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神にはできないことはない (ルカ1:26~38)

メッセージ
2017年12月10日富里キリスト教会

      「神にはできないことはない」
                                     (ルカ1:26~38)

1.主が共におられる

「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアといった。天使は彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」(ルカ1:26~28)

6ヶ月目といいますのは、マリヤの親戚のエリザベトが妊娠してから6ヶ月目ということです。ですから、イエス様とバプテスマのヨハネは6ヶ月違いに生まれたということになります。このころマリアはナザレという村に住んでおりまして、ヨセフというダビデの家系を持った男性と婚約しておりました。当時のユダヤの習慣では、1年間の婚約期間がありまして、婚約は実際に婚姻関係にあると法律的にみなされていました。ですから、もし婚約期間中に、何か不都合があって、婚約が破棄されますと、女性は未亡人とみなされるわけです。それほどに、結婚というものを重んじていましたし、夫婦関係というものに神と人間の深い関係を意味するものとして大切にしていました。もちろん、この婚約期間は、手をつないだり、デートをしたりすることも禁じられていまして、それぞれ自分の家で、来るべき新しい生活についての訓練と教育を受けて過ごしいました。

そういう聖別された大切な婚約期間に、こともあろうに、マリヤに子供ができたという大事件が起こったのです。その妊娠の知らせを、天使ガブリエルが現れてマリヤに告げました。天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。天使の働きは、神のみ言葉を届けることです。ですから、よく一緒に聖書を読んでいて、ふと全員が静まる時があります。そしてしばらく考える時があります。この沈黙の静かな時間の時を、エンジェルタイム、すなわち天使が働かれる時といいます。ですからこの時、あせって声を出したりせずに、しばらく沈黙の時を過ごしたほうがいいでしょう。そうしますと天使が誰かに、言葉を授けてその人が口を開いて神の言葉を取り次いでくれます。

このクリスマスのメッセージは、まず最初に「おめでとう!」です。しかも「恵まれた人よ。」と言ってくださるのです。ですからクリスマスの最初の挨拶は、「おめでとう」です。「メリークリスマス!」なんです。そして何がおめでたいのかと言いますと、「あなたは恵みを受けています。」ということです。恵みというのは一方的なプレゼントです。神様から、恵みというプレゼントを受けているのですよ、これがクリスマスの挨拶です。

そしてわたしたちはこの時季に、クリスマスプレゼントの交換をします。そしてそのプレゼントの起源は、神様からの一方的なプレゼントです。わたしたちのお返しのプレゼントはいりません。恵みというのは片方が片方に、一方的に与えるから恵みというのではないでしょうか。もし、お返しをしたら、恵みではなくなります。わたしたちは受け取るだけなのです。何を?それはもちろん神様からの一方的なプレゼントであるイエス・キリスト様です。わたしたちは何かもっと目に見えるものがほしいですよね。でも神様からの一方的な恵みのプレゼントは、目には見えませんが、最高の価値のあるものです。

それが次の「主があなたと共におられる。」という言葉です。そうなんです。クリスマスの最大のプレゼントは「神様がわたしたちと共におられる。」ということです。英語では「The Lord is with you!」です。神様がわたしたちと共におられる。神様があなた方と共におられるという恵みです。これが神様からのわたしたちに対する最高の恵みの贈り物です。
目に見えませんが、確実に主が共にいてくださるという約束です。

わたしたちの生活が良くなった、持ち物が増えた、病気が治った、収入が増えた、子供たちも元気だという生活上のいろんな目に見える神様の恵みもあります。でも、一番大きな恵みは、たとえどんな状況の中でも、何があっても、困難や病やトラブルがあっても、神様が共にいてくださる、わたしのそばにおられれ、傍らにいてくださる。これが何よりも最大の恵みではなのです。

わたしたちの人生の中で、神様が見えないような時もあります。見捨てられてしまったような時や、失敗してしまったて落ち込んだり、引きこもったりする時もあるでしょう。でもそういう時こそ、「主はあなたと共にいる、インマヌエルの神」なのです。詩篇73:28にも「しかしわたしにとっては、神に近くにいることが幸せなのです。」(新改訳)とあります。人間にとって一番の幸せは、神様の近くにいることなのです。そしてこれが恵みであり、おめでとうなのです。

2.神にはできないことはない

「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたはが、身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子といわれる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にはできないことは何一つない。」(ルカ1:29~37)

天使の突然の「おめでとう!」の言葉に、マリアは驚きました。いやむしろ驚くというよりは、聖書を見ますと、「戸惑い、考え込んだ」とあります。口語訳聖書では、「ひどく胸騒ぎがして、思いめぐらしていた。」となっています。戸惑いを英語の聖書では、ほとんどがTroubled となっています。つまりこの天使の祝福の言葉を聞いても、人間は最初は誰も信じられないで、困惑してしまうということです。しかも、天使の告げた言葉の内容は、もっと驚くべきことでした。それは、男の子を産むというショッキングなメッセージでした。

当時はこの婚約期間中は、もっとも清潔な生活をし、訓練と研修の期間でした。そういう大事な時期に自分が妊娠するということは、罪を犯すことであり石打という死刑にさせられても仕方のないほどの大罪でした。この出来事は、ザカリヤの高齢の妻エリザベトが妊娠するということよりも、もっと信じがたい出来事です。これに対するマリアの反応は、当然否定的なものでした。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」といいました。当然の答えです。しかし、天使はそのマリアの対応を見越したように、さらにマリアを説得します。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。・・・神にはできないことは何一つない。」と言葉を続けました。

