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神と共に歩んだノア (創世記6:5~22)

メッセージ
2017年8月6日富里キリスト教会

「神と共に歩んだノア」
(創世記6:5~22)

1.神の後悔と痛み

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這う物も空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の行為を得た。」(創世記6:5~8)

ここに神様が人間を造ったことを後悔したとあります。そしてこの神が創造された人間の罪の原因は、アダムの犯した原罪によるのですが、その後も人は神様の御心に反したことをし続けています。6:2に「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだものを妻にした。」とあります。言い変えますと、「神の子(=クリスチャン)」は、同じ信仰のあるものを妻に選ばないで、自分たちの目で見て美人であったり、スタイルが良かった未信者の娘たちを妻にしたということです。アダムとエバのように、信仰を共通とした結婚関係ではなく、おいしい木の実、美しい木の実に手を伸ばしてしまったエバのように、自分の目に見て美しい女性と結婚するようになったのでした。この神が一体とさせて下さる夫婦ではなく、人間が自分のこの実によって夫婦になるという所から、人間の社会生活が崩れて行きました。

そして地上に悪がはびこり、人間の心もいつも悪いことばかりを思いめぐらしているものですから、神様も人間を造ったことを後悔し、心を痛められました。わたしたちからみますと、天地創造をされたお方が、自分で造っておきながら、後悔をしたり、心を痛めるというようなことがあるのだろうかとつい思ってしまいます。わたしたち人間は、戦争や不条理なことが起こりますと、「これでも神はいるのか!」と神様に向かってどなりたくなります。でも、わたしたちが心を痛める前に、神様御自身が先に後悔をし、心を痛めておられるのです。

もともと大いなる愛の故に、天地万物を造られ、すべてのものを人間に与えて下さったお方ですが、その神の作品である人間が悪を行い、悪いことばかり考え、堕落の一途をたどって行くのを見るに見かねたのではないでしょうか。人間は自分の自由意思の故に、自分で自分の道を選ぶことができるようになりました。でもそれは悪の道です。善には向かないのです。善悪を知った人間は自分にとっての善だけを考えるようになりました。自分中心、自分ファーストなのです。結婚においても自分の好む女性を選んで、神中心、信仰を第一としないで結婚しました。それは結婚生活の乱れから始まったと聖書は記しています。

そして神は人間を造ったことを後悔しました。人間に善悪の判断を委ねてしまったことを後悔したのです。結局は善を取らずに、悪の道へ悪の道へと走って行ってしまったからです。それが今日の世界です。どんなにかその心が痛み、傷ついたのでしょう。人間が人間を憎み、平気で殺し合う世界です。自分にプラスになるものだけを味方にして、異を唱える者を敵にしてしまう世界です。お互いに、相手も同じ神に造られた被造物だと言うことを忘れてしまっています。

「弱者を虐げる物は、造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は、乏しい人を憐れむ。」(箴言14:31)「貧しい人を嘲るものは、造り主を見くびる者。」(箴言17:5)このように自分中心の善悪の判断をする世界は、神なしの世界、比較と競争と弱者を虐げる世界、強者の世界となって行きました。あくまでも自分中心ですから、他の人間や民族も同じ神に造られた被造物であり、兄弟姉妹なのだという視点がなくなってしまったのです。民族意識の高揚と、他の民族への侵略です。

このような世界を御覧になって、神様は心を痛められました。それは、親に反抗して悪の道を突っ走り、堕落の一途をたどっているわが子を見る想いです。そして、それらを地上から一掃しようとされました。自分が腹を痛めて産んだ子供を、自分の手でぬぐい去ることをすることほど、どちらにとっても残酷なことはありません。まだ回心の見込みや、反省して更生する可能性があるならばいいのですが、「すべて肉なるものは堕落の道を歩んでいた。」とありますから、人間の側にはもはや弁解の余地もないほど堕落しきっていたのではないでしょうか。

2.主の恵みを得たノア

この悪に満ち、堕落の一途をたどっていた世界の中でノアだけは、神の好意を得たのです。「しかし、ノアは主の好意を得た。これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。」(6:8~10)
神様が心を痛められて、人間を造ったことを後悔しておられ、この地もろとも人間も被造物もすべて滅ぼそうと決心した時に、ノアだけは、神の行為をいただいたのです。この8節の「しかし」に、神様の憐みがあるような気がします。

