通りです。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14:14)

こうも言いました。「イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない。」(ヨシュア記7:13)とも言いました。そのために選抜でもあったわけです。真に主に従う忠実な聖別された戦士として、立ちあがらなければ敵に向かうことはできません。今日主の前に、自分の罪を告白し、悔い改めて主の戦いに備えましょう。主は必ず勝利をもたらして下さいます。日々の霊の戦いに勝利するように、今週も御言葉の剣を絶えず手に握りしめて、目を覚まして手を合わせてひたすら祈って参りましょう。        

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