マリアの当然とも思える反応に対して、天使ガブリエルはマリアを説得しようとしているように見えます。説明しています。それは夫婦の男女の関係によって生まれるのではなく、聖霊の力によって生まれるのであるといいました。そして親戚のエリザベトも、もうすでに神の奇跡によって妊娠していると告げました。そしてこの天使の説明によって、マリアの困惑が少しづつ薄れて、従う気持ちに変わって行ったのではないでしょうか。聖霊の力、それは神の力であり、その力によって自分が受胎するというのです。

これが現代人であり、しかもイスラエルの民ではなく異邦の普通の女性だったら、どうでしょうか。おそらく、いくら天使が言っても信じなかったでしょう。それは科学的に医学的にまったく考えられないことだからです。イスラエルの信仰のある従順な女性であるからこそ、かろうじて信じることができたのではないでしょうか。聖霊によって妊娠する。ある人は聖書からこの「聖霊によって妊娠する」という出来事と、「復活」という出来事を取り除けばわたしはキリスト教を信じますという方がいました。聖霊による受胎と復活、確かにこの二つの出来事は聖霊による出来事ですから、科学的にも医学的にもどうしても証明できないことです。

でもだからこそ、そこでこそ「信じる」という行為が必要なのです。自然の世界でも人間の理性ではどうしても信じられないことがあります。すべてが人間の理性の範囲内にあるとは限りません。人間の理性を超えた世界、神の世界、神秘の世界、霊の世界があるのです。それは信じることによってしか悟ることができません。あの科学の粋を究めた、宇宙飛行士でさえ、あの宇宙空間の何もない真っ暗闇の中に浮かんだとき、神の存在を感じたといっています。最初の宇宙飛行士が、宇宙船の中から地球を見たと気に入った言葉が、「はじめに神は天と地を造った。」という創世記1:1のみ言葉でした。科学者であればあるほど、宇宙や自然の神秘とか本能というものを知っているのではないでしょうか。

昨日の子供クリスマス会は、まさに「神にはできないことない。Nothing is impossible with God」のような気がしました。神にはできないことはありません。神様はすでにわたしたちのために、想定を超えたすばらしいことをご計画してくださっているのです。後はわたしたちが、その神様のご計画に従って信仰をもって従うかどうかです。一歩信じて従うとき、まず一歩進み出るときに、そこに奇跡が起こるのです。軌跡を見てから行動を起こすのではありません。見ずして、たとえ目の前にいろんな困難やトラブルがあっても、一歩足を踏み出すときにそこに道が開けてくる世界なのです。

クリスマスは聖霊様の出来事です。聖霊様が働かれます。ですからぜひ祈ってください。聖霊様に対して。「聖霊様、どうかわたしたちの間に働いてください。あなたが一人一人に息吹を送って力を与えてください。マリアのような信仰を与えてください。神にはできないことないと信じさせてください。聖霊にゆだねて、神を信じて行動を起こす信仰の力を与えて下さい。」と祈りましょう。昨日の子供クリスマス会は本当に神様の働きでした。
スタッフ一同驚きながら、神様に感謝の祈りをささげて子供クリスマス会を閉じさせていただきました。

3.わたしは主のはしため

最後に、わたしはもう一つ、マリアの信仰のすばらしい点いついてお話したいと思います。この1章にはちょうど神様の奇跡の業をめぐって、二人の人が出ています。一人はマリアですが、もう一人は先週学んだ祭司のザカリヤです。ザカリヤは、神の約束の言葉を信じることができずにしるしを求めたので、口が聞けなくなってしまいました。一方マリアは、同じような御告げを受けましたが、天使の言葉を信じました。どちらも自分の状況を考えれば、天使の声は青天の霹靂でした。マリアは、まだ結婚もしていないと言いました。ザカリヤは、自分はもう年をとり過ぎているといいました。どちらも現実を見た場合に言った当たり前の反応です。

でもこの二人の違いがあります。ザカリヤは、祭司でありながら信じなかったので、口が利けなくなりました。しかし、マリアは信じがたいことはありましたが、その場でガブリエルの前に、信仰をはっきりと言い表しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。I am the Lord's servant. May it be to me as you have said 」(1:38)マリアとザカリヤはどこが違ったでしょうか。もちろんザカリヤも後で、神様の哀れみを受けて口が利けるようになりましたが・・・。

やはりマリアのすばらしいところは、ザカリヤに比べて、主の前にへりくだったからでした。従順な信仰、純粋な信仰、謙遜な信仰をマリアは持っていたのです。自分を主のはしため、奴隷ですと告白して、主なる神様のみ言葉に完全に服従したのです。しかもザカリヤ夫婦に比べたら、もっと信じがたい約束でした。高齢者が出産するとうことは、まれにはあるでしょう。でも未婚の女性が結婚もしないうちに、男女の関係もないうちに聖霊によって妊娠するということです。逆立ちしても信じられないことです。でも彼女は、主なる神様のはしためですと告白して、その信じがたいとんでもない御言葉に従ったのです。
「お言葉どおり、この身になりますように。」このへりくだった心こそがマリアのすばらしい信仰ではなかったでしょうか。

わたしは主のはしためですと、自分を主の前に低く置いて、本当に無価値な自分、何もない自分、無力な自分、自分の限界を知っているものであるからこそ、素直に従うことができたのではないでしょうか。自分の限界、自分の死を知ったものこそ、後は主に従うしかないと思って一歩主の目に従う決心へと導かれたのではないかと思います。わたしは小林さんも、やはり自分の限界、自分の弱さというものを目の前にしたからこそ、マリアのように素直に主に従うことができたのではないでしょうか。これからの人生を主にゆだねる決心へと導かれました。わたしたちは、昨日の子供クリスマス会といい、小林昭治さんの信仰決心といい、本当にクリスマスの恵みのプレゼントを神様方いただいたような気がしてなりません。すばらしい主からの恵みを、感謝しつつこのアドベントを過ごしてまいりましょう。(岡田 久)

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