どうしてノアだけが、選ばれたのでしょうか。それは他に地上に神に従う人がいなかったと言うことです。ノアは当時にはまれなほど、無垢で純粋な信仰を持った人物でした。一途に主に従い続けた人です。9節に「ノアは神に従う無垢な人であった。」とあります。またその後には「ノアは神と共に歩んだ。」とあります。そして22節には「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」とあります。本当にこの堕落した時代にあっては、稀有なほど信仰を持って主に従い続けた人でした。

しかしこのノアも、洪水の後にどんなことがあったかと申しますと、実はぶどう酒を飲みすぎて、真っ裸になって寝てしまったのです。人生最大の困難と奇跡を経験して、その後主の祝福を受けて幸福な生活をしていたのでしょうか。つい油断して、その醜いだらしのない裸の姿を息子たちに見られてしまいました。人生の最後に、酒、アルコールで酩酊し、晩節を汚してしまうとう苦い経験をしました。(創世記9:21)あのイスラエルの王、ダビデやソロモンでさえそうです。所詮人間です。土の塵から造られ、霊が去ると元の土に帰って行く空しい人間なのです。あの偉大で信仰を持ったイスラエルの王たちも、罪を犯してしまいました。

でも、そういう不完全な、ちょっと気を許せば罪を犯してしまうような弱い人間でありましても、神様はそういう人間に憐れみをかけて下さったのです。それがこの8節の「しかし」という言葉ではないでしょうか。わたしたちの価値の無さ、弱さ、はかなさ、罪深さににもかかわらず、神様の側からの一方的な恵みによって選んで下さったのです。これが神の恵みであり、選びであり、救いなのです。ちょっと油断すれば、ついアルコールに手が行ってしまう。女におぼれてしまう、酩酊して裸で恥をさらけ出してしまう弱い人間なのです。それでも、恵みを持って救いの箱舟に入れて下さった、これが神の「しかし」であり、主の恵みの好意なのです。

ですから、わたしたちがこうして今、滅びに向かっている時代の只中で、神様に選ばれて、神様の好意をいただいて救いの箱舟に入れていただいているのは、神様の側の決断であり御意志なのです。わたしたちが特別よい人間だから、品行方正で正しい人間だから選ばれたと言うことではないのです。神様の選びであり神様の一方的な御好意であり、神様の恵みなのです。ですから、ノアは神に従う無垢な生き方を目指し、神様と共に歩んだ信仰者となったのです。

わたしたちが、やがて主の前に出て問われる時には、たくさんの魂を救ったとか、教会を何軒も立てたとか、たくさんの献金をして伝道を発展させたとかと言うことではありません。慈善事業をして善行を積んだということではありません。大事なことは、「神と共に歩んできた」ということなのです。たとえ病気になっても、事業を失敗しても、家族と離散しても、大事なことは「あなたは神と共に、今までの人生を歩んできましたか?」と言うことなのです。

神と共に歩む人生です。Noah walked with God. Enoch walked with God.
I walked with God. You walked with God です。山あり、谷あり、上り坂あり、まさかのある人生です。成功もあり、失敗もあり、賞賛もあり、侮辱もある人生です。ただ大事なことはいつでもどこでも、ただ一つ、神と共に歩むことです。これがノアの人生ではなかったでしょうか。わたしたちはそのような神様の恵みをいただいているのです。滅びの渦から救われて、ただ一方的に神様に目を掛けていただいていると言うことなのです。

ですからノアは、ただひたすら神様の命じる通りに、箱舟の建造に精を出しました。海のそばではありません。山の上です。ドッグや機械やクレーンもありません。ただ神様が教えられた通りに、黙々と自分たちの手で船を造り続けたのです。周囲からは、嫌がらせやからかいの言葉が浴びせかけられたでしょう。後ろ指を指されながらも、黙々と神様の命ぜられるとおりに造ったのです。親戚や友人が去って行き、周りから気違い呼ばわりされようが、ただひたすら神様の命じられたことに専念した人生でした。これが神と共に歩む人生です。

3.イエス・キリストの箱舟

最後にノアの箱舟についてみてみたいと思います。この時神様はノアに、大洪水を起こすとは言っていませんでした。ただ箱舟を造りなさいと言って青写真を教えてくれました。幅23メートル、高さ14メートル、長さが140メートルです。相当大きな船です。船の材料は、ゴフェルという固くて水を通さない松のような木です。そして船の内側にも外側にも、タールを塗って防水加工をしました。舟の中は三層構造にして、鳥類、哺乳類、爬虫類の三つの動物が棲めるようにしました。更にたくさんの小部屋を造りましたが、これは動物の種類ごとに棲み分けをしました。

