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神に従う

メッセージ

2009年10月18日富里教会
            「神に従う
           (使徒言行録5:17〜32)

1. 命の言葉を残らず民衆に告げなさい
今朝は、使徒言行録の中から、イエス様のことを力強く伝道して来た初代教会の姿を共に見てみたいと思います。5:17〜20を見てみましょう。「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った」とあります。

ここでは使徒たちに対する、ユダヤ当局の迫害のことが記されています。なぜ、祭司達はキリストの弟子たちを迫害したのでしょうか。それは、一つには、ユダヤ人がこぞってイエス・キリストを信じるようになったためでした。ユダヤの指導者たちは民衆が弟子たちのほうに行き、続々とバプテスマを受けて信仰に入るのを見て、ねたましく思いました。「ねたみに燃えて」とあります。イエス・キリストを十字架につけたのもこの祭司たちのねたみでした。人間のもつねたみが人々の目をくらませ、正常な判断を奪ってしまうことがあります。そのことを私たちも気をつけなければなりません。

また、もう一つの迫害した理由は、28節後半に「それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」とあります。すなわち、福音を聞くものに鋭く罪の悔い改めを迫るからです。彼らは自分の罪を認めないが故に、命の言葉に耳をふさいで、使徒たちを捕らえて投獄したのでした。

しかし、主の天使が彼らを助けました。どんな窮地にあっても、主が共にいて働いて下さり、弟子たちを危険から救い出して下さるのです。そして、牢の外に連れ出して、「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じました。30節に更に詳しくペテロが語った命の言葉の内容が述べられています。少し読んでみましょう。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私達はこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(5:30〜32)。命の言葉、それはイエス・キリストの十字架と復活、そして罪の悔改めと赦し、聖霊の賜物と聖霊による証です。これが命の言葉です。これを残らず民衆に語りなさいと命じました。

2. 神に従う
ペテロたちは天使によって、夜中に牢から解放されました。そして21節をみますと、もうその日の夜明けには、神殿の境内で御言葉を教え始めています。祭司長たちはペテロが牢にいないと知って、再度、神殿で説教していたペテロを逮捕に向わせました。しかし、大勢の民衆が熱心に聞いていましたので、民衆の手前手荒な扱いをしないで、使徒たちをもう一度、最高法院に連れてきて尋問しました。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」と大祭司が言いました。その時、ペテロはこう答えました。29節、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

どんなにユダヤ当局から、あのイエス・キリストの名を説いても、教えてもならないと厳しく命ぜられ、脅かされても、ペテロ達は動じませんでした。大祭司の命令ですから、今日で言いますと、最高裁の判事、総理大臣、国会の議長であるような大きな権威を持った人が、命じたわけです。そういう人が命じたにもかかわらず、ペテロ達は神の権威に従う方を選びました。

イエス・キリストこそ真の救い主だと証した時に、この最高法院に集まっていた議員たちは激しく怒り、彼らを殺そうとさえしました。何がいったい彼らをそこまで怒らせ、抹殺しようと決心させたのでしょうか。それは、やはり弟子達が人々の罪を露わにし、「あなたがたが、あの神の子イエスを十字架につけたのだ、全ての人はあのキリストの死に関係がある。いや、あなたがたの罪がイエスを十字架につけたのであるから、人が救われるためには自分の罪を悔改めて、十字架のキリストを信じなければならない」と説いたからでした。福音は唯単に救われると言うメッセージだけではなく、あなたの罪があの神の子キリストを十字架につけたのだ、そしてその責任をあなたは、今問われているのですという内容です。その時、ある人々は不安を感じ、落ち着きを失います。

3. 神から出たもの
その時、律法の教師で民衆から尊敬されていたガマリエルが、次のように言って議員たちをなだめて使徒を救いました。38節〜39節に「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」

神から出たものか、人から出たものか、それはおのずと明らかになってくるというのです。確かにこれは正しい判断かもしれません。私たちも時には、何が正しく何が間違ってるか分からずに、お互いに議論したり反目したりすることがあります。でも、神から出たものであれば、それは自ずと歴史が証明してくれます。確かに、ペテロ達が生きている間は、キリスト教も小さなグループに過ぎませんでした。でも彼らは、たとえ少数派でも、小さなグループで、小さな運動であったとしても、聖霊様の力と確信によって福音の真理とその勝利を信じていたのです。正しいことはやがて歴史が証明します。やがて天から主が再びやってくれば、全てのことが明らかになります。

ですから、私達はたとえ日本において、1パーセントにも満たないクリスチャンの数ですが、この伝道が、この教会が神から出たものであることを信じて疑いません。いくらチラシを蒔いても蒔いても、教会に足を運ぶ人が起こされない時もあります。伝道が時には徒労に思える時もあります。でも神様は、私達が神の御言葉に忠実に従うかどうかをご覧になっておられます。

イエス・キリストの生涯が、まさにそうでした。伝道し奇跡を行い、多くの人々をひきつけました。しかし、その最後は、一番信頼していた弟子たちからも裏切られ、たった一人で、いわば非業の最期を遂げられたのであります。全くの無駄な人生、失敗と挫折の人生のように人々の目には見えました。しかし、主は、どこまでもお父様の御心に従って、最後の最後まで神様に信頼し、服従して十字架に向われたのです。神様は私達がどこまで、主の御言葉に忠実かどうかを、天から見ておられるのではないでしょうか。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。」(フィリピ2:6〜8)とフェリピ書にあります。神に従うと言うことは、ある意味では、へりくだるということでもあるかもしれません。心も体も全てへりくだる時、私達は初めて神様に従う人生と言えるのではないでしょうか。その時怖れは消え、たとえ十字架の道でも感謝をもって、選び取って行くことができるのではないでしょうか。

人から伝道や証をすることについて非難されたり反対されたり、軽蔑されたりすると、すぐに引っ込んでしまいそうな弱い私たちです。家庭で職場で自分がクリスチャンであることを公に言えない時もあります。でも神様は、私たちを聖霊様によって励まして下さいます。これは神から出ていることです。祈ることから始まる働きです。へりくだって、主に仕えるように隣人に仕えて証をさせて下さいます。

彼らは、あの逮捕された神殿の境内で恐れることなく、続けて語り続けました。また、家々でも福音を語りました。しかも、毎日です。これは全て神から出ていることです。神に従う者の姿です。私たちの心がへりくだるならば、たとえ、反発や抵抗や恥ずかしいことがあっても、この命の言葉を、すべての人々と分かち合って行くことができるのではないでしょうか。私たちも、どこまでも主の御跡に従ってゆく者でありたいと願っています。
                                    (岡田 久)

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