更にこの三層構造と小部屋構造は、船の強度を増すことにもなります。少しくらいの波や岩には壊れないようにしました。そして箱舟の上に明り取りの窓を造り、船の側面には入り口を造りました。おそらく入り口は船の吃水線の上にしたのではないでしょうか。最後にノアの家族八人が箱舟に入りました。ノア夫婦と息子夫婦の計8人です。ここから、大型の船を表す漢字には、「船」という字を使うようになりました。つまり、「舟」と「八つの口」が一緒になって「船」という漢字になったのです。

この箱舟が現代の何を表しているのかと考えてみましたら、教会を表しているのではないかと思いました。ゴフェルの木と言いますのは、イエス・キリストの十字架の木を意味し、小部屋は個々の教会かあるいは個々のグループを表します。タールはこの世の誘惑の水漏れを防ぐ聖霊の油、明かり取りは天に開いた神の通路としての礼拝や祈り、そして救われたものが入ってくる入口の戸は十字架の形をした扉ではないだろうかと想像しました。

信仰によってバプテスマを受けた者が入って行くところ、それがキリストの体である教会であり、このキリスト十字架と復活を示すバプテスマが、大洪水を意味しているのではないでしょうか。キリストと共に水に沈んだものは、またキリスト共に復活するという信仰共同体、これがノアの箱舟の意味するところではないかと思いました。

このノアの洪水のことをペテロは、こう理解しています。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかったものです。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もってあらわされたバプテスマは、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。バプテスマは、肉の汚れを取り除くのではなくて、神の前に正しい良心を願い求めることです。」
 (Ⅰペテロ3:19~20、P432)

当時、「洪水が来るから早く箱舟に入りなさい」とノアが人々に向かって宣教し、警告しました。しかし、人々はノアの言葉を通して語られたキリストの言葉に、聞き従わなかったのです。そして大洪水が来て溺れて死んでしまいました。しかしノアを通して語られたキリストの言葉を信じて従った者、すなわちノアの8人の家族だけが救われたのです。いったん洪水と共に死んでしまいましたが、彼らはその信仰によってキリストの復活に与かって浮かび上がったのです。

ですから、この時の大洪水は、罪を犯し続け堕落の一途をたどっていた人々に対する神の警告でもあったのです。おそらく溺れて死んでしまった人々は、ノアのこの工事を嘲り、最後まで悔い改めることをしないで乗船することを拒んだ人たちではないでしょうか。神様は大雨と洪水がやって来るまで、船の入り口を開いておりましたが、誰も入ろうとはしませんでした。そして最後の最後に、箱舟の扉を御自分で閉ざされました。

今の時代もそうです。人々の悪と罪が増大し、堕落の一途をたどっているような気がしてなりません。将来は良い世界、平和な明るい未来ではなく、神の悲しみの最後が待っているような気がしてなりません。しかし、神はその最後の切り札としまして、御自分の御独り子イエス・キリストを遣わされ、キリストの十字架と復活を通して、人々をこの罪の世から救い出して下さいました。神の悲しみは、滅びゆく人間に対する悲しみでもありますが、御自分の御独り子イエス・キリストの十字架の苦しみを見なければならない悲しみもあったのではないでしょうか。わが子を見捨るほどに、神様は御自分の悲しみを私達に向けて、今なお忍耐されておられるのです。

イエス・キリストの十字架は、父なる神様の愛の悲しみのような気がしてなりません。まだ箱舟の扉は閉じられていません。雨が降って水は出て生きていますが、まだ扉は閉ざされていません。まだ間に合います。主は一人でも多くの人が箱舟に逃げ込んできて、キリストの十字架と復活のバプテスマにあずかることを願っておられます。イエス・キリストの十字架と復活が、ノアの救いの箱舟なのです。主なる神は今も、語っています。「罪を悔い改めて、本心に立ち帰り、主イエス・キリストを信じなさい。」と。入り口の扉を閉じる前に、一人でも多くの人が箱舟に入ってくることを願っておられます。

そしてわたしたちも、ひたすら主の御言葉を信じ、これに従って行くものになりたいと思います。22節に「ノアはすべて主が命じられたとおりに果たした。」という御言葉にある通り、最後まで御言葉に従って行くものでありたいと願っております。そして、最後まで神と共に歩む人生でありたいと願っています。その時に、主は必ず家族も救ってくださると信じます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒言行録16:31)の御言葉の通り。                